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「ついに……来ちゃった……」
分不相応なラグジュアリーホテルのテラスにて、青い空にコバルトブルーのどこまでも透き通った海を眺めながら、私こと滝沢和は頰をつねりながら呟く。
夢でも見ているんじゃないかといまだに疑いながら。
うん、しっかり痛いのでやっぱり夢じゃない。
正真正銘、ここはヨーロッパの僻地にあるディラン帝国。
日本から飛行機の乗り継ぎを重ねに重ねて、ほぼまる一日移動に費やしてようやくたどり着くことができる知る人ぞ知る穴場的リゾート地であり近隣諸国を束ねている強国でもある。
富裕層をターゲットにした観光産業に力を入れているため、あまり大々的なPR活動は敢えておこなっていない。
というか、おこなう必要すらないといったほうが正しい。
そのため、私を含むいわゆる一般人には知名度が低い国だが、質の高い宝石が採れる鉱山が豊富でものすごく裕福な国らしい。
それこそドバイのような。
私みたいな超絶弱小ブラック企業に勤めるしがない平社員なんて場違いもいいところ。
なのにどうしてわざわざ?
って、正直言えば私が聞きたいくらい。
いろんな偶然が重なりまくって……うっかりこんなところまで勢いだけでやってきてしまったのだ。
もしも、あのときテレビをつけていなかったら、お酒を飲んでいなかったら……ブラック企業ならではの激務に疲れ果てて……もうこれ以上は無理! ってトコまで追い詰められてやむなく休職したばかりでやさぐれてさえいなければダーツなんかで旅の行き先を決めたりしなかったのに。
もちろん、ヨー ロッパの僻地に突き刺さったダーツを見なかったことにすることもできたけれど、せっかくのご縁だし、「まいっか!」と、酔った勢いでディランまでの航空チケットとホテルをネットで予約してしまったのだ。
やさぐれた酔っ払いの勢いほど怖いもの知らずはないかもしれない。
何せホテルは一番安い部屋でも一泊八万とかで……素面のときだったらとてもじゃないけれど予約しなかったはず。
お酒の力ってホントに恐ろしい。
普段飲み慣れていないくせにヤケ酒とかやめておけばよかった。
八万×五日で四十万……航空券はためていたマイルでまかなえたけれど、それでも宿泊代だけでお給料二ヶ月分はイタイ……イタすぎる。
お酒が抜けた翌朝、自分がやらかしたことに気が付いてものすごくへこんだけれど、もうカード決済をした後ではどうしようもないし……せっかくだから楽しむしかないと思い直して今に至る。
はずだったのだけど、のっけから天井には直径一メートル以上はあるシャンデリアに大理石の床、柱や壁には精緻な細工が施されている豪奢なロビーに完全に怖気づいちゃって正直、タクシーを降りてこれまた立派すぎるホテルの門構えを目にした瞬間、回れ右をしたほどだったけど、せっかくここまで来たんだし、もう決済も済ませているし……もったいなさすぎるという一心で突入した。
しかし、一歩ロビーに足を踏み入れるや否や、表よりもさらに煌びやかな別世界が広がっていて、もうワケが分からなくなって、チェックインの際も完璧にキョドってしまった。
ただでさえぎこちない英語に日本語混じりのやりとりでもたついてしまい、それを思い出すだけでも死にたくなる。
そんなこんなでようやくの思いで部屋までたどり着くも、ホテル側は遠方からの旅行者がよほど珍しかったのか、ご丁寧にアップグレードまでしてくれたようで……一番安くて狭い部屋のはずが、私が住んでるマンションのワンルームが軽く三つ分はあるだろう広さの部屋にダブルベッドにテラスつきというとんでもないものに。
だだっ広い豪華な部屋に一人きりというのも落ち着かなくて、ホテルの散策に出かけてようやくテラスに落ち着いた。
海を望む絶景を眺めながらマンダリンオレンジの輪切り入りのアイスティーを飲んで、ようやくひと心地つくことができたような気がする。
(ああ、海も空もすごく綺麗、もうじき夕暮れ時。
こんな風に空を見上げるのっていつぶりだろう……)
波が打ち寄せる音、潮の香りが混ざった風を感じながら、淡いピンクからラベンダーのグラデーションがかった空を見つめてリゾート気分に浸っていると、不意に鼻の奥がツンと痛む。
日本じゃ、早朝から夜中までの激務続きで、空を見上げる余裕なんてまったくなかった。
それが当たり前すぎて気が付かなかったけれど、今こうして日本から遠く離れた場所で空を見上げていると、いかにそれが異常なことだったか分かる。
労働基準法なんてガン無視、休日なんて週に一度あればまだいいほう。
でも、その異常としか思えない「当たり前」に他の社員たちは順応していて、でも昔から不器用すぎる私にはそれがどうにも難しくて休職に至ってしまった。
高校時代からの親友の紹介でかろうじて入ることができた会社だったのに。
それを思うだけで申し訳なさにいたたまれなくなってしまう。
親友こと友美に休職の本当の理由も告げずに逃げるように日本を発ってきてしまった。
ただのバカンスだって噓までついて。
友美のことだから、そんな噓とっくに見抜いてしまっているだろうし、きっとものすごく心配しているに違いない。
それと同時に、会社に私を紹介した手前、顔をつぶされたって怒っているかもしれない。
でも、何をしても優秀な彼女とは違って、ただでさえ不器用な私にとって、ブラック企業の激務は明らかにキャパオーバーだった。
どうしてもっと器用に立ち回ることができなかったんだろう?
友美の期待に応えることができなかったんだろう?
理不尽な雑務ばかりいやがらせのように大量に押し付けられても、社会人なんだから自分の食い扶持は自分で稼がないとって割り切って頑張ってきたつもりだったのに。
胸の奥がジクジクと疼き始めたちょうどそのときだった。
不意に背後でガタンという大きな音がした。
驚いて後ろを振り返ってみれば、小さな子供が椅子を倒してしまっていた。
お母さんらしき人が慌てて子供を止めようとしたが、子供はいたずらっぽい表情でその手をすり抜けてテーブルや椅子の下を這って逃げていってしまう。
たぶんまだ二歳くらいかな?
年の離れた末の弟の小さい頃を思い出して自然と頰が緩む。
いろんなものや言葉がようやく分かってくる頃で、いたずらは空気みたいなものでなくてはならないもの。
せずにはいられないもの。
多少は仕方のないこと。
まだまだあんなの序の口だし。
そう思っていると、ものすごく恐ろしい形相をしたマダムが席を立ち上がり、ヒステリックな声で親子連れを叱責した。
外国語なので、その鋭い罵りの内容までは分からない。
でも、状況からおおまかな内容な察することはできる。
子供を抱きしめたままその場で硬直する母親にマダムはなおも追撃の手を緩めずにここぞとばかりに食ってかかる。
子供はまさかこんな大事になるとは思いもよらなかったようで、今にも泣き出しそうな表情でうろたえていた。
それを目にした瞬間、まだ幼かった頃の弟の姿とだぶり、気が付けば私は席から立ち上がり、マダムと親子連れの前に割って入っていた。
「すみません!
でも、もうこれくらいでいいじゃないですか!?
まだ小さくて言葉も分からないんですから……どうか許してあげてください!
謝って気が済むのなら私がいくらでも謝りますからっ!」
頭に血が昇ってしまって、相手が外国人であるにもかかわらず日本語でまくし立てると深々と頭を下げ続ける。
いきなりのことにマダムは驚きながらも、それでもまだ納得できないようで引き続き私に罵声を浴びせかけてきた。
たぶん子供のしつけがなってないだとか、アナタは関係ないでしょうだとか、そういう類のことを言っているんだろうけど全然言葉が分からなくて逆によかった。
内容が分かっていたら、きっと余計に腹立たしさに拍車がかかったに違いないし、ひたすら謝り倒すということすらできなかったかもしれない。
とにかくこういう相手には謝り倒すに限る。
逆にそれしかない。
それがヤンチャな弟たちの面倒を見るときの最善策だった。
逆に真っ向からぶつかったほうが痛い目を見た。
いくら正論をぶつけてみても、「子供のくせに生意気だ」って言葉で一蹴されるのがオチだったし。
それがもう癖になっていて、今も言葉が分からない相手にも必死に頭を下げ続ける。
しかし、相手も負けじとしぶとく余計に声を荒らげて私に掴みかかってくるかのような勢いでまくし立ててくる。
眉間には皺が深く刻み込まれ、怒りと意地悪さが混ざり合ったものすごい表情。
鏡で自分の顔を見たことがあるんだろうか?
そう思ってしまうほど、醜い表情をしている。
そんな思いが思わず顔に滲み出ていたのかもしれない。
怒りくるったマダムが、ついに拳を振り上げてきた。
「っ!?」
殴られる?
咄嗟に顔面前で両手をクロスさせて両目をぎゅっと瞑る。
だが、そのときだった。




