しっぽ付きの悪役令嬢 ~ぽんぽこぽぉんですわ!~
――私、エスター・アニマールは公爵家の長女である。
「あなた、制服が乱れていましてよ。学園の風紀を乱さないでちょうだい」
隙一つなく背筋を伸ばし、私はびしりと伝える。叱責された女生徒は肩を震わせ、「も、申し訳ございません……っ!」と涙で瞳をうるませた。
私はつまらないものを見たとばかりに、ふん、と視線をそらし、その場を通り抜ける。
「……あの言い方。いくら第二王子の婚約者様といえど、横暴が過ぎますわ」
「そうですよ。それに少し胸元が開いているくらいの方がお可愛らしくてよ。気になさる必要はございませんわ」
「皆さん、ありがとうございます……」
聞こえないと思っているのか。それとも聞かせているのか。別にどちらでもかまわないけれど。
「エスター・アニマール……。さすが、悪役令嬢といわれるだけありますわね……」
その言葉が聞こえた瞬間だけ、ぴたりと足が止まってしまう。
一体、誰が言い出したのだろう。巷で流行する王子と庶民の恋物語の小説に登場する、二人を邪魔する女性を『悪役令嬢』というらしい。王子の婚約者で、高位貴族であるというくらいしか取り柄のない気位の高い女性。
言いたいやつは、言わせておけばいい。外から見ればそんな様子に見えたかもしれない。すぐに私は興味の失せた顔を作って、その場を去る。ため息まじりでスカートの裾を揺らし、ただ一人きりで学園の回廊を歩き、遠ざかっていく。……そんな姿を、銀髪の男性がじっとこちらを見ていることなんて、知りもせずに。
――自宅の屋敷に帰宅して、日課を終えて部屋に一人きりになった後で、ふとこのときのことを思い出してしまった。
「悪役令嬢、か……」
この私が小さく呟く声ですらも、多くの人を萎縮させてしまう。
仕方のないことなのだろう。私の表情一つでさえも他人に威圧を与えるように、厳粛な両親に、そう育てられたのだから。公爵家の令嬢として、また第二王子の婚約者としての威厳を持ち、王家の力となるようにと幼い頃から教え込まれた。私自身もそうあるべきと望み、努力を重ねたつもりだ。
だから。だから……。
「アアンッ!」
思わず恥ずかしくて、両頬に手を当てる。
おそらく今私は、真っ赤な顔になっているだろう。
「あ、あんな格好、嫁入り前の女性がはしたないですわ! と、殿方も見ていらっしゃいますのに!」
頬に手を当てたまま、いやいや、ぶるんぶるんと頭を振る。
胸元がわずかに開いた着こなしが貴族学園で流行っていることは知っているけれど、それでも限度というものがあるだろう。今日私が注意したご令嬢には婚約者がいたはずだ。万一、あんな奔放な姿を彼女の婚約者に見咎められたら……それは家同士の問題となってしまう。
「とはいえ、制服を素敵に着こなしたいというお気持ちは、とってもよくわかりますわ……。十七歳といえば、もう少しで大人の仲間入りですもの。私も、どうかしら、こうかしら?」
なんて言いながらドレッサーの前に移動して、ついつい、ちょいちょい、と制服を弄ってみる。そうした後で、ああ……と、重たいため息が飛び出てしまった。
「私ったら、毎度毎度、どうしてあんな冷たい言い方になってしまうのかしら……」
人前となると、どうしても公爵家の長女としての自分が表に出てしまう。もちろん、そうあるべきなのだから問題ないのだけれど、限度というものがある。私の婚約者、リューリ・レスツァイト様相手にも、そうだ。
リューリ様は銀髪の美しい髪と明るい金の瞳の持ち主で、いつも柔らかな空気をまとっている。人は自分にないものに惹かれるからか、私はそんな穏やかな彼のことが、好きで好きでたまらなかった。それこそ、初めて出会ったときから。
なのに、いつも可愛らしくもないつっけんどんな態度を取ってしまう。
昔はこんなのじゃなかったのに……と、幼い頃を嘆いても仕方がない。
もし私に犬や猫のようにしっぽが生えていれば、しっぽの動きでリューリ様のことを『好き』という感情を表すことができるのに。
外では仮面を作っているからか、こんなふうに、私の心の中はいつでも大暴れだ。そのことがさらに恥ずかしい。
「私も、少しくらい着崩した方が皆さんに気安く話していただけるのかしら? いえ、そういう問題ではないとわかってはいるんだけど。……なんせ私、『悪役令嬢』らしいですし……」
はあ、とぬるいため息が出てしまった。
せめてリューリ様に劣らぬように、みんなに親しまれる公爵令嬢になりたいのに。
目の前のドレッサーをしょんぼりと見つめてしまう。整っているがツリ目がちで、きつい顔立ちの自分が、同じくこっちを睨んでいた。しょんぼりした顔なのに、睨んでいるとはいったいどういう了見なのだろう。不思議でたまらない。
「うーん、せめて、ここを、こう……」と、私が奇妙に動く度に、長い金の髪も一緒にふりふりと動く。「いっそのこと、ずばーん、としてしまうのは……まあ考えるだけはタダですので……」なんて、意味もない独り言はいつものことだったのだけれど。
ぽこんっ……と、部屋の中で謎に聞こえた効果音は、まったくいつも通りではなかった。
「あら……? どこからか、妙に気の抜けた音が……?」
気のせいかしら、と私は周囲を見回す。私の外見には不相応な、ぬいぐるみだらけの可愛らしい部屋は、誰にも見せることもできないがいつも通りだ。うんやっぱり気のせいね、とドレッサーに再度向かう。すると……。
「あら? ふわふわの、何かが頭に……?」
さらさらとした私の金髪に、茶色いふわふわした何かが二つくっついている。こんな髪留め、使っていたっけ? と不思議に思って触ってみても取れない。それどころか引っ張るとちょっと痛い。「く、くっついてますの……!? いた、いたたた、いたたたたっ!?」そんなまさか、と思うのに、どれだけ引っ張っても取れない。右と左に生えた謎の物体を全力で両手で引っ張り、頭どころか私の顔までちょっと伸びる。
「だめだめだめ、これは駄目なやつですわっ」
悲鳴を上げて諦めたところで、ぽここんっ! と先程よりもさらに大きな間抜けな音が響き、ぶわんっとスカートが膨らむ。風もないのにどうしてスカートが!? と驚いて見下ろすと、そこにはやはり茶色く太い何かが……いやよく見ると、薄い茶色の先に濃い茶色が配置されている……しっぽ?
「……しっぽが、生えている……? え、あら? これは、耳……?」
しかも、犬や猫ではなく、おそらくこれは。
「……たぬき?」
――そのとき、アニマール家は震撼した。……私の悲鳴で。
「イヤアアアアア!!!!!!!!!」
私ってこんな大声が出たのね、と驚くばかりだったが、それよりも驚くべきことがあった。なんせたぬきの耳が生えている。しっぽが生えている。意識すると、触ると感覚があるし、しっぽを器用に動かすことができる。しっぽが動く度に、ぶおんぶおん、とバットを振ったときのように激しい音と振動が伝わった。いやそういう細かいことはどうでもいい。
私に、耳としっぽが生えてしまったのだ。なんでどうして。
「エスター!? 一体何があった!?」
「姉さま、いかがなさいましたか!?」
「お嬢様、まさか狼藉者が侵入しましたか!?」
私は自室を飛び出して、悲鳴を上げて廊下を駆ける。その度にばたんばたんと扉があいて、お父様、弟のルスト、使用人たちと、次々に顔を出す。中にはさすまたを持っている者たちまでいる。
「たぬきですわ、たすきですわ、たーぬーきーでーすーわー!?」
おそらくこんな全力疾走は人生においてしたことがないだろう。犬と猫ではなくあえてのたぬき。なんらかの呪いなのかもしれない。多分わたしはどうかしている。とうとう(たぬき耳としっぽのまま)私は談話室にたどり着いた。ぜえはあと絨毯に手をつき、震える私の背後から家族たちや使用人たちがわらわらと入ってくる。
「エスター! 大丈夫なの!?」
絨毯の上でぴくりとも動かない私に、真っ先に飛び込んできたのはお母様だった。酸欠で意識が朦朧としている私の肩に手を置き、「何があったというの!?」と心の底から心配してくれている母に、涙がにじんだ。
「無事なのか妹よ!」
普段は昼行灯なお兄様まで、血相を抱えて飛び込んでくる。侍女として私を支えてくれるアン、アニマール家に尽くしてくれている使用人たち……。ちょっとさすまたを持っている人数が多いけれど、みんな私を心配してここまで来てくれたのだ。なのに、なのに私は。
「お母様、私たぬきなの……!」
「はい?」
違う。直接的に言い過ぎた。
「たぬきの、耳が生えてしまったの……!」
大丈夫だろうか。私の涙まじりの声と、この呑気な台詞はミスマッチすぎるんじゃないだろうか。多分『たぬき』というところがよくない。もっとせめて、狐とかの方がよかった気がする。いや生やしたくて生やしたわけじゃないのだけれど。
案の定、お母様はぽかんと口を開いている。どうしたら伝わるのだろう、とさらに言葉を重ねようとしたとき、お母様の視線が私の耳に移動する。ちなみにこの耳とは本来の耳ではなく、もちろんたぬきの耳の方である。とてもややこしい。
ああ、これでやっと伝わった、とほっとしてすぐ。不思議なことに、お母様はにこりと優しく微笑んだ。いつもは厳格で、笑顔の一つもないお母様が、あんなに優しく――。
え、とわけもわからず瞬いたとき、「そう、エスター……。とうとうあなたも……」と謎の言葉を発した。
……とうとう、あなたも?
お母様は部屋に入ってきた家族や使用人たちに、ちらりと目配せをする。多くの人間が、小さくこくりと頷く。それはまるで、わかっている、とばかりに示し合わせた返答のように見えた。混乱しているのは私だけだ。
「……いい? エスター。気をしっかりと持ちなさい。今からあなたにアニマール家、そしてアニマール一族についての秘め事を伝えるわ。我が家は、多くの分家、血族がいることは知っていますね? アニマール本家に勤める者たち……その一人残らず、多かれ少なかれ、アニマール家の血がわずかにでも入っています。いうなれば、我らはアニマール一族なのですよ」
「は、はい、もちろんそれは知ってはいますが……」
通常の貴族ならば他家や平民から使用人を受け入れることもあるだろうが、我が家は全て一族のみでこの家を動かしている。たまに人が増えることはあっても、基本は幼い頃から一緒にいる家族のような存在だ。それの何が、秘め事だというのだろう。
「なぜアニマール家は、他家の人間を受け入れないのか。それは、我が家の特殊性にあります。アニマールの血を受け継ぎ、さらにその血が濃い者は思春期を迎えると……動物になるのです」
「…………動物?」
とても真面目な顔をして、お母様は語る。人間も動物の一種だとか……そういう系であることを願ったが、おそらくこの本気の瞳はそうではない。
「ど、動物に? 私のこのたぬきの耳も、その、アニマールの血のせいとおっしゃるのですか!?」
「ええ、そうです。かくいう私も」
「お母様も、動物に……!?」
こくりとお母様は頷いた。
信じられない。けれども、今の自身の状況と当てはめると、なんて力強い言葉だろう。
「そう、そうだったのですね……。私はてっきり、自分が呪われてしまったのかと……」
「呪いなど、そんなわけがないでしょう? まったく可愛い子」
安堵するあまりに両手を合わせて、涙をにじませる。するとお母様は優しく頭をなでてくれた。こんなのいつぶりだろう、と胸がいっぱいになっていく。
ああよかった、と思う心と、いや耳が生えたままなので全然よくないのでは? という心が闘っているが、今はとりあえず横に置いておこう。
ふと、周囲を見ると、家族や使用人たちもみんな温かな笑顔を浮かべている。
「一族の特徴……ということは、みんなもこのことを知って……?」
「ええもちろん」
と、お母様は微笑み頷いた。
「――全員、動物に変わりますから」
「……はい?」
そのとき、ぼふっ、ぼふっ、ぼふふんっ! とアニマール家の談話室は謎の煙幕に包まれた。「げほっ、げほほっ、な、なんですの……!?」とたぬき耳のまま、私はいがらっぽい煙に瞼をこする。「お母様……!? けほっ」見えない視界の中で、最初に探したのはお母様だった。私の近くにいたはずだから――と見回す間に、白い煙はすうっと引いて消えていく。
そして振り返った先にいたのは馬だった。
立派な、美しい白馬だった。とても大きいし、綺麗な瞳をしていた。
馬って筋骨隆々なのにまつ毛がふさふさしていて愛らしい顔をしていますわよね、と見当違いなことを考えてしまった。
「エスター。私は馬に姿を変えることができるのよ」
馬は声まで美しかった。というかお母様の声だった。
「……はい?」
「そしてこの家に住む人間は、みんな姿を動物に変えることができるの」
「……はいっ!?」
ちょっと待って、とみんながいたはずの場所に、私は慌てて目を向ける。するとそこは、まさしく動物だらけ、いやもうこれは動物園といった方がいいかもしれない。弟のルストのみが人間のまま、胴長の犬を抱えて微笑みながらこっちを見ている。
「父さんはッ! ミニチュアダックスフンドッ!」
弟に抱きかかえられたまま、ハッハッハッハッ、と舌を出し体をぶらぶらさせて犬が叫んだ。まさかの犬種まで伝えてきた。ルストは揺れる父を持ち上げ、ただただ微笑む。
「お嬢様、私は侍女のアンですッ! プレーリードッグになります!」
「ぷ、ぷれーりー……? え、犬? 犬ではない?」
「犬ではないです、プレーリードッグですッ!」
二本足で立つ可愛い小動物が口元に両手を当てるポーズを取る。「え?」ちょっとわけがわからない。談話室は犬や猫の小動物だけではなく、牛や羊やロバ、さらには名前もわからない動物たちがわらわらと敷き詰めている。その中を謎に行ったり来たりと繰り返しているド派手な鳥は、おそらく兄なのだろう。多分だけれど、なんとなく。
「「「「お嬢様、ご安心ください!」」」」
そんな言葉を異口同音に唱えられ、私は自分のたぬき耳を触った。ふわふわ、もふもふしているし感覚もある。お母様を見上げる。相変わらず美しい瞳をお母様は私に向けて、瞬きするとふぁさあっ、ふぁさあっと長すぎるまつ毛が動いていた。
ああ……。
叫びすぎたからなのだろうか。それとも、あまりの状況に脳みそがついていかないのだろうか。私はそのままゆっくりと背後に倒れた。視界がどんどんと狭まっていく。起きたときには、どうか私の耳としっぽがなくなっていますように、どうかこれが、悪い夢でありますように……と願いながら。
――自分の感情が、ただ素直に表れたらいいなと思っただけなのに……なんでこんなことに……?
ぱたっと私は倒れて、そのまま意識を失った。
***
驚きすぎて意識を失い、そして目を覚ましても状況はまったく変わらなかったし、ソファーに座る私の周囲を動物たちが覆っている現状は、むしろ悪化しているような気がした。唯一人間の姿である弟のルストのみが「姉さまの耳はふわふわで可愛いですね」とにこにこと私のたぬき耳を隣で弄り続けている。というかたぬき耳て。そんな語彙がこの世に存在するとは。
「あの……お母様。お話は理解しましたから、どうかみんなもとの姿に戻ってはいただけませんか……?」
「いいえ。こちらの方がさらに実感が湧くでしょう?」
むしろ湧きすぎです……、と美しい馬の姿である母をげっそりとした気分で見つめてしまう。小動物たちの一部は私の膝の上にいるけれど、可愛いを通り越してもふもふの過剰摂取は多分体に良くない。パオーンッ! とどこからか象の鳴き声まで聞こえる。もしかして部屋に入り切らない人は外にいたりします?
「わかりました。このままで結構です……。状況を整理させていただきたいのですが、アニマール一族は全員、人間以外の動物に変身できるということですか?」
「いや違うぞッ! もちろん一族としての血が薄まれば変身できない者もいるのだッ! この屋敷にいる者が全員変身できるのではなく、変身できる者はこの屋敷に集まり互いに助け合うッ! それこそが一族の掟なのだ~ッ!」
「お、お父様……いつもよりもお元気でいらっしゃいますわね……?」
説明してくれたのはミニチュアダックスフンドに変わってしまったお父様だった。いつの間にかお母様(馬)の背に移動しており、ヘッヘッヘッと舌を出してしっぽをぶおんぶおんと揺らしている。私が知っているお父様といえば、ダンディーで落ち着いており、できる男の代表格というイメージなのだが、今は話す度に小刻みに体を動かしちょっと上下に跳ねている。お母様(馬)はよくこの状態のお父様を背に乗せていられるわね……。
「この体になるとッ! なんだか駆け出したい気分になっちゃうッ! ボールとかあったら特にヤバイッ! 変身には個人差があるから~!」
「なんともおいたわしや……」
丸いもの超ヤバイ~! と、お父様は自分で言っていて興奮したのかさらにハフハフしていた。
私は人間であった父を思い出し、ウッと目頭を押さえる。けれども即座に顔を上げて、「お待ち下さいませ」と訝しむような声が出てしまう。
「……こんなに大切なことを、なぜ今まで私に黙っていたのですか? 家族なら、どうして隠していらっしゃったのです!?」
「家族だからこそ、よ」
お母様(馬)は美しい瞳を私に向ける。お母様(馬)は……いやもうこの注釈はやめよう。お母様はゆっくりと、まるで小さな子どもを諌めるかのように私に話した。
「あなたはアニマール家の血を引き継ぐ者。おそらく、いいえ間違いなくなんらかの動物に変わるに違いないと思っていました。けれどいつ、どんな動物に変わるのか、誰にもわからない……。動物といいますが、正直なんでも有りなのよ。例えばフンコロガシでも」
まさかのフンコロガシ。過去に例があったのだろうか。
「あなたは、『明日、もしかすると自分はフンコロガシになるかもしれない』なんて不安を抱えながら生きていきたいかしら?」
「お母様のご慧眼に全力で感謝いたしますわ」
そんな人生は御免被りたい。
いや実際になったのはフンコロガシではなくたぬきだったけれど。
「……待ってください、それならルストは!」
私よりも三つ年が離れた可愛い弟。私が変身するのなら、ルストだってそのはずだ。弟とはいえど、すでに私と近い背となっているルストは、私と目が合うとにっこり微笑む。お父様とお母様、二人の容貌の美しさを一番に引き継いだのはもしかするとルストなのかもしれない、と場違いにも考えてしまった。
「姉さま、大丈夫です。僕も先月、変身したばかりです。とはいっても、皆さんのようにうまく変化することができないので、この人の姿のままですが……」
「そ、そうだったの。全然知らなかったわ……。ちなみに、ルストは一体なんの動物に変わるの?」
「猫ですよ」
「猫……。でも、お父様は犬ですけれど、ミニチュアダックスフンドと犬種までわかるのでしょう? ルストは……」
「猫ですよ」
ふみふみふみふみふみ。
私の耳をふみふみ弄りながら、ルストはにっこりと微笑んだ笑みを崩さないので、それ以上聞くことはやめておいた。
「ちなみにお兄様は……?」
「あそこでポーズをつけている孔雀です」
なんとなくそんな気がしていた。兄はただただ己の美しい羽を見せつけ、たまにポーズを変えて自身の姿にうっとりしている。もう放っておこう。
「……うう、頭が痛いです」
「大丈夫です姉さま。僕も初めは驚きましたが、ようは慣れです」
驚いていたというが、まったくそうは見えないというか、私が鈍いのか、それとも見事に隠し通す我が弟がおかしいのか……。
ともかく、これは大変なことだ。アニマール家といえば、我が国の高位貴族。それがこんな……怪しい集団だなんて、下手をしたら一発お縄にならないだろうか?
――なんて心配する私の思考を察したのか、お母様はパカリと蹄を打ち鳴らすように絨毯を蹴って自身に視線を集める。絨毯が剥げていないか心配である。
「エスター。あなたの心配はもっともですが、我らアニマール一族の特異性は、王はご存じでいらっしゃいます。もちろん皇后様も。そしてこの特異性があるからこそ、我らは公爵としての地位を与えられているのですよ」
「ど、どういうことですの、お母様……?」
「姉さま。僕たちはただ動物になるだけではないんだ。変化する動物の特性に応じた特殊な能力も持っているんだよ。もちろん姉さまもね」
「わ、私も?」
特殊な能力とは、一体?
にこり、と家族や使用人たちが笑った。みんな動物の姿なので、いつもよりも大変わかりづらいが。
「私はとても足が速く走ることができますのよ。誰も私に追いつけませんわ」
馬ですからね。
「私はッ! すっごく! 鼻がいい~ッ! 遠い場所にあるお金もわかるくらいッ!」
犬ですからね。
「僕は身体能力が以前よりも高くなりました。どこからでも逃亡できます」
猫ですものね。
「お嬢様、私は穴掘りがとっても得意です! 侵入は大得意です!」
プレーリードッグ……ですものね? あんまり詳しくはないですが。
「どう考えても犯罪者集団じゃありませんこと!?」
お母様、お父様、ルスト、そして侍女のアン。さらに「私は」「僕は」と次々に上がる使用人たちの声を聞いて考える。犯罪臭しかしませんわ。王家は我ら一族が何かをしでかす前に縄で繋いでおいた方がいいのでは……。いえ、そのための公爵家の地位なのかしら……。あえて地位を与えて動けぬように……?
「……あら、お兄様は?」
誰もがわんわんにゃんにゃんと自分の力を主張して、だんだん可愛らしく思えてきた頃、お兄様は、ただただポーズを決めて存在をアピールし続けている。孔雀だからだろうか。気のせいかとても光っているように見える。
「ケイモン兄さまの特殊能力は、とても目立つという力ですよ、姉さま」
「いつもと変わりませんわ」
そのまますぎてちょっと役に立ちそうにありませんわ、と兄に対して大変失礼なことを考えてしまう。が、お兄様はときにはバラを口に咥えて登場し、淑女にキャーキャーされることを生きがいとしているタイプの人間である。そして『あいたた口に棘が刺さった』と家に帰っておいおい泣くタイプでもある。
「エスター。あなたには……私は、今までとても厳しく、接してきました。あなたは、アニマール家と王家をつなぐため、第二王子との婚約を義務付けられている……つまりそれは、いつかは動物の力を得たあなたが、アニマール家の外で生きていかねばならぬということ。守られた家ではなく、外で闘い、生き抜くための力を得るために厳しく育ててしまった。本当にごめんなさい……」
「お母様……」
そんな、と胸と一緒にたぬきの耳が震える。私は胸元に手を置いて、泣き出しそうな気持ちを抑えるように、ぐっと眉根に力を入れる。
「お母様は厳しくも、確かな愛を感じておりました。エスターは、お母様、そしてお父様や家族の、いいえ家族のように育った、この場にいる皆のおかげで立派に育ったのです。どうか胸を張ってくださいませ」
「エスター……」
「ところで私、いつこのたぬきの耳が消えるのですか? もうもとに戻りたいのですが」
「それはわかりません。多分そのうちなんとかなるでしょう」
唐突に適当に投げられた。
さっきまでの感動はどこに行った。
「多分そのうちって……お母様! みんないつもは普通の人間として生きているではありませんか! ということは、私もこのたぬき要素を消せるということなのでは!?」
「もちろん普通の人間の姿に戻ることも可能よ。我らは動物に変身するといっても、本来はただの人間ですからね。けれど、その変身するための発動条件は人によって違うの。それぞれが持つ特殊な力のようにね……。エスターにはエスターの、力を操る方法がある。私たちは見守ることしかできないわ」
「そ、そんな……」
くらくらと目眩がしてきた。つまりお母様の説明によると、私は、私が力を操る方法を見つけるまで、たぬきの耳としっぽをつけて生きていかねばならないということに……。
「大丈夫です。姉さまの耳としっぽは愛らしいですよ」と、ルストはふみふみと私のたぬき耳を触り続けている。「そうだ、俺のように美しいッ!」とお兄様は聞いていたのかいないのかばさっと孔雀の羽を広げる。「何かあれば、私が穴を掘ってお隠ししますよっ!」とアンは小さな体をバッと開いて二本足で立っているし、「いざとなれば逃げればいいのです。逃げれば」とお母様は美しい筋肉を見せるように足を動かす。お父様はお母様の背中でばいんばいんと跳ねていた。「ハッハッハッハッハーッ!」
メイドも、使用人たちもそれぞれ私を励ましてくれたのだが、もうそろそろ脳みその限界に達しつつあるので、どうか皆さん人間の姿に戻ってやくれないだろうか……。
「ああ……こんな耳が生えているのに、学園には通常通り行かねばならないんだなんて……」
昨日のお母様たちの言葉を思い出す。
『自分の力を操る方法は、たいていは自身の日常に潜んでいるものです。恐れて引きこもっていては、見つかるものも見つかりませんよ』
とのこと。馬から人の姿に戻ったお母様の姿は逆にちょっと新鮮に感じてしまった。
いつも通りに学園に行くからには、スカートの下にあるしっぽはともかく、耳は隠さなければならない。できれば帽子をかぶることができればよかったが、制服もあるのでそうもいかない。となれば……。家から乗ってきた馬車から降りて、鬱々と学園の門に向かう私の頭には、ぽこんと二つのお団子ができていた。我が侍女アンの力作である。
『耳があるのなら、髪の毛でくるんくるんに巻いて隠せばいいのです! お任せくださいお嬢様~!』
おりゃりゃりゃりゃ、と左右のたぬき耳を器用に髪で巻いてくれた。ただし巻いたのは耳を隠せる分だけで、その他の髪はいつも通り後ろに流している。見かけは問題ない……のだが、こういった髪型はどちらかというと幼い子ども向けだ。
私が恥ずかしがっていると、アンはにこっと笑顔を見せて拳を振り上げてこう言った。
『とっても可愛らしいです、お似合いです! お嬢様に文句を言うやつがいたら、このアンが埋めて差し上げます~!』
埋めてやります、というのは以前から言うアンの口癖だが、彼女がプレーリードッグに変身できると知った今では、その台詞が妙に現実めいてくる。自分の侍女を犯罪者にはしたくない。
でもやはり学園では悪役令嬢とまで言われている私がする髪型としては……と、赤面しそうな顔をぎゅうっ、と耐えているからか、多分いつも以上に厳しい表情になっているのかもしれない。歩けば歩くほど、周囲の生徒たちが遠巻きになっていく。
『今日のエスター様、どこか違うな……?』
『いつもの隙がない姿よりも、こちらの方が俺は……』
なるべく周囲の声を聞かないように、鞄を握ってすたすたと歩く。そのときだった。
「エスター、おはよう」
その言葉ひとつで世界が鮮やかに変わっていく。「リューリ様」と、私は自身の婚約者の名を、小さく口を動かす。いつも柔和な笑みを浮かべる彼の隣には、リューリ様に付き従う、黒髪の従者の姿がいた。
「ええ、リューリ様。おはようございます」
本日もお麗しいわ、大好きですわ! なんてキャーキャーしている内面は即座に隠し、私はツンとした顔をしてしまう。もっと可愛らしく、愛らしくしなければと思っているのに、どうしてもできない。
実はわたしは、昔はもっと引っ込み思案だった。何も言えないか、それともツンツンするか……。その二択しか自分にはないのだろうか、と悲しくなってくる。
でもリューリ様は笑顔を絶やさない。こんな私にも優しいその態度、好きすぎる、と心の目をハートにさせていると、「おや?」とリューリ様は瞬いた。
「今日は……いつもと雰囲気が違って、可愛らしいね?」
キャーッ!
まるで私を門の壁に押し付けるかのように髪(たぬき耳)を触られ囁かれた言葉に、内心は大暴れになってしまう。ときおりリューリ様は私を試しているのか、こんな仕草をなさる。近いですわ近いですわ、と叫びたいのに、いつも通り表情筋はぴくりとも動かない。「ええ。少し気分転換をしたくて髪型を変えましたの」と冷淡な反応しかできない。ああ、私ったら……。
と、自分自身に落胆していたとき。
ぶおんぶおんぶおんぶおんぶおん。
謎の効果音が響き渡った。一体なんですの!? この不穏な音はどこから……と探したら。
私のお尻から発せられていた。
いや、具体的にいうと私のしっぽが。
ぐるんぐるんに回っていた。いや、旋回していた。
(そ、そ、そんな……!? 一体、どういうこと……!? まさか、私の喜びに、しっぽが反応している……!?)
「……エスター? どうかしたの?」
リューリ様は私の様子を不審に思っているようだが、それどころではない。まさかリューリ様に褒められたことが嬉しくて、しっぽがこんなことになってしまうだなんて。私に犬や猫のしっぽがついていれば、リューリ様に好きな気持ちをしっぽ越しに伝えることができるかも、なんて夢想をしたことがあるが、こんな旋回は望んでいない。
(あ、アアアアアッ、どうしたら……!?)
しっぽが起こす旋風で、私のスカートがまるで傘のごとく膨らみ始めている。
『さっきから妙な音が聞こえるな』
『風……かしら? つむじ風? あらエスター様のスカート……チューリップ型で可愛らしいですわね。最先端のデザインかしら?』
「エスター? 気分でも悪いのかな?」
周囲の生徒たちの囁き声や、リューリ様の心配そうな声を聞き、どうかどうかとしっぽに願いを伝える。落ち着いて、落ち着くのよ……リューリ様に、私の正体がたぬきとバレるわけにはいかないわ!
いや正体も何も人間なはずなんですけど、とリューリ様との未来を夢想する。たぬき耳の私がリューリ様とデートをする想像。そして結婚。『たぬきの君も可愛いね』とリューリ様なら言ってくださるかもしれない。想像の中は私はどんどんたぬきに近づいていく。新婚生活は、ほぼたぬきの私がリューリ様とともに朝食を食べている。うふふ、うふふ。幸せな朝の光景だ。『君のしっぽはとてもチャーミングだよ』なんて、囁いてくれるかもしれない。リューリ様と一緒に、リューリ様の子どもを抱きしめているたぬきの私を想像して、子どもの顔を見ると……抱きしめているのはたぬきの赤ちゃんだった。ぽんぽこぽん!?
「たぬきは駄目ですわ!!!???」
「……たぬき?」
「あ、いえ、なんでもございませんの」
ハッと冷静になった。現実に戻ってきた。
いやたぬきが駄目というなら、むしろ私の存在も駄目かもしれないが、まずは耳としっぽを消せるようになってから考えるべきだ。さすがのリューリ様だって、『しっぽがある女性はちょっと……』となる可能性の方が高い。というか大半の男性はそうでは!?
冷静になったからだろうか。しっぽの旋回も止まっていた。自身の想像にしょんぼりしすぎてしまったのか、むしろ悲しいまでに垂れているのを感じる。しっぽ……。
このままでは絶対だめだ、と強く認識した。たぬきということを隠して結婚するのもどうかと思うが、まずは何より人に戻る……この耳としっぽを消すことを優先しなければ。
「失礼いたしました。少し……目眩が」
「そうかい? 今日は学園は休んだ方が……」
「いえ、もう回復致しましたわ。お気遣いなく」
ヤダ~~~~!!! もっと可愛く言えたらいいのに~~~~! なんてツンとした顔をしたまま話してしまう。「あ~ら!」そのときだった。甲高い女性の声が聞こえる。
「エスターさん。今日は随分可愛らしい髪型でいらっしゃいますのね! まるでお茶会にデビューしたばかりの幼子のようですわねぇ」
先程のリューリ様の言葉と少し似ているが、悪意を込められた言葉というのはまったく空気が異なるのだな、と実感した。
薔薇の効果を背景に背負ったかのように派手に登場したのは、モナリス・アネットという名の少女だ。アネット家は侯爵家であり、我が家よりも位は低いが、城の主要な役職を一族で牛耳っているため、貴族での発言力は強い。
「おはようございます、リューリ様! こんな朝からお会いできるだなんて、モナリスは嬉しくてたまりませんっ」
「……ああ」
モナリスは明るくリューリ様に挨拶をする。ついつい、ぴくん、と私のたぬき耳が反応してしまう。
学園内では王族も貴族も、そして特待生として通う一部の庶民も、身分は問わず平等に接するという校則を掲げているが、あくまでもそれは建前。いくら学園内で平等といってもいつかは卒業するのだから、その布石として学生のうちも礼節をわきまえるべきなのに。さすがのリューリ様も、笑顔をなくしている。普段は穏やかな方なのに、と驚いた。
「リューリ様はいつご尊顔を拝見しても大変麗しく……。それに比べてエスター様ったら。ふふ。てっきりここが初等部だと勘違いしてしまうところでしたわ。本当にお可愛らしい!」
モナリスの口元がにんまりと弓弦のように描いているのを、私はじっと見つめる。
パチッと私の中でスイッチが入った。
昨日、私に対して『悪役令嬢』と陰口を叩いていたのは彼女だ。そもそも、私を『悪役令嬢』だと言い出したのはモナリスだ。彼女が私を『悪役令嬢』と呼ぶようになったことも、私が周囲から孤立してしまった要因の一つ……なのだが、今のわたしは『悪役令嬢』ではなく『たぬき令嬢』である。悪役だったときの方がまだマシなのでは?
「ええ、似合うでしょう?」
と、いうわけで悪役らしく肩にのっていた髪をふぁさりと片手で持ち上げる。ぽんぽこぽんっ!
ふっと口元に笑みをのせて目を細めると、周囲の学生がざわめくように囁く。
モナリス・アネットは私の返答に、すぐにカッと顔を赤くした。私は顔に出なさすぎるけれど、彼女は顔に出すぎるみたいね。
「ふん、嫌味にも気づかないなんて! 嫌な人! リューリ様、失礼致しますっ!」
あまりの勢いに驚いて目を丸くしていると、「行ってしまったね」とリューリ様もぱちぱちと瞬きをしていた。まったく、嵐のようだ。
けれどもモナリスのおかげで、私は一瞬耳やしっぽのことを忘れて、いつも通りに振る舞うことができるようになった。
うーん。やってきたときは少し嫌な気分になってしまったけれど、感謝した方がいいのかしら。
「リューリ様、そろそろ教室に向かいませんと……」
「ああ、すまないね。ブライ」
リューリ様がお話ししているのはリューリ様の従者だ。リューリ様しか見えていなくて、存在をすっかり忘れていたわ。ブライはかけていた眼鏡のブリッジをわずかに手で戻し、ちらりと私を見る。それはびっくりするほど冷たい瞳だった。
「では、僕は先に失礼するよ。エスター。体調が悪いというのなら、気にせずに教師に言うように」
「お気遣いいただき、ありがとう存じますわ」
ぽんぽこっ! と気合を入れてにこりと微笑む。
するとリューリ様はわずかに目を見開いて、「……君は、もっと素直になってもいいんだよ」と私の耳元で囁く。しっぽが震えないように、と意識をしていたものだから返事ができなかったけれど、私から離れると、また彼はにこっと笑った。変わらないその笑顔が、彼が幼い頃を思い起こさせる。
私はぼんやりとリューリ様とブライの背を見送り……ふうとため息をついた。
考えるのはリューリ様の言葉と、そしてブライの冷たい瞳について。
私は第二王子の婚約者だ。本来なら従者があんな目をするだなんて、と侮辱されたと怒ってもいいのかもしれない。でも、と考える。『悪役令嬢』などと噂される私が、自身の主と婚約している事実が、ブライにとって受け入れることができないのかもしれない。……悪いのは、私だ。
(でも、いつかは認めさせてやりますわ!)
よし、と心の中で拳を握ると、しっぽまで気合が注入されるかのようだ。
「モナリスさんには感謝ですわ。ここは私の戦場と思い出しました。……たぬきごときで、へこたれるわけにはいきませんのよ!」
たぬきの耳としっぽを消す。そんなの当たり前すぎる目標だ。私はたぬきであることなど関係なく、最高の淑女としてこの学園に君臨しなければいけない。
えい、えい、おー! と周囲には聞こえないように、私は小さく掛け声を上げた。
そのはずなのだったのだけれど。
「ねーえ、エーティさん? 私、今日はとっても忙しいの……。どうか私の代わりにレポートを作っておいてくださない?」
背景に大輪の薔薇を咲かせて一人の少女に詰め寄るのは、やっぱりモナリスとその取り巻きたちだった。エーティさんとは、先日、制服を着崩していたという理由で私が叱責した男爵家のご令嬢である。エーティさんはモナリスや、その取り巻きたちと一緒にいる姿をよく見るけれど、正直、彼女たちとはあまり仲がいいようには思えない。だからこそ、前回も口を出してしまった。
男爵家という立場上、エーティさんは他の人たちにあまり大きく出ることができない。この間の制服の着こなしも、本人の意思というよりもモナリスたちのおもちゃとして乗せられているように私の目には見えた。
ふう、とため息をつき、隠れたままで見ていることもできずに私は足を踏み出す。
ぽんぽこぽんぽこぽんぽこぽんぽこ……。
「モナリスさん? レポートというのは、ミッシェル先生の授業テーマ、『貴族と神学の関わり』のことかしら?」
「え……エスターさん? 今あなた、ちょっと足音がおかしくなかったかしら……?」
「何を妙なことを言っているの?」
ふん、と鼻で笑う。「そ、そうなのかしら……? 今たしかにぽんぽこと……」溢れ出るたぬきオーラを受け取ってしまったのだろうか。モナリスの取り巻きたちも、「たしかに聞こえたような?」「私は小動物の足音が……」「いえ私はもう少し大きな雰囲気の……」と困惑している。ちなみにたぬきは小動物という定義には当てはまることもあれば当てはまらないこともある。
「モナリスさん。あなたも貴族であるのならば!」
私は持っていた扇子をどこからともなく取り出し、バシッと向ける。
「いつ、なんどき、自身の身に何があってもおかしくないと思いなさい! そのためにはミッシェル先生の授業はとても大切なテーマですことよ!」
そう例えばある日いきなり『たぬき』になるとかね!
「う、うう……」
あまりに私の言葉が真に迫っていたからか、それとも私の背後にたぬきが見えたのか、心持ち興奮して旋回しているしっぽがスカートを膨らませすぎていたからか、モナリスさんたちはわずかに後ずさる。
けれどすぐに持ち直し、私を睨むように叫んだ。
「フンッ! 何をおっしゃいますの? この学園はいわば貴族の社交場の練習場ですわ。こうしてお友達にお願いするのも、将来必要な勉強ではございませんことぉ? マッ。精錬潔癖すぎるあなたにはちょっと難しいかもしれませんわね?」
なんという開き直りだろう。ぽんぽこっ! 心のたぬきが怒っている。
さらに『お嬢様に文句を言うやつがいたら、このアンが埋めて差し上げます~!』と、心の中にいるプレーリードッグも主張している。やめてアン埋めないで。
(というか私、昨日からちょっとおかしいですわ? 頭の中で同じ音が響き続けています……)
具体的には『ぽんぽこ』と。
まさか、とハッとする。
『いいこと、エスター』
ふいに、昨日のお母様の言葉を思い出した。お母様は美しい馬の瞳をこちらに向けて、ゆっくりと自身の“力”について語ってくださった。
『わたしたちの特殊な力は、動物に変身できるだけではないと言ったわね? その“力”は、人の姿のままでも使用することができるのよ。あなたがどんな“力”を持っているのか、それは母にはわかりません。けれども……気づくはず。心の中にある言葉が、あなたの“力”を引きずり出す――!』
(お母様、まさかこの言葉が!)
ぽんっ、ぽんっ、ぽんぽこッ!
「ミス、モナリスッ! まさか私のレポートを、他人が作成したものを丸写しさせようなどと思ってはいないだろうね!?」
「ひっ、ミッシェル先生!? 一体どこから!?」
きゃああ、とモナリスとその取り巻きたちは怯えたように周囲を見回す。校舎の窓からだろうか、それとも? と互いに手を合わせて縮こまる。「いいかい、もし自身で作成しないのなら君たちの家に――」「まさか、そんなわけがありませんわっ! 必ず期限までに作り上げますとも!」モナリスは叫ぶ。そしてキッと私を睨んだ。
「……あなたがミッシェル先生に伝えたのね! 信じられないわっ!」
そう金切り声を上げて、取り巻きを引き連れて逃げていく。その中にはエーティさんもいた。彼女だけは申し訳なさそうに私を見ていて。
気にしないで、とばかりに小さく手を振る。
「……はあ」
誰もいなくなったところで、ため息が出た。私がここを通ったのは偶然だ。となると、都合よくミッシェル先生に声をかけられるわけがない……ということは、「これが、私の特殊能力……?」
つまり、他人を、化かすという力。
私はミッシェル先生の声のみを再現することができたのだ。
「う、ううう……」
感動した――ように見えて、あまりのことに頭を抱えて蹲った。
「どう考えても、私の能力が家族の中で一番おかしい、ですわ……!」
もうお縄についた方がいいのでは? 罪名、たぬきっぽい罪とかで。
ちょっと泣けてきたところで、なぜだか不思議と目眩がする。あれあれ、と視線がしゅるしゅる下がっていく。体が軽くて、手の先がふわふわで……とっても、眠くて。もしかして、“力”を使ったから?
こんなところで眠っちゃいけない。そう思っているのに、耐えられない。私はぽてん、とその場に落ちるようにして眠ってしまった。そしてそこからしばらくして。銀髪の青年が――リューリ様が通りがかったことなんて、もちろん知るわけがない。
「…………たぬき? まさか…………」
はわっ、と私はぱっちりと目が覚めた。初めて特殊能力を使って、モナリスを化かして、とっても眠くなったところまでは覚えている。まさか地面で寝てしまうだなんて、と自分に驚き飛び起きたのに、私はきちんとベッドの上にいた。……あら? さっきまでの全てはもしかして夢だったの? と考えたけれど、私の部屋ではない。
シンプル、でもオシャレな家具は、ぬいぐるみだらけの私と部屋とはひっくり返っても違う。どちらかというと、男性的な雰囲気の部屋のように見える。
あら、あら、あら? と私は混乱するあまりにベッドの上を歩き回った。すると、何か体がおかしいことに気づいた。おかしいけれど、何が変なのか暗くてよくわからない。もっと明るいところで確認を……ああ、鏡があった。
四本の足で、私はすとんっとベッドから下りた。……ん? 四本の足で?
月明かりがゆっくりと窓から照らされる。
そのとき部屋の壁に立てかけられた姿見に映った私の姿は――まごうことなき、『たぬき』だった。
「…………んきゅるる……?」
茶色く、ぽてっとした姿は、おすわりが上手にできなくて崩れた座り方になっている。
これは、どういうことですの? と呟いたつもりの声は、可愛らしい鳴き声に打ち消されてしまった……。
***
たぬきですわ。たぬきですわ。全身たぬきに変わってしまいましたわ~~~~!!!!
「きゅうーん、きゅうん、きゅうん、きゅうーん!!!!」
くるくるばたばたくるくるばたばた。
私は全力で部屋の中を暴れまわった。そうした後で、キキッとブレーキをかけて考える。
「きゅるるるっ!(お母様たちも、そういえば動物になっていましたわ!?)」
ということは、私もそれと同じ……ならば人間に戻れるはず!
でもお母様たちは動物の姿になっても、きちんと人間の言葉を話すことができていた。私は悲しいことにたぬき語しか話せない。たぬきってこんなに可愛らしい鳴き声なのね、意外だわ!
もしや、と思案する。自分の耳すらもとに戻せないのに、慣れない力を使って消耗し、さらにたぬきに近づいてしまったということだろうか……。
そ、そんなの……。
「きゅううううう~~~ん!(こんなの、嫌ですわァーッ! お母様ァ、お父様ァ! ルストォ! アン~!)」
あまりの絶望に家族の名前を一人ひとり呼んでしまう。お兄様は自身の美しさ磨きに忙しそうなので最後にする。
「きゅ、きゅ、きゅう……(う、う、う、ここはどこなの……)」
化かす力を使うにも、消耗しすぎているからかできる気がしないし、化かす相手もいない。閉ざされた部屋では小さなたぬきは無力。どうしよう。もう夜ということは、私が気を失ってから随分時間もたっているはず。家族のみんなが心配しているかもしれない。学園からいきなり消えてしまったのだから、大騒ぎになっているかも。
こうなったら……と、私は四本の足に力を入れて、ドアに向かう。
体当たりしか、ないですわ! ドアにぶち当たる経験なんて人生で初めてだけれど、やってやれないことはないだろう。たたたたたたたぬたぬたぬっ! ファイアーッ! と私がドアに飛び込んだ瞬間と、扉があいたのは同時だった。
「……わっ!?」
「きゅううんっ!?」
ふわん、と誰かに抱きしめられた。人間、それも男の人――と見上げたとき、薄暗い室内をまた月明かりが照らす。きらりと輝く銀の髪と、整った容貌は、リューリ様だった。どうして!?
「ふふ、元気になったんだね」
体当たりした私に一瞬驚いたようだが、すぐにリューリ様は、私を両手で持ち上げたままにっこり微笑む。そしてそっと絨毯の上に降ろしてくれた。「くうん……?」駄目だわ、どうしても犬みたいな鳴き声しか出ませんわ。たぬきだけど。
「学園で君は倒れていたんだよ。元気になったならよかった。よければここで養生しておくれ」
よしよし、とたぬきの頭をなでられたので、ぽてぽてっとしっぽが反応してしまった。「また、朝になったら来るからね」と言ってリューリ様は部屋を出た。ぱたり……と、閉じた扉を、私はお座りをしたまま、ぱちぱちと瞬いて見つめた。
理由もわからずお口をぽかんとあけている姿は、さぞや間抜けだっただろう。
――それから、私はリューリ様のもとでお世話になることに、なってしまった。
例えば朝起きて、ご飯をいただき、メイドに体を洗ってもらい、リューリ様にもふもふと体を拭いていただき、仰向けになったお腹をとんとん叩いていただきお昼寝をして、起きたら城の庭をお散歩する。ワーイッ! とリューリ様と一緒に駆ける。
「ふふ、君といると楽しいね!」
「クウウーーーンッ!(ぽんぽこぽんですわっ)」
楽しいぽんっ、楽しいぽんっ、ともらった大きな骨をハミハミして考える。
あら、なんだかおかしくないです? と。
「キュウウンッ!?」
「ん? どうかしたのかな?」
ぽこんっと口から骨を吐き出して目を白黒させている私を、まるで愛しいものを見るかのようにリューリ様は見つめてくださる。あ……もう私、たぬきのままで、リューリ様のもとにいることができるなら、これでもいいかも……。なんて考えてしまったところで、ぶんぶんぶん、と短い首を勢いよく横に振った。
「きゅうううん! きゃん! きゃんきゃん!」
「はは。君は何をしていても可愛いね」
「く、くううん~(ハッ、喜んでいる場合じゃないですわ!?)」
思い出したのは、ナイスミドルの父が犬になった途端に元気になってしまう現象だった。個人差があると言っていたけれど、まさか……私もたぬきに精神を引きずられて……エ……怖すぎ……。
家族が心配しているので、いくら楽しくても、こんなのいけない。いや婚約者にペットのように可愛がられて楽しいと思うのもどうかしてますわ!?
あと、絵面がとても悪いですわ!!!
「きゅうう、くうう、きゅううううーん!」
「ふふ。まるで思い悩むように気張っているね。もしかしておトイレかな?」
美しいお顔でそんなご感想を抱かないでくださいましっ!
おトイレをするのなら……もっと隠れてしますわ! ではなくて。もっと、こう、王子様ならば金色の毛並みをした犬とか、美しい猫とかそんなんじゃございませんこと!? たぬきって、たぬきっていいんですの~~~!?
それに私は、仮にもリューリ様の婚約者であるのに……あるのに……。
「じゃあね、僕は王城に呼ばれているから。戻ってくるまで、いい子でお留守番をするんだよ」
そう話したリューリ様を見送り、私はきゅいんきゅおんきゅんきゅんくーん、と部屋の中で泣いた。もう私はどうしたらいいんですの? と、絶望の中に身を沈めるしかない……。
ぷきゅっ、ぷきゅっと、音が鳴る人形をはみはみすることしかできない……。
「妹よ」
そのとき、不審な声が聞こえた。
はっとして私が窓辺を振り向くと、一匹の鳥……いや、孔雀が、見事なまでに尾を開いて、逆光の中に佇んでいる。ど、どうして……。
「きゅうんきゅうん!?」
「察するに、俺がこの場にいることに驚いているのだろう。なに、我らはお前がこの城にいることを把握している。心配するんじゃない」
それはよかった。よかったけれど、そうじゃなくてどうしてどうしてお母様たちではなくお兄様が……? と、「くうん」と鼻を鳴らす。お兄様は私の言いたいことが伝わったのか、伝わっていないのか、ポーズをつけたまま話を続けた。
「城にお前がいることは把握していたが、人の姿で王族の居住まで行くことはできぬからな。母上は馬であり大きすぎる。父上は犬の姿であれば、本来の思考を発揮できん。ルストはまだ力を得たばかりで不安定……となれば、お前のもとへと向かう重責は、俺しか担えん」
いやそれはどうなんだろう、と逆光の中で広げた尾を主張し続ける兄を見上げる。
とても、目立っている……。
「時間がない。手短に伝えよう! 母上はお前を案ずるあまり、詳しく説明はしなかったが、我らアニマール一族が動物に姿を変えるときとは、“自身の運命に危機”が訪れているときである!」
「きゅうっ!?」
「運命の危機を脱するために、我らは力を得るのだよ! だが案ずるな。危機とチャンスはいわば表裏一体ッ! エスター! お前がたぬきから人に戻る手立ては、お前の運命にある。流れるままに、強く生きよッ!」
わけが……わけが、わかりませんわッ!
「我らアニマール一族は、いつでもお前の味方であることをゆめゆめ忘れるでないよ……。ピンチのときは、いつでも力を貸そう! だがしかし、力を得るのだ、エスター! それこそが、運命を切り開く助けとなるであろう!」
「きゅううう~ん!?」
なんでお兄様、いつもと口調が違うんですの!?
なんて叫びはたぬきの鳴き声にかき消された。「さらばっ!」「キュウッ!?」お兄様!? と私は慌てて窓辺によった。すると兄は見事な羽ばたきで空を飛ぶ。太陽のきらめきを鮮やかなオレンジの風切り羽に集め、なんとも美しい飛翔だった。「……きゅ?」しかしみるみるうちにお兄様は下降していく。おそらく、あの見事な尾っぽが邪魔でうまく飛べないのだろう。ぽてっ、とお兄様は庭に落ちてしまった。そこで衛兵たちがお兄様に気づく。
「なんだ!? めちゃくちゃ派手な鳥が落ちたぞ!?」
「羽を抜けば金になりそうだな。追いかけろ追いかけろ」
はわわわわ、とお兄様は二本の足でてちてちと逃げる。それを衛兵たちが追いかける。お兄様……。
まあきっと、大丈夫だろう……と私は判断して、私は窓辺から離れた。家族が私の状況を理解してくれているというのなら、不安が一つ消えた。
(私の運命に、危機が訪れている……?)
つまり、とたぬき顔で真剣に考える。
ふむ、と顎からふわふわのお手々を離して、結論付けた。
むしろこの瞬間が最大の危機なのでは、と。婚約者のもとでたぬきとして住み込んでいるってどういうことですの……。
***
たぬきから人に戻らねばならないけれど、そのためには流れるままに生きろというお兄様のアドバイスをもとに、私は今日も元気にぽんぽこぽんっ!
と主張したいところですが、残念ながらリューリ様の様子が昨日から少しおかしい。具体的にいうとお兄様が私のもとを訪れ、さらにリューリ様がお城から戻ってから。ちなみにお兄様は無事逃亡できた模様です。よかったよかった。妹として毛が抜かれた兄の丸裸は見たくないので。
「きゅうきゅう?」
元気がないように見えたので、ふわふわなさってもよろしいのよ? とリューリ様のお膝に移動すると、「それは、その……いけないね」とにっこり笑顔で私の脇を持って移動させられた。どうしてだぽん。
一瞬、不満が表に出そうになったが、いやいやこの状況を楽しもうとする私の方がどうかしている、とハッとする。いけない。たぬきに思考を引きずられぬようにしないと。
いそいそ絨毯の上に移動して、お上品にお座りぽんをすると、リューリ様はにこっと微笑んでくださったので安心した。リューリ様に元気がない理由は、私が何か粗相をしたわけではなさそうだ。
「いい子だね、ご飯だよ」
と、次に目の前置かれたご飯はドッグフード……でも、たぬきフード……でもなく、ちゃんとした人間のご飯だ。たぬきは雑食なのでなんでも食べるのでありがたい。でも味付けはちょっと薄め。
これくらいならまったく許容範囲だ。よかったよかった、と食べていると、いつの間にかいたブライが、「リューリ様。たぬきに人間の食事を与えるべきではないのでは?」と話した。リューリ様しか見えていなくて、ブライがいることにまったく気づかなかった。前から思っていたけれど、ちょっと影が薄いわねこの方。
「ブライ、この子は……いいんだよ。むしろもっと豪華なものにすべきなくらいだ。そうだ、次からは食事を人間らしく変更しよう」
「お待ちください! たしかにたぬきは雑食ですが、やはり人とは違うものを与えるべきかと。たぬきの体に悪影響が出る可能性があります」
ブライはちゃきりと眼鏡のブリッジに指を当てる。随分語気が強いけれど、たぬきに一家言ある人なのかしら。
ご飯が変更されたらとても困るわ。
「できれば生肉などいかがでしょう。次回からこのたぬきの食事内容は私にお任せください」
生肉にご飯が変更されたら、ショックすぎて意識を失いますわ!
という私の主張が伝わったのか、リューリ様はブライの提案は呑まなかった。本当によかった。しかしそれから、ブライの視線をことあるごとに感じるようになり、振り返ればブライがいる。廊下の端とか、扉の隙間とか。まさか、監視、されている……!? とたぬきらしからぬ行動は抑えるように、私は部屋の中でタップダンスを繰り返す。どうでしょう? この無意味な動きからは、人間らしさを感じ取ることはできないでしょう?
ぽんぽこぽんぽこ、ぽんぽこぽんぽこ……アッ!「キャウンッ!」
足が短すぎて、滑って転んだ。はっとしてブライは私に手を伸ばす。助けられたぬき。
脇の下に手を入れられて、高い位置に持ち上げられ、そしてすうっと絨毯の上に降ろされる。私は最近この一連の動きをされすぎではないかしら……。
私を助けたブライはというと、私の隣に小さく三角図座りをした。そしてぽんぽん、と私の背中に手を乗せる。無抵抗になるしかないぽん、と固まっていると、延々とぽんぽんされてしまう。
「……一生こうしていたいな」
もふもふの勝利ですわ。
なんて考えている場合ではない。まさかあなた、ずっと私の毛皮を狙っていたの? 普段は冷たい瞳を向けられているのに、と奇妙な違和感がしっぽの先から耳の先まで走り抜ける。ごめんなさい、そのたぬきの中身は私ですのよ。
「こうしていると、普段のストレスが消えていくかのようだな……。うん、可愛いやつだな、お前は……。ストレス……そう、リューリ様も、本来なら学園に行く暇はないくらいに忙しいのに、あの女のせいで……。はあ。少しでも会いたいからって、警護の数を減らしてまで学園に通っているんだよ。心配だ……」
なでなでしているうちに、ブライは普段から抱えているストレスが無意識にこぼれ出てしまったらしい。それは大変ですわね。
……というか、誰ですの、あの女とは!?
リューリ様が、そんなに夢中になっている女性がいらっしゃいましたの!
なんということ。私なんて今となってはただのたぬきですのに!
「それに……モナリス・アネットだったかな。今日もあいつが王城に来たんだ。自分は学友なんだから、リューリ様に会わせろと……。一体何を考えているんだ。王族と貴族では身分が違いすぎるのに。でもリューリ様は、大げさにしたくないから、無視していればいいからと……自分が学園に通う上でのある程度の不都合は仕方ないとおっしゃる」
モナリス・アネット!? 今日も、ということは今まで何度かあったということ!?
モナリスと会ったとき、リューリ様にしては妙に冷たいお顔のように見えた理由がここに!?
リューリ様、ずっとそんな我慢を強いられていましたの!?
私はまったくそんなことも知らずに、のうのうとたぬきを……。なんということでしょう、なんということでしょう! とぶいんぶいんとしっぽを回転させていると、ブライが「むふふ」と聞いたこともないような声を出して、私の背中をなで続けていた。
今日“も”と言っていたということは、モナリスは頻繁に王城に来ているのかもしれない。私はするっと抜け出し、モナリスの姿を探した。ぽんぽこぽんぽこ。この動物の姿ならば、それほど違和感もなく王城を歩けるというもの。たまに「なんでたぬきが!?」「山から降りてきたの!?」なんて声が聞こえたような気がしたけれど。
「リューリ様に、会わせなさいよ!」
ああ、やっぱり!
金切り声を上げて、モナリスが自身の従者とともに存在を主張している。衛兵たちも困っていた。
「いくら主張されたところで、第二王子とはお会いできませんと、何度もお伝えしています」
「どうして!? 私はリューリ様の学友で、しかも侯爵家の長女なのよ!?」
「ならば、まずは侯爵様を通して城に打診くださいませんと……」
「きいいい! それができないから、こうして直接来ているんでしょう!?」
すでに侯爵に伝えて、無理と言われた後なのね……。
なんともいえない気持ちで、私は通りすがりのたぬきを演じる。
「とにかく、無理なものは無理ですので!」
押し出されるように閉ざされてしまった門の前で、モナリスは呆然としていた。ちなみに私も外に出てしまったので一緒に呆然とした。たぬきは背景か何かなのだろうか。あとでこっそり中に入ろう。
「う、くうう……!」
「お嬢様……」
きりきりとモナリスは爪を噛む。一緒にいる使用人の存在など、目に見えていないようだ。ちなみに足元で一緒に並走する私の存在も見えていないらしい。ぽてぽてたぬたぬ。
「どうして、会ってくださらないの……。あの女、エスターのせいですわ……。あんな女が婚約者だから、誠実なリューリ様は私と会ってくださらないのだわ! せっかく、忌々しいあの女が学園を休んでいるから、エーティにレポートを押し付けて、自由になった時間でここに来ましたのに……!」
「きゅううん!? た、たぬう!」
想像よりも何かひどいことを言っているわこの人……!
エーティさんは大丈夫なのかしら!?
「……こうなったら……うっふっふっふ!」
こうなったら、ってどういうことだぽこッ!?
くっくっく、とモナリスは怪しい笑いを浮かべて去っていく。なんという、なんという……。
「きゅうい~~~ん! きゅうきゅう、きゅうういいいんっ!」
「おやおや。今日はおしゃべりな子だね」
ふふふ、とリューリ様は穏やかに笑う。モナリスが、モナリスが~! なんだかヤバイですわ~! なんて主張しても、モの字すらも伝わらない。当たり前だ。
う、う、う、と私はぽんぽこ暴れまわったが、リューリ様は嬉しそうにするだけ。もうあかんですわっ!
こんなたぬきの、私なんて……。
役になんて、立たないのね……。
「くう~ん……」
たぬきだからか力を使うこともできないし、人に戻れないし、さらには言葉だって話せない。悲しくて、 涙を出したくてもたぬきの体ではうまくでない。涙腺すらも仕事をしない。
「……どうかしたのかな?」
リューリ様は唐突にぽてん、と倒れてしまった私をゆっくりと持ち上げた。そして、柔らかく、まるで愛しいものを見るかのように、微笑んだ。
「エスターは、本当に可愛らしいね」
――そう言って。
えっ……。
リューリ様、今、私の名前を……。
そんな……まさか……。
私ってたぬきに間違えられるほど普段からたぬきっぽいですの……?
ショック死するしかないですわ。
あああ、とあまりの衝撃にがくがくと震えていると、「おっと」とリューリ様は目線をそらして、口をきゅっと閉ざした。まじのまじですの、リューリ様……? とおろおろとリューリ様を見上げている私と、なぜだかリューリ様は今度は照れたように視線を合わせる。それから、少し考えるような間があった後、ごまかすように、私の額にちょん、とキスをした。え……。
お口に毛とかついておりませんこと……? と今までしたこともない心配をしてリューリ様を見つめる私に、彼はまた照れたように首を傾げて、ベッドに運んでくれた。
「それじゃあね、おやすみ」
と言って、私とリューリ様は横になって眠った。
いつしか月も厚い雲に隠れ、夜の静かな気配だけが、ゆるゆると流れていく。
その中で、ただ一人私はベッドから起き上がった。金の髪が、するりと肩から落ち、すやすやと眠るリューリ様を見下ろす。
「……もとに、戻った……の?」
***
私は月明かりの下、人間の姿に戻った自身を驚き、手を開いてじっくりと人間であることを観察する。一体、どうして……。
思い出したのは『お前がたぬきから人に戻る手立ては、お前の運命にある』というお兄様の言葉だった。そして同時に、『自身の運命に危機』が訪れているということ。
「……そういう、ことだったのね!」
開いていた手はぎゅっと拳にして、即座に私は行動した。ベッドに眠るリューリ様を起こさぬように、そっと部屋を抜け出す。たぬきであったときに得た知識で夜の王城を駆ける。そして、アニマールの屋敷へと戻った。
談話室のソファーの上で座るお兄様と真っ先に向かい合う。
「……見つけたのかい? お前の運命を」
お兄様は、わずかに口元を緩めた。
「ええ、お兄様」
そう言って、私は彼と同じような顔をして、返事をした。
***
モナリス・アネットは苛立っていた。モナリスがこの国の第二王子、リューリ・レスツァイトと出会ったとき、自身の運命を感じた。彼と目が合った瞬間、ただの一秒の時間が無限に広がるかのようで、この特別な感覚はモナリスだけが抱いているわけではないと確信していた。
きっと、リューリも同じように感じてくれているはず。そうわかっていたのに、腹立たしいことにリューリには、自身以外の婚約者が充てがわれた。――エスター・アニマール。真面目を絵に描いたような、なんの面白みもない女。物語の悪役に沿って、彼女を『悪役令嬢』と仕立て上げ、悪評を流そうとしたがうまくいかなかった。
却って生徒たちはエスターを高嶺の花のように崇め、周囲から遠巻きに、孤高の存在として認められるようになってしまったのだ。
そのエスターが、つい最近まで病を患ったと学園を休んでいるのはいい気味だった。久しぶりにのびのびと、そして軽やかな気分でリューリのもとを訪れることができたのに。学園で会ったとしても周囲の目を気にして自由に話すことができないのなら、直接王城に向かえばと思ったはずが、門前払いの連続。これでも駄目なら……二人きりになる場所を、無理やりに作るしか無いだろう。
モナリスは綿密な計画を立てた。たとえリューリがモナリスを望んでいたとしても、彼は王族なのだ。自身の欲のためには動くはずがない。ならば、抜け目のない誘拐の計画を、金も、人脈も惜しまずに作り上げたのだ。リューリには、隙がない。学園への通園のため、護衛の数を減らしているとはいえ、それは微々たる変化。しかし、隙がないのならこじ開ければいい。針のような穴があれば、幾度もつついて無理やりに広げる。それがモナリスという女だ。ヘビのように執念深く、狙った獲物は逃さない。
用心深く、計画を練り上げたはずなのに――。
ああ、なんという不思議。
いつもならば、どんなときでも護衛をつかず、離れず配置させているリューリが。のほほんと一人平和に歩いているではないか。今なら誰にも気づくことなく、リューリを攫うことができる。ああ、こんなことなら、あんなに綿密で、緻密な計画を練る必要なんてなかったわね、とモナリスは笑った。しかし、それでも彼女は油断しない。
一度きりのチャンスのために使った罠たちを、ふんだんに、フルコースのように並べ、しかし躊躇もなくリューリを誘拐した。
「ふふ……私の、王子様……」
「…………!」
馬車の中で、猿轡を噛まされたリューリがもがく。「愛しいわ。やっと、二人きりになれましたわね……」そういって、しなだれかかる。むぐむぐ、とリューリが何かを話している。もしかしてこれは、自身への愛の言葉だろうか……?
リューリの胸元を、服越しに手でなでた。このときを、ずっと自身は望んでいた。ずっと。
「もっと二人きりになるところに、参りましょう……?」
***
時間は少し遡る。
私、エスターは、なんとも久しぶりな人の姿でアニマール家にたどり着いた!
家族や使用人たちの歓待を受け、喜びを得たもつかの間。私にはやるべきことがあった。だから、いつも通り学園に通い無事な姿を周囲に見せ、そして――。
ぽんぽこぽぉんッ!
変身した。そう、リューリ様に変身した。
私は、自身の『運命』に気づいた。私がたぬきから人に戻ることができたのは、きっと……リューリ様のキスがきっかけだ。リューリ様からしてみれば、そんなつもりはなかったのだろうけど、私はリューリ様にキスされてしまったのだ。
お兄様は私をもとに戻す手立ては、『運命』にあると言ったのだ。つまり、私の『運命』とはリューリ様なのだろう。そして、『運命』に危機が訪れているとも。
モナリスの怪しさはわかっていたけれど、たぬきの耳で聞きました、なんてことを言っても誰も信じてくれないし、証拠にもならない。それなら、自分を『化かす』こともできるのでは? と思ったら、大成功だった。毎日リューリ様の想像をしているからかしら?
私がリューリ様となって、危険を肩代わりする。そして同時に、変化した私はリューリ様ではないのだから、簡単に逃げることだってできるはず。
『本当に、その覚悟はあるのか?』
――ソファーに座ってこちらを見つめるお兄様を思い出す。
つまりは自分を囮とする覚悟があるのか、という問い。
もちろん、と私は迷うことなく、はっきりと頷いた。
「うふふ、リューリ様……震えてしまって、お可愛らしいわ……」
「も、もがもも……」
というわけで、モナリスが体をなでなでしているのはリューリ様に変身した私である。怖いですわ。手つきが恐ろしいですわ。一国の王子にこの方は一体何をしていらっしゃるの……。
「あの忌々しいエスター・アニマールを婚約者の座から引き下ろすためには……もうこんなの、あなたと私の既成事実を作るしか、ありませんものね……?」
「もがもももがが!?」
既 成 事 実 ?
ちょっと待って怖いすごく怖い。本当に何する気ですか、いいえナニする気ですか!?
普通こういうのって、王子側ではなく王子の婚約者側を狙いません!? こっち!? こっちなのですか!? なかなか肝が据わっておりますわ、いいえよく見ると目も据わっておりますわ!
モナリスが近づき、私が逃げる。そうこう繰り返しているうちに、馬車が止まったことを振動で感じる。
「ああ、着いたようですわね。……私たちの、愛の巣に」
愛の巣!?
あんまり聞いたことのない表現まで出ましたわ! ご勘弁くださいませ!
「……さ、参りましょう。リューリ様?」
そう言って私は目隠しをされ、もちろん腕も後ろ手に縛られたまま、モナリス以外の誰かの手を借りて馬車から降りる。右に行ったり、左に行ったり、また戻ったりとどこに進んでいるのかすらもわからない。一体ここはどこなのだろう……?
とうとう、どこかの部屋にたどり着いたが、やはり目隠しは取ってくれない。
「こんなところを愛の巣とするには、大変申し訳ございませんが……でも、誰もこない、誰も気づかない場所は、ここしかありませんでしたの」
ごめんなさい、とモナリスは謝っているが、もっと別のことを謝ってほしい。あああどうしようどうしようどうしよう……。いや待て、と私ははた、と気がついた。そうだ、最初からそうするつもりだったじゃないか。
「さ、このベッドに……」と、モナリスが私をベッドの上に無理やり移動させる。今だ! とばかりに、私はベッドのシーツの上に芋虫のごとく潜り込んだ。「あらまあ、かくれんぼですの? 愛しい方……」うふふ、とモナリスは笑っていた……のだけれど。
「…………たぬき?」
「きゅうん」
ぽんぽこぽん。
シーツの海から出てきたのはたぬき(私)だった。変身は任せろ。
この間は力を一回使った程度で倒れてしまったけれど、私は進化したのだ。ちょっとやそっとの変化では意識を失わない。そしてたぬきになることも朝飯前。リューリ様とのキスを……思い出せば、こんな変化! ドキドキですわー!
「なんですのこのたぬき! しっぽがぶおんぶおんと激しく動いていますわ!」
おっと興奮しすぎた。
「なんてこと……リューリ様は、いったいどこに!?」
されていた目隠しは人間サイズであるため、たぬきとなった私にはもちろんなんの意味もない。「どこですの、リューリ様!」とモナリスはベッドの上でシーツをめくり上げて探し続けている。
忙しそうですし、こちらはたぬきなので御暇しますね~という感じで、私は「くうん……」と小さく鳴いてベッドから降りた。あとはとりあえず外に出て、自分がいる場所を把握して、ついでに馬車の御者も確認して……そうすれば芋づる式に悪事を暴けそうだ。なんたるスピーディーな解決法。たぬきは背景みたいなものなので、このままトコトコ歩いてけば平和に帰ることができるだろう。任せろたぬき!
……そう思っていたのに。
「本当に、どこにもリューリ様がおりませんわ、どういうことですの?」
「ぽこぽこぽぉんッ!?」
しっぽを掴まれ私は逆さに吊り下げられた。「まさか、逃げてしまわれた……? どういうことですの、どういうことですのぉ~!」「ぽんぽこ~っ!?」そのまま上下にぶんぶんぶん。壁にダアンッ、ダアンッ、床にもダァンッ!
「ぽ、ぽこ……」
「はあ、はあ、はあ……ちょうどそこにいたたぬきに八つ当たりしても、何も解決しませんわ……」
そんな……全力すぎる八つ当たり……ひどすぎる……。
「リューリ様が逃げてしまったというのなら、この秘密基地もばれてしまったということではありませんか! チャンスは一度きり、その覚悟で準備しておりましたのに……! 計画が成功しなければ、もう私はこの国から逃げるしか……!」
ならこんな、たぬきを虐待している場合では……。
「逃げなければ……まずは冷静に……冷静になるのよ、私……。でも、でも、この気持ち、収まりがつきません。もうこのたぬきをたぬき汁にして、せめて怒りを静めねば……」
「ぽこおおおおおん!?」
「妙な鳴き声ですのね、このたぬき」
変化の力がレベルアップしてからというもの、鳴き声のヴァリエーションが豊かになってしまった私だが、今はそんな場合ではない。「ぽこぽこぽこぽこ!」「この……暴れないでくださいましっ! 今の私は! 冷静さを得るために、栄養が必要なのですわ!」
化かしてこの場をなんとかしないと! と考えても、リューリ様に変化していた時間が長かったからか、思うように力が出ない。たぬき鍋……まさかのたぬき鍋! そんなピンチが、人生にあっただなんて!
逃げなきゃ、と必死に体をくねらせる。頑張って、頑張って、絶対に、逃げなきゃ!
「この……たぬきのくせに、くねくねと! なんで、こううまくいきませんの……!? リューリ様は、私の『運命』だったはずなのに!」
その悲鳴が、逃げ続ける私の胸を、ふと突いた。……『運命』。そうなのね、と思う。モナリスも、私と同じように思っていたのね。
「『運命』なら、私のものになるべきなのに! どうして……どうして!」
ぽこおんっ! ぽこおんっ! とモナリスは私のしっぽを振り回す。痛い。痛いけれど、でも、本当に痛いのは体じゃない。きっと心の、どこかだった。
「私のものに、なんでならないのよぉーッ!」
……私は、リューリ様と初めて出会ったときのことを思い出した。
それは王家が主催する子どもだけのお茶会だった。私はまだ小さくて、舌っ足らずな言葉しか話せないような、不器用な子どもだった。
まだ小さな弟はお留守番。お兄様は自分が目立つ好きな場所に旅立ってしまうし、誰に話しかけることもできず、私はどんくさく、おろおろと周囲を見回しているだけだった。次第に泣きそうになって、それを隠すために自分の金髪で顔を隠し、突っ立っていると、いつの間にか隣に知らない男の子がいた。
私と同じくらいの年の、銀髪の男の子。とても綺麗な顔で、今にも泣き出しそうな私を見て、ふふ、と吹き出すように微笑んだ。恥ずかしくて、さらに私は自分の髪に埋もれる。
『恥ずかしいの?』
うん、と頷く。そのときはまさか、彼が王族であることなんて思わなかった。
『わかるよ。僕もこういうときは恥ずかしい。知らない人がいっぱいだ』
『……そんなふうには、見えません』
『見えないように、頑張っているんだ。それだけ』
『ほんとうに?』
『うん、本当。僕は、いつもこうだから。大丈夫な顔を作ってしまうから。少し君のことが羨ましいな』
……なんてね、と照れたように笑う彼の顔をもっと見たくて。
気づけば自分の顔を隠していた手をどかして、視線を上げていた。少年と、視線が絡み合う。私の髪が、ふわりと風に舞っていた。温かな光が降り注ぐ。
このときテーブルにあるグラスを、誰かがひっくり返した。びっくりしてリューリ様がそちらを見ると、どこかのご令嬢が――そのときは、名前を知らなかったけれど、モナリスが――癇癪を起こしてグラスを人に投げつけたらしい。モナリスは驚いた顔をするリューリ様を見て、一片に顔を真っ赤にさせた。
けれどリューリ様はすぐに顔をそむけて、使用人たちにテーブルの掃除をすることと、怪我人がいないかどうか確認するようにと、的確に指示を飛ばす。
てきぱきと動くリューリ様の姿を見て、私はやっと、彼が王族であることに気づいた。目を見開いてリューリ様を見ていると、彼は少し振り返り、いたずらっ子のような顔をした。秘密だよ、とでも言うように、自分の口元に彼はちょんと人差し指をのせる。
ここで話したことは、秘密に、という意味だと気づいたので、私は必死で何度も頷いた。
その後のことだ。
私がリューリ様の婚約者になったのは。
大丈夫な顔を作ってしまうという彼の心を守りたい。強く、そう思った。
一人怯えている私に声をかけてくれた優しさも、ちゃんと伝わっていたから。
――ならば、強くならなければ。恥ずかしがって、隅っこに逃げている場合じゃない。もっと堂々と、胸を張って。たとえ恥ずかしくても、そうじゃない顔を作って。
そう努力するうちに、いつしか自分の気持ちすらも素直に表に出せないようになってしまったけれど。でも、私は。
「ああッ! リューリ様に見ていただけるように、毎日声をお掛けしているというのに!」
モナリスが叫ぶ。その度に私の体中が痛みを覚えた。もう、どこが痛いかなんて、わからないくらいに。
「どうしてリューリ様は私を見てくださらないの! 最初に会った、あの茶会のときのように! 怪我がないかと、使用人越しに心配してくださったときのように!」
……きっと、モナリスも、私と同じときに、恋をしたんだろう。
わかるよ、と思う。あなたと私は同じ気持ちだから。
しっぽがあれば、好きな気持ちを伝えることができるんじゃないかと、そう願った気持ちと同じように、モナリスはリューリ様に自分の気持ちを知ってほしいだけなんだろう。
「私を、見てェ!」
――でも。
「無理やりなんて、間違ってる……」
勝手に、言葉がこぼれてしまう。
「どれだけ、好きでも」
――こっちを見てほしくて、たまらなくても。
「好きな人のために、努力しても」
――たくさん勉強して、マナーを完璧にしても。
「それはただ、ただの自分自身の自己満足だもの! 気持ちを押し付ける権利なんて、どこにもありませんわ!」
「は……? こ、このたぬき、しゃべって……!? き、気持ち悪いですわ……!」
「たぬきも、令嬢も、関係ないぽこ!」
「ごごごごご語尾まで気持ち悪いですわ!?」
うっかり心がたぬきになりがちである。
この隙に、と私はふんぬとモナリスの手から逃げ出す。ポコオンッ! という効果音を立てて、四本の足をしっかりと踏みしめ、モナリスと向かい合った。
……そうだ。努力をしたところで、相手が自分を絶対に好きになることなんてない。でも、それでも力になりたくて、大好きな人に少しでも振り向いてもらいたくて、頑張るんじゃないか!
「私は、結局努力の方向も間違ってしまって、『悪役令嬢』などと皆に呼ばれるようになってしまいましたが……。モナリスさん、あなただって貴族ならばわかるでしょう!? 人と人は、縁を繋いでいくものです。無理やり繋がれた縁は、いつかどこかで不幸を生むだけだわ!」
「は、はあ……? 『悪役令嬢』って……。それにその声、まさか、エスターさん……!?」
モナリスは可愛らしかったはずの顔へとわしゃわしゃと両手を動かし、皺だらけに歪める。
「わけが……わからない……これは、私の妄想……? リューリ様が、消えてしまったことも……? ううううううう!…………もういいわ。このたぬきを殺す。それで、全てがきっと終わる。全部私の頭の中にある物語なんでしょうね……。さあたぬき、こちらにいらっしゃい……」
いざとなったら、リューリ様を脅すつもりだったのだろうか。
モナリスは迷いなくチェストの中からナイフを取り出す。そして、私に向けた。逃げる――もちろん、それしかない。それしかないのに。扉は一つ。そして、いつの間にかモナリスはその扉を背にしている。
「きゅうっ!」
「ふう、鈍いたぬきですこと!」
私はあっという間にモナリスに首を絞めるように、床に叩きつけられた。「暴れないでちょうだい。刃物の先が狂ってしまうわ」きらり、とナイフが鈍く光る。ぞっとして、震え上がった。恐怖に負けてしまい、動くことすらできない。
「さあ、当初の予定通り、たぬき鍋……いいえ、たぬきパーティーといきましょう……?」
「どっちもほぼ同じ意味だぽこおおおおおお!!!!!」
そして、モナリスはナイフを振り下ろし――――ダアアンッ!!!!! と、背後の扉が吹っ飛んだ。
「エスター、無事かい!?」
飛び込んできたのはリューリ様だ。そんな、と私は口をあけてしまう。モナリスも驚き目を見開いた――表情をしたまま、リューリ様が吹っ飛ばした扉が頭にあたり、「きゅう」とたぬきのような可愛らしい声を出して昏睡する。
「怪我はないか!? 大丈夫か!?」
リューリ様が私を抱き上げてくださる。ああ……なんて……
ひどい光景なのでしょうか。
なんせ私はたぬきです。たぬきを抱き上げ、まるで物語のヒーローのように、リューリ様が私を見つめています。どうかキャストチェンジ……。
私は色んな意味で震えるたぬきの口で問いかける。
「リューリ様、どうしてここに……?」
「それはもちろん、君がいなくなってすぐに、おかしいと気づいたからさ」
「そして、すぐさま私達家族のもとへと助けを求めてくださったのよ」
ダアンッ! と次にやってきたのは、美しい白馬だった。「お、お母様……!?」
「まったく。ケイモンから聞かされたときは肝が冷えたわ。私がリューリ様を背に乗せここまで運んだの。エスター。あなた、この入れ替わりをぎりぎりまで秘密にするように、ケイモンに口止めをしていたわね? あの子はそういうところがあるから……」
ケイモンとはお兄様のことだ。『運命とは、自分の力で得るものさ』とお兄様はファサッと髪をかきあげて、今回私がリューリ様の影武者をすることを秘密にしてくれた。家族に言ったら、絶対に止められると思ったから。
お母様がリューリ様を連れてきてくださったと言っていたけれど、お母様の特殊能力とは、誰よりも速く走ることができることだ。
だからこそ、この短時間でたどり着いたことに納得はできたが、「でも、どうしてここがわかりましたの……?」と次の疑問が湧き出てしまう。
「それは私ッ! 匂いめっちゃクンクンしたよ! すっごく遠くでもわかるから!」
お母様の背後からシュパッと飛び出したのは、犬だった。いやお父様だった。
はふはふ、と舌を出して嬉しそうにしている。
「僕は身体能力が人よりも高いので。潜伏先を発見して、調査を行いました」
と、さらにお母様の背中から顔を出したルストが話す。
「それからそれからッ! まずはばれないように潜入しよう~となりましてッ! 私が穴をたくさん掘りました~ッ!」
プレーリードッグの侍女のアンがルストの膝から、はいはいはいっ!と土だらけの両手を見せてくれた。
「み、みんな……」
じわっと涙が浮かんでしまう。
感動なのか、それとも笑えばいいのかちょっとわからないけど。
『我らアニマール一族は、いつでもお前の味方であることをゆめゆめ忘れるでないよ……。ピンチのときは、いつでも力を貸そう!』
いつかの日、それはお兄様が私に伝えてくださった言葉だ。
……やっぱり笑うわけがない。私は胸がぎゅうっとして、苦しくなって、唇を噛んで頭を下げる。
「心配をかけて、ごめんなさい……」
「本当にね。学園からまた君が消えて、それに彼女……モナリスも見当たらないと聞いて、肝が冷えたよ」
そう言って、リューリ様は私の涙を拭ってくれた。え、ちょっと待って……?
「リューリ様、私のことをエスターだと、わかって……?」
確認するように問いかけると、リューリ様は柔らかく口元を緩ませ、私の頬をなでてくれた。待って、これってどういう意味なの?
「二人とも。ゆっくり話している暇はなくってよ。そこに転んでいるご令嬢は、想像よりもたくさんのお金をばらまいてゴロツキを雇っていたのね……。今、ケイモンがゴロツキたちの気を引いてくれているわ。その間に早くここを脱出しましょう」
「お兄様が……!?」
ちなみにおさらいであるが、お兄様の特殊能力とは『とても目立つ』という力である。
――エスターは知らぬことだが、その頃ケイモンは一人孔雀の姿となり尾を広げ、しゃなり、しゃなりと歩いていた。
「なんか変な鳥がいるぞ……?」とまずは注目を集め、「高く売れそうな羽をしてるな」「よし抜くか」と追いかけられ始めていた。ただの孔雀のふりをしている上に、ゴロツキたちの気を引くという任務もあるため、ケイモンは二本の足で優雅に、けれども必死で逃げている最中だった。
――アッ、アッ、アッ、足がもつれそう。アッ、アッ、ヤバ、すごくヤバ……!
こんな感じで。
「お兄様……! そんな、大変ですわ……!」
いつもと変わらなさすぎて、お兄様の特殊能力は役に立ちそうにありませんわ、なんて過去には考えたことのある自分を殴ってやりたい。
「ええ。ですから早く迎えに行ってあげましょう。私の背に乗せれば、ひとっ飛びですわよ」
「皆の者、母に続くのだーッ! ゆっくぞーうッ!」
にこりと馬の目を細めて笑うお母様の上で、お父様はぴょんぴょん跳ねて元気である。ルストがアンを、リューリ様がたぬきのままである私を抱えて、ぴょーんっ! と窓のガラスを割って飛び降りる。そしてちょこちょこ逃げていたお兄様(孔雀)を回収する。もはやお兄様は瀕死だった。
「本当は、屋敷の者の多くが、エスター、あなたを迎えに行くと主張したの。けれど、私の背に乗れる数のみとなると、どうしてもね」
颯爽と木々の隙間を駆けて、お母様はぱちりとウィンクするように語った。
お母様が走る度に、美しい体がしなる。強い生命力が、伝わってくる。
……ああ、なんて優雅な生き物なんだろう。
私も、こんなふうに。こんなふうに、なれたら――。
***
リューリ様、そして私の家族たちの大脱出から、もう二週間。
すっかりたぬきの体に慣れてしまった私だけれど、リューリ様にキスをしていただいたときのドキドキを思い出せば、きちんと人の体に戻ることができた。もちろん、もうたぬきの耳もしっぽもない。驚くとぴょこっと飛び出てしまうときがあるので、しばらくはお団子頭のままでなければいけないみたいだけれど。
「僕は、初めから君が動物に変身することを知っていたよ」
と、話すのはリューリ様だ。
あれからたくさんのことがあって、実際にリューリ様とお話しするのは二週間ぶりだ。
私はリューリ様の茶会に招待され、王城に向かった。招待された、とはいっても、王家の庭に設置されたガゼボの中には私とリューリ様だけ。護衛の人たちは離れた場所から私たちを見守っている。
以前なら慣れない場所にどきどきしたかもしれないけれど、たぬきであったときに何度も来た場所なので、それほど緊張しないでいられる。
「初めから、とは……?」
「君と婚約をしたときからだよ。アニマール家の特別な力を王家に取り入れたい、という理由なのだから、僕が君たち一族の力を知らないわけがないだろう?」
「……その通りですわね」
おっしゃる通りですわー!! と心の中は恥の気持ちが震えて大変なのに、相変わらず私はクールな顔で紅茶のソーサーを持ち上げてしまう。必死にたぬきであることを隠そうとしていた私はなんと愚かなのだろうか……。
「と、いうことは、私ということをわかって学園でたぬきを拾った、ということでしょうか」
「いや、それは違う。動物に変化することがあるとは知っていても、さすがにね。ただ、ケイモンが孔雀の姿で君のもとを訪ねてきたことがあるだろう? その際にケイモンから教えてもらったよ」
そういえば、その付近からリューリ様は様子がおかしくなっていらっしゃったように思う。
なるほどそういうこと……。暗躍が好きなお兄様ですわ。『運命』は自分で掴むもの、という主張はしていても、万一のことを考えてリューリ様には事情を伝えておいたのだろう。
けれどリューリ様には、自身が知っていることは黙っているように、とも忠告した……。
なんとなく状況が見えてきたわ。
「そうでしたのね。……その節は大変ご面倒をおかけいたしまして、申し訳ございません」
「いや。僕の方こそ、モナリスが奇妙な動きをしていたことは知っていたけれど、あそこまで執念深く準備をしているとは思いもよらなかった。君が囮にならなければ、僕も危なかっただろう」
「そうおっしゃっていただけるのなら、こちらも骨を折ったかいがございますわね」
アッ、アッ、アッ、なんで私は、こんなに偉そうなことを言っていますの~!?
『僕の婚約者はいい女だな……』なんてリューリ様に思っていただきたいから、という自分の心根の薄っぺらさには気づいている。モナリスには『人と人は、縁を繋いでいくもの』と勢い余って説教じみた言葉を発してしまったのに、言った私が繋げていない。
強くなることと、孤高を気取ることは別に決まっているのに。
私は本当は心が弱いから、そうしないと強いふりもできない。
泣いてしまいそうな気分でゆっくりと紅茶を飲み、なんてことのない顔を作り、リューリ様の話の続きを待つ。
「モナリスは僕を捕らえようとしたこと以外にも、随分悪いお友達が多かったことがわかったよ。ただの貴族令嬢である彼女一人の力ではないだろうから、さらに多くの膿を出し切ることができそうだ。モナリス本人は、『たぬきの悪夢を見た』と少しおかしくなっているみたいだけどね」
「夢と思っていただけているのなら、よかったですわ」
いつもの通りにすました顔と返事をすると、リューリ様は会話を止めて、じっと私を見つめた。一体どうしたのかしら……?
「……君は、全然本当のことを言ってくれないね」
テーブルに肘を乗せて顎に手を置き、ぽつりと呟く。
本当の、こと……?
リューリ様は、目を伏せ、ふうと短く息を落とす。そして次に顔を上げたとき、彼はとても強い瞳を私に向けた。……まるで、何かの覚悟をし終えた後のような。
「だから、僕が先に言うよ。本当は……学園でたぬきを拾ったとき、君に少し似ているな、と思ったんだ」
ぶふっ! と紅茶を吹き出しそうになる寸前で、なんとか止める。紅茶を置いて慌ててリューリ様を見つめると、彼は少しだけ悲しそうな顔をしているように見えた。
「君は『悪役令嬢』と学園で言われることもあるけれど、本当は違う。子どもの頃に、初めて出会ったときの優しい君のままだ。男爵令嬢の……たしか、エーティだったかな。彼女の服装を指摘したときも見ていたよ。エーティがモナリスのおもちゃにされていることを知って、嫌われることを覚悟して言いに行ったんだろう?」
「みみみみみみ見ていた、見ていた、とは!? どこからですか!?」
「どこから? 君がエーティたちを見て、あわあわと震えてどうしようとその場でくるくる回って、大きく息を吸って覚悟を決めて足を踏み出し、『制服が乱れていましてよ』とちょっと震え声で言ったところからかな?」
「最初どころか、さらに遡っていらっしゃいますわね!?」
あと声は震えていなかったはずですわ! 見かけだけは完璧なつもりですもの!
でも、とにかく恥ずかしくて、私は熱い顔を隠すように両手を顔につけ、ぎゅっと目をつむった。
人前では強くあろうとしているのに、周囲に人がいなければ気を抜いてしまう。なんて間抜けなんだろう、と。
「……やっと、その顔を見せてくれたね」
なのにリューリ様は心底嬉しそうに、花が咲いたようにほころんだ。
テーブル越しに手を伸ばして、私の頬をそっと包む。
「いつも怖がっていて、でもそれを見せぬようにと強がっている君が好きだよ。……でも、できれば僕の前ではもう少し肩の力を抜いてくれると嬉しいな」
「あわわわわわ」
「ずっとこのことを伝えたかった。でも頑張っている君の邪魔はしたくなかったんだ」
唐突の接触に心が大変なことになって、わわわわ、と混乱する私の頭からはたぬきの耳が、ぴこんっ! と。お尻からはしっぽがぼふんっ! と生えてしまう。
ああ、どうしましょう!?
「……エスター。もしかして、今とてもしっぽを振っている?」
苦笑したように尋ねられた言葉に、「……はい」と諦めたように小さな声で頷く。高速で揺れているしっぽが、椅子をばしんばしんと叩きまくっているのだ。わからないはずがない。
しっぽがあれば、リューリ様に私の気持ちを伝えることができるのにと思っていたはずが、今度はしっぽがあることが恥ずかしい。こんなにも、色んな気持ちが丸見えになってしまうだなんて。
なんということだろう、とただただ赤面するしかない私に、「ふふ」とリューリ様はさぞおかしそうに笑った。
「君と僕との子どもは、きっととても可愛らしいだろうな。どんなしっぽと耳が生えるんだろうね? 今から楽しみだよ。ちょっと気が早すぎるかな?」
「え、あの、リューリ様……もしかして今、たぬきで想像していらっしゃいます……?」
私はただしっぽと耳が生えるだけで、たぬきが正体というわけじゃないのだけれど……。
***
それから。
リューリ様の従者であるブライを見かけると、ときどき寂しそうな顔をしている気がした。眼鏡のブリッジを上げる手つきも、しょんぼりしているように見える。
「……あのたぬきは、どこに行ったんでしょう。食事に困ったりしていないでしょうか。心配です……」
「ふふ。そんなに心配しなくても、大丈夫さ」
「リューリ様はご自身の婚約者の名前をつけるくらいに気に入っていらっしゃったのに、気にならないのですか? だいたい、なんでエスター様の名をあのたぬきに……」
「もちろん気にしているよ。……だって、あのたぬきはエスターにとてもよく似ていたからね」
「どこかですか!? いえ、リューリ様のご婚約者様に無礼を承知で言いますが、あのたぬきとエスター様はまったく似ていません! あんなに愛らしいたぬきと、エスター様を一緒にしないでください!」
「……いつかお前が、自身の台詞に驚く日を知りたいような、でも教えたくないような……。僕は不思議な気分になっているよ」
「ああ、食事が心配です……あのつやつやな毛並みをきちんと保っているんでしょうか……やっぱり、生肉をあげるべきだったかも……」
「うーん。聞いていないねぇ」
――なんて会話がされていたことを、私は知らない。
***
「あの、エスター様!」
「……エーティさん?」
学園までの道を歩いていると、私は声をかけられた。モナリスと一緒にいた男爵令嬢、エーティさんだ。
エーティさんは真っ赤な顔をして鞄を握りしめ、私を見つめている。モナリスがいなくなってからというもの、モナリスの取り巻きたちと一緒にいることはやめたらしい。そのことに私は少しだけ安心していた。
どうしたのかしら、とエーティさんへと振り返ったまま首を傾げると、「あ、あ、あの……」彼女は鞄を持つ手をこねるような仕草をして、俯いてしまった。
もしやまた、何か困りごとがあるのだろうか。なんたること。私にできることなら、力になりますよと言おうとして――「一緒に、教室まで行きませんか!?」と、エーティさんは決死の思い、といった様子で叫んだ。
話している様子と内容が噛み合っていないような気がしたけれど、ぶるぶると震え続ける彼女の手を見て、私は瞬いた後に少しだけ考えて、「ええ、もちろん」と答えた。
そのとき私は、不思議といつもと違っていて、にっこりと自然な笑顔を向けることができた。
「――あ、ありがとうございます!」
そしてそんな私に負けないくらいに、エーティさんはそれはそれは嬉しそうに、笑った。
「あ、あの、エスター様、最近はその髪型なんですね、お団子の……」
「ええ。少し幼すぎるかしら」
「エスター様なら、なんでも似合います! 素敵です! 本当は、ずっとそれを伝えたくて……」
「ありがとう。嬉しいわ」
***
少しずつ、少しずつだけれど、何かが変わっていくような気がする。
たぬきの姿になってしまってリューリ様と一緒に暮らしていたときは、心の底では『リューリ様と一緒にいることができるなら、もうこのままでもいいのかも』と考えていたけれど、そんなの駄目だと今ならわかる。
弱い私も、強がる私も、そしてたぬきの姿も、全部私なのだから。
全てをひっくるめて、全部を力に変えて、私はリューリ様の隣を生きてみせる。
「お嬢様ァー! あちらで困っていらっしゃる方が!」
「アン、よく教えてくれましたわね」
「悪いやつは、私が穴を掘って埋めちゃいます!」
「ならば私は、被害者の救出を。行きますわよっ!」
さっと人差し指を伸ばし、念じる。
――ぽん、ぽん、ぽんぽこっ!