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「ノア公爵夫人ではなくなるという話を耳にしたもので」
「あら、もうご存じでしたの?」
夫人は困ったというよりはむしろ喜色を滲ませて鈴のように笑う。
「次のお相手はもう決まっているのですか?」
「……さあ、どう思われます?」
互いの胸内を測り合うような大人の会話。
率直ではなく互いにどこか思わせぶりな。
もうこれ以上は聞かないほうがいい。
聞けば、今まで信じてきた世界が全て崩れてしまいかねない。
耳を塞ごうと思うのに、身じろぎ一つできない。
大げさなほどの震えが全身へと拡がっていくだけ。
「どちらにしても、魅力的な殿方のお誘いなら断れませんわ。
陛下のように」
濡れた目で夫人は彼をじっと見つめると、笑いを含んだ声を潜めた。
「……そろそろ第二夫人をお探しですの?
ここだけの話、失礼ながら彼女に貴方ほどの紳士を満足させられるとは到底思えませんもの」
(第二夫人!?)
思いもよらなかった言葉が彼女の唇から零れ出てきて、一瞬頭の中が真っ白になる。
(どういう……こと?
ディランは……一夫多妻制!?
そんなまさか……だって彼はそんなこと一言だって)
鈍器で頭を殴られたかのような衝撃に加えて耳鳴りがして、全ての音が瞬く間に遠のいていく。
まるで心が全力で私を恐ろしい現実から切り離そうとするかのように。
茫然自失となりながらも、心のどこかで冷静にこの事実を俯瞰してみているもう一人の自分がいた。
(でも、だとすれば……全てに筋が通る……)
別に第二、第三と妻を娶れるのであれば、一人くらい私みたいに特に何の取り柄もない妻がいてもおかしくはない。
後先考えずに勢いでブロポーズ、婚約、結婚したとしても、その後で何度もやり返しがきくのであれば積極的になれるだろう。
確かに彼はディラン帝国では不貞や離婚は認められないと言っていた。
だけど、考えてみれば、二人以上の妻を娶ってはいけないとは一言も言っていない。
(ああ……そういうことだったんだ……)
足下を掬われたようでいて、ずっと胸にひっかかっていた疑惑の念からようやく解き放たれたような心地にもなる。
ずっとずっと不安だった。
本当に自分なんかが彼にふさわしい人間なのかと。
それでも、彼の真摯な愛の囁きに支えられ勇気づけられてようやくここまでやってくることができた。
彼を信じて。
彼のひたむきな愛に少しでも応えることができたならと願いながら。
(夢はいつか醒めるものだって分かっていたけれど、こんなにも短い夢だったなんて。
陛下はもう夢から醒めてしまって次の夢に向かっていたなんて)
永遠なんてものはないと頭では分かっていても、いつの間にか信じていた。
身も心も焼き尽くすような彼の愛情に感化されて。
だけど、友美も言っていたけれど男の人の本性は狩人。
一度獲物を手に入れてしまえばそれで満足してしまう。
女とは違う生き物。
耳に痛いと思っていた理由が、ようやく身に染みて分かつたような気がする。
(……陛下がつれなくなったのも……私に飽きてしまったから……次の獲物に興味が移ってしまったから……なんでこんな簡単なことに気づけなかったんだろう……)
彼女にも私と同じように愛の言葉を囁くのだろうか?
それを思うと同時に、くるおしいほどの嫉妬の炎が胸を焼き尽くす。
そんなの耐えられるはずがない!
目の前が真っ暗になった私は、立ちくらみを覚えて壁にすがるように身を預けた。
と、そのとき、私の身体を支えるはずの壁が軋んだ音をたてて後ろへとずれていく。
『っ!? 和!?
駄目っ!』
(……っ!? しま……った……)
友美に小声で叱責されて後ろに引き戻され、ようやく私が身体を預けてしまったのは壁に見せかけた隠し扉だったのだと気づくもすでに遅かった。
扉は軋んだ音をたてて開いていく。
刹那、
「ナゴミ!?
なぜここにっ!?」
珍しく逼迫した鋭い彼の声が耳に突き刺さる。
だけど、私はその場に座り込んだまま身動き一つできずにいた。
胸に風穴が空いたかのように何も感じない。
もう何も見たくない。
聞きたくない。
感じたくない。
心も身体も現実を激しく拒絶していた。
このまま消えてしまいたい。
と、そのときだった、今まで艶やかに振る舞っていた女が、突如歪な笑みを浮かべて私に掴みかかってきた。
いつの間にか手にした小さな香水瓶を私に向かって突き出してくる。
「ナゴミッ!」
彼が怒号もろとも彼女の手を払いのけ、香水の瓶は宙を舞っていった。
全てがスローモーションのようにゆっくりと動いていて、それを私は他人事のように眺めていた。
瓶は少し離れたところで乾いた音をたてて粉々に砕け散る。
「……ッ!」
彼が何事かを現地語で叫び、私に覆いかぶさるようにして彼女から庇った。
次の瞬間、ドアが蹴破られると共に武装した警官が部屋へとなだれ込んでくる。
鋭い現地語が飛び交っているけれど、まだ片言しか分からない私には一体何が起きているか分からない。
ただ魂の抜け殻のようになった私の身体を、彼は息もつけないほどきつく抱きしめて耳を塞いだ。
ややあって、塞がれた耳に乾いた音が届いた。
まるで時間が完全に止まったかのよう。
あれだけの騒ぎが一転して、異様な静けさに場が支配される。
一体、何が起きたのだろう?
思考が完全に停止してしまって、身動き一つできずにいる私に彼が穏やかな低い声で囁いてきた。
「もう大丈夫だ。
全て終わった」
と。
何が、終わったというのだろう?
私と彼との関係が?
それとも?
とりとめもない考えが千々に乱れて、私は返事もできずに胸を押さえてうずくまる。
そんな私の身体を横抱きにして彼はその場に立ち上がった。
私の頭を自分の肩口に押し付けるようにして。
まるで何も見てはならないとでも言うかのように。
何か私の想像もつかない恐ろしいことが起きたに違いない。
ようやくそう思い至るや否や、全身の血の気が今更のように引いていく。
震える私のこめかみに口づけると、彼は再びものものしさを取り戻した部屋を後にした。




