5
拳が振り降ろされることはなく、代わりに頭上で低く重い落ち着き払った男の人の声が聞こえた。
仲裁するような調子の声色を耳にした瞬間、心臓がドクンと高鳴る。
男の人なのにこんなに色っぽいと感じる声は初めてだった。
「……?」
一体何が起こったのか分からず、恐るおそる目を開いてみると、振り上げられたままのマダムの手を掴む一人の紳士の姿があった。
短い銀髪をオールバックにした背の高い紳士。
広い肩幅とがっしりとした体躯を皺一つない高級そうなダブルのスーツに包んでいる。
ダークグレーのスーツにブラックのシャツ、アッシュブラウンのネクタイの組み合わせから洗練された雰囲気が醸し出されている。
高い鼻の両脇、意志の強さを感じさせる凜々しい眉の下は彫りの深い顔立ちから成る影がかかっている。
そこに強い目力を持つ緑灰色の双眸が煌々と輝いていた。
ハリウッドの俳優とも見まごうかのような整った顔立ちに思わず見入ってしまう。
年は一回り上くらいだろうか?
全身から大人の渋さが滲み出ていて、ロマンスグレーという言葉が実にしっくりくる。
腕を掴まれたマダムはその場に石のように固まっていたが、紳士が諭すような口調で二言三言語りかけると、何やらブツブツと毒づきながらも顔を真っ赤にして足早にその場を立ち去っていった。
現地語のやりとりなため、私には何が起こったかさっぱり分からない。
いや、英語でも聞き取れたかどうかは疑わしいけれど。
とりあえず、なんとか場は収まったようで、親子連れが何度も頭を下げてお礼らしき言葉を口にして安心した様子で立ち去っていくのを見送っていると、紳士は私に流し目をくれた。
「大丈夫かね?」
「っ!?
は、はい!
す、すみ……ません」
低くて渋い声色にやはり胸が高鳴り、慌てふためきながら素っ頓狂な声で応じる。
って、あれ!?
日本語?
驚きが顔に出てしまったのだろう。
紳士はフッと表情を緩めて肩を竦めてみせると、私の疑問に答えてくれた。
「こう見えて、学生時代は日本に留学していたものでね」
「なるほど、そうだったんですね」
留学どころのレベルじゃなく流暢な日本語に驚くも、なんだかものすごく久しぶりに聞くような感じのする母国語に、もろもろのアウェイ感だとかさっきのいざこざだとかで張りつめきっていた緊張の糸がブツリと途切れて、その場にへたり込んでしまいそうになる。
「なるほど、大丈夫ではなさそうだな」
「い、いえ……その、なんだかホッとしてしまっただけで……すみません」
紳士に身体を支えられ、申し訳ないと思いながらもその逞しい腕にすがってしまう。
彼は黙ったまま私を支えると、近くのテラス席の一つに座らせてくれた。
すぐさま給仕の女性が緊張の面持ちで水を運んできたかと思うと、私にではなく彼に恭しく手渡す。
彼はグラスから水を口に含むと、私を上向かせた。
緑灰色の瞳に射すくめられ、今度は私が石化する番だった。
宝石のような透き通った瞳の奥底に熱い炎が揺らめいているように見え、我を忘れて吸い込まれそうになる。
と次の瞬間、唇に驚くほど柔らかな感触が触れてきて我に返る。
(う、そ!?
キスされて)
すぐ近くに彼の整った顔があった。
遅れて唇の隙間から冷たい水が流れ込んでくる。
「ンッ!?
ンン……」
頭の中が真っ白になって、口移しで水を飲まされていると理解するのに時間がかかる。
気が付けば、とろみを帯びた水と共に湿った柔らかな舌までもが差し入れられていた。
あまりにも官能的なキスに眩暈がする。
頬が熱を带び、その熱が頭にまで伝わっていき全身が火照る。
初めて訪れた遠い外国で、見知らぬ紳士にキスされている。
にわかには信じがたい現実をなかなか受け入れることができない。
驚きと戸惑いに反応が遅れ、もはや抵抗することもできない。
彼の舌は巧みに私の舌を捉えてきて絡んでくる。
そのたびに甘い疼きがはしり、蕩けてしまいそうになる。
「は……あ……ん、んぅ……んん……」
甘ったるい鼻にかかった声を漏らしてしまい、羞恥に火照りがいっそう加速する。
これがきっと大人のキスなのだろう。
情熱的な動きを見せたかと思うと、不意に動きを止め、唇の表面同士をスライドさせるように合わせてくる。
余裕を滲ませた舌使いに焦らされ、我を忘れて自ら舌を絡めてしまう自分が自分ではなくなってしまったみたいで、熱に浮かされたようになってしまう。
ホテルのテラス席でこんなにも堂々と唇を奪われるなんて思いもよらなかった。
心臓がくるおしいほど暴れているのは、その不意打ちのせいかそれとも……。
考える余地すらなく、私は大人のキスに溺れてしまう。
どのくらいそうしていただろう?
唇が熱を持ち、痺れてくるようになってようやく彼は顔をあげた。
自分がどんな顔をしているか分からないけれど、きっと身も心も瞬く間に蕩けさせられたことに感づかれてしまうに違いない。
咄嗟に私は彼から顔を背けてしまう。
すると、彼は私の耳元に口を寄せて囁いてきた。
「私の部屋に来るかね?」
「っ!? え?」
思いもよらなかった言葉を耳元に囁かれ、その艶めいた声色と内容とに心臓が強く脈打ち一瞬息が止まるかと思った。
い、今の一体どういう意味?
彼の部屋にって!?
いやいやそんないきなり……ありえないし!
きっと私を気遣ってくれてのことで少し休ませてくれようとしての申し出に違いない。
他意はないはず。
って、他意とか……地味で平凡な私にこんな立派な紳士が……とか、恥ずかしい勘違いにも程がある。
そう思い直すも、心臓は早鐘を打ち続けたまま。
私はこわばりきった声で紳士に答えた。
「い、いえ!
もう大丈夫ですから……お気遣いなく!」
「大丈夫そうには見えないが」
くすりと目を細めて微笑むと、彼はなんと私の身体を軽々と抱き上げてしまう。
「っきゃ!?」
いきなりのいわゆるお姫様抱っこに私はパニック状態に陥った。
「降ろしてください!
お、重い!
重いですから!
本当に!」
手足をじたばたさせて彼の腕から飛び降りようとするも、こめかみに口づけられて無言でたしなめられてしまう。
「もう少し君のことを詳しく知りたいと思ってね」
「私の……こと?」
思いもよらないことを熱いまなざしと共に告げられ困惑する。
「いや、私なんてそんなに珍しくもなんともないですから!
ただのブラック企業勤めの平社員ですし……いや、ただ以下かも!?
じきに元平社員になるかもしれないダメダメな人間ですし……」
あああ……勝手に口が動いて、ものすごく恥ずかしいことを口走ってしまっている気がしてならない。
「自分の価値は他人が決めるものだ。
君はどうも自己評価が低すぎるようだ」
「っ!?」
彼の言葉に痛いところを突かれたような気がして、思わず言葉に詰まる。
「私の部屋でお茶でも一緒にどうかね?」
「お、お茶……だけですか?」
「ああ、君がそう望むのなら」
「……」
お茶だけなら別に……そう自分の胸に言い聞かせる。
こんな素敵な紳士とお茶をする機会なんてきっと一生に一度くらいしかないからと前向きに、危険な予感をねじ伏せて。
彼の意味深な口調に隠された本意に気が付かないフリをして……。




