〜ただ笑っててほしい、それだけでよかったのに〜
やばい。止まらない。助けて。誰か私を止めてーー。
脳はそう叫んでるのに、体が、止まらないーー!
「犯罪者‥‥!あんたたちのせいで‥!」
シャーペンを瀬里くんに振りかざしたその時。
『花鈴‥!』
昨日抱きしめられた時の、凪の体温を思い出す。
私が今ここで瀬里くんを思うままにしたら、凪はどうなる?
『見て凪!子猫がいる!多分野良だよ‥』
『おーほんとだな。お腹減ってそうだけど、何も持ってねーよ‥』
『ちょっと待ってて!』
バビュンッと家に帰って、慌てて冷蔵庫から煮干しを取り出してまた逆走。
凪はしゃがみ込んで子猫が車に轢かれないよう守ってくれていた。
『家にあった煮干し持ってきた‥!うちは猫飼えないけど、確か近くに猫保護してくれるとこあったよね?』
『あーあったなそういや。役場の真反対のとこにな』
『うん、この子連れて行こう』
持っていた体操服で子猫を包んで、凪とあずけに行った時の記憶だ。
『いやー、無事に保護されてよかったな』
『そうだねー、いやーひとっ走りしたから暑いや』
『花鈴って昔からお人よしだよな。すごいと思う』
凪は、意地悪を言ってくる時もあるけど、ひねくれてるわけじゃなくてちゃんと好意も伝えてくれる人だった。
一緒にいるとつっぱねてしまう私と違って、彼はまっすぐに態度で表してくれる。
「嫌だ‥‥」
ぎゅうっと力強くシャーペンを握って。
上に挙げていたそれを、力なく落とす。
「は‥‥?」
私を見る男の子たちの目は、完全にやばいものを見る目だ。
「私まだ、嫌われたくないよ‥‥っ!」
私が人助けをすると、仕方ないなって顔でいつもサポートしてくれる凪。
そんな私をすごいって言ってくれて、支えてくれた。
でも、今私がしようとしてることは?
凪は今の私を見て、嬉しいって、思うのかな?
今までの幼馴染との思い出や会話が、一気に脳に溢れる。
それらを噛み締めて、そして。
「やっぱりあなたはそんなこと、思わないよね‥‥」
震える両手をぎゅうっと胸の前できつくきつく握り込む。
まるで、枷で己自身を制御するかのように。
「花鈴ちゃんっ!!」
はっとして耳が声を拾い始めると、一気に私たちの周りが騒がしくなっていることに気づく。
人だかりをかき分けて走り寄ってきたのは、美琴だった。
「花鈴ちゃん、何してるの!?普段こんなことする人じゃないじゃん!何があったの!?」
何してるの‥‥?
その言葉が、想像以上に頭にずしっと乗り掛かる。
「‥‥ごめん、今説明するのが難しい」
「なんでこうなる前に先に言ってくれなかったの‥?花鈴ちゃん、自分が何しようとしてたかわかってる‥!?」
私を見上げる瀬里くんを一瞥して、できるだけ平坦な声で答える。
「わかってるよ。だからやめたんじゃん」
「やろうとしてたってことは分かってないんだよ!瀬里くんが大怪我するとこだったんだよ!?」
優しい彼女のことだ。人が暴力を振るうところを見て、叱責するのが彼女らしい。
私だって普段はそうだ。だけど、だけどさ。
「美琴はさ、好きな人はいないの?」
「え?」
「じゃあ家族は?友達は?ずうっと笑顔でいてほしいなあってひと。ずうっとそばにいたいひと。‥‥愛してるってひと」
美琴が、理解できないとでもいうように眉をひそめる。
「‥‥それとなんの関係が」
「殺されたことないでしょ?その人が病気や事故じゃなく、誰かの手によって人生を奪われたことが。だからそう言えるんだよ」
精神病患者は、身体が健康だったとしても、精神を一度殺された、一度死んだ者と同じだ。
「‥‥何も知らないのに、勝手に言わないでよ」
美琴の顔がカッと赤くなり、鋭い口調になる。
「何も知らないって、花鈴ちゃんが何も相談してくれなかったんじゃん‥!」
「‥‥できなかったんだよ」
だって、凪のことを話したところで、美琴が周りに喋らないとも限らない。
人間は、99%は信じれても、100%は信じられない。
「うちら、友達じゃん‥!」
何も言い返さず口をつぐむ私を、美琴が悲しげな顔で見つめる。
「先生!川岸さんが‥」
「何があったの!?授業始まるよ!ごめんちょっと通して!」
誰かが緑川先生を呼んできたようだ。
そのときチャイムの音が鳴って、みんなは渋々クラスへと戻っていったけど、私と瀬里くんは緑川先生によって職員室へと連れて行かれた。
瀬里くんは凪のクラスの担任の先生に、私は緑川先生の後についていく。
「ここ座って」
そう言って先生が、職員室横の、生徒の相談に乗るスペースを手で指す。
真正面には、校門と青空が見える。
せみが鳴き始めた。今頃みんなは、授業を受けている。
「川岸さん。どうして瀬里くんの上に乗っていたの?」
先生は体を横にして私に向かい合っているけど、私は横を向けない。向きたくない。
この人に言ったって、分かってくれるかどうかわからない。
さっきの美琴みたいに、この人も、私が全て悪いみたいに思ってるかも。
「‥‥僕、大切な人がいたんです」
唐突な出だしに、握っていたスカートから手を離して、でも目線はそのままで聞き入る。
「彼女は元僕の教え子で、卒業したら付き合おうと決めていました。彼女が無事に卒業して、なんの職業に着いたと思います?…僕と同じ、教師だったんですよ。たまたま彼女にとって最初の職場が一緒で、何年か一緒に働いていました。彼女は、生徒が大好きな人だった」
先生にも、そんな人がいたんだ‥‥。
「一緒に、誕生日ケーキを食べようと約束していました。そのひ彼女は学校で遅くまで仕事をしていて、僕は早めに上がって、彼女の家で、サプライズ用の飾り付けの準備をしていたんです。だけどその日、彼女は帰ってこなかった」
帰ってこなかった‥‥?
「彼女は家に帰る際、通り魔に襲われ、命を落としました」
先生と二人、見つめ合う。
「‥‥なんで、そんな平気そうなんですか‥?」
先生の顔は、あくまで普通。なんで、そんな顔ができるの?だって。
「なんで」
「平気なんかじゃありません。今だって、夢に見ます」
先生が、クシャリと髪を握る。
「なんでサプライズなんかしようとしてたんだろうって。あの日、僕も一緒に残って、二人で一緒に帰っていれば、まだ被害は小さかったかもしれないのに。ただ笑って欲しくて、その日を一年で一番特別な日だって思って欲しくて。その結果が、これなんです」
そんな、そんなの‥‥。
「‥‥なんで、川岸さんが泣くんですか」
緑川先生が、近くにあったティッシュ箱を渡してくれる。
「凪‥‥本人からは聞いてないけど、私の大切な人も、多分、私を危険から遠ざけようとしてくれていたんです」
おばさんは、凪はいじめに遭っていたと言っていた。相手は、瀬里くんたちでまちがいないだろう。
彼らがなぜか私に関わろうとしていたのを、凪が守ってくれていたんだ。
「でもその結果、凪は統合失調症になっちゃったんです‥‥!先生と同じで、凪も、自分の行動を後悔しているんでしょうか‥‥っ」
凪の異変に気づけなかった。それどころか、元凶は、私だった。
『犯罪者‥!!』
自分が瀬里くんに言った言葉が蘇る。
私も、彼らと何も変わらない。大切なひとの人生を、狂わせてしまった。
「それはどうなんでしょうか」
優しい、緑川先生の声が響く。
「凪くんって、隣のクラスの生徒ですよね。彼は統合失調症になった後、どうしているんですか?」
「‥‥ここ一ヶ月は、毎日凪の家に通って、何気ない会話をしたりしてます。でもこの前も夜に家を飛び出たりとか、幻聴とか、精神が不安定なんです」
「そっか‥‥それは辛かったね」
緑川先生が、まっすぐ私の目を見て口を開く。
「凪くんに関しては、教師として、いじめが起こっていたときに気づけなかった僕らの責任でもある。詳細はよくわからないけど、凪くんは今、自分の孤独と向き合っている。傷ついて、苦しくて辛い体験もいっぱいしただろう。だけど、そんな時に君は、川岸さんだけは、そばにいて、彼と話をしようとしている」
はっと目を見開く。
私がまだ、凪の世界にいるんだと認識したあの日の夜。
抱きしめてくれていた腕は、震えていた。
「それは彼にとって、すごく心強くて、涙が出そうになる程嬉しいことだったかもしれない。その人が変わってしまった後も、変わらずそばにいるというのは、みんながやろうと思ってもできることじゃない。もちろん彼に聞いてみなければわからないけど、僕が凪くんだったら、本当に嬉しいだろうなって思うよ」
「‥‥凪は、私にとって、家族のように大切で、でも家族以上に特別な存在なんです。だから、瀬里くんたちが凪をいじめてたって聞いて、抑えられなくてっ‥‥」
「‥‥教師として、暴力はダメだって言わないといけないのはわかってる。だけど僕にも君の気持ちがわかるから、何も言えないんだ。君がどれだけ彼のことを大切に思っているか、よく伝わったよ」
視界が霞む。輪郭が、ぼやけていく。
伝わった‥‥?
声は届かないんだと、心のどこかで諦めていた思い。
それでも声をかけ続けることを諦めたくないと思っていたけど。
私の思い、今、伝わったんだ。
冷房なんてない廊下で、静寂に包まれた職員室横の一角。
だけどそこで、私は大切なことを学んだ。
「先生。思いは、願いは、諦めなければ届く可能性は無限にあるんですね」
「……そうだね」
「私、緑川先生が担任の先生で、良かったです」
先生は目を見開いたあとに、噛み締めるように、それでいて悲しそうに笑った。
「教師冥利につきます」
『ねえ珞くん』
『学校でくらい先生と呼びなさい』
『私、将来教師になろうと思うんだ』
『そういえば進路希望調査に教育系の大学かいてたね。なんで急に?』
もじもじと手をいじったあとに、たしかに、と彼女が続ける。
『私はそんな勉強好きじゃないし、成績もそこまでよくない。……でも、珞くんみたいな教師になりたいって思ったっていうか…』
『僕みたいな?』
『珞くんは、私が1番つらいときに、話を聞いてくれたでしょ?私、それが死ぬほど嬉しかったの。だから私も、こんな先生に、こんな人になりたいって思って……』
『で、でも、教師が生徒の悩みを聞くのは当たり前だし、アドバイスもなにもしてないし…』
『それが当たり前じゃないんだって!それに、ただ向かい合って、目を見て声を聞いてくれたっていう、ただそれだけのことが、本当に嬉しかったんだよ。珞くんが私の先生で良かったって、心の底から思うほどに』
放心状態の僕をみて、今度はしたり顔でにひっと笑った。
『将来一緒に働いて、一緒の家に住んで、ずっと一緒にいようね!』
『…ほんとに君って子は…』
彼女の笑顔も、彼女との未来も、あの日見た入道雲みたいに僕の心を奪ったくせに、降り注ぐ雨と共に消えてしまった。
彼女を僕から奪った犯人を、僕は一生許さない。
だから僕は、川岸さんが瀬里くんにしようとしたことを責められない。
「……瀬里くん側からも、きちんと話を聞きましょう。彼が本当に凪くんをいじめていたのか。たぶんそろそろあっちも話し合いが終わった頃なので」
「……はい」
先生と一緒に席を立って向かったのは、来賓客に対応する用の部屋だった。
「失礼します」
扉を開けると、瀬里くんと、途中で呼び出された同じグループの男の子たち、そして彼らの担任の日下先生が座っていた。
瀬里くんが、キッと私に鋭い視線を投げる。
それに気にしないふりをして、緑川先生と共に彼らの正面の椅子に座る。
「じゃあ、川岸さん、休み時間のことを詳しく教えてくれるかな?」
真正面に座る瀬里くんを見ると、また腹の底から燃えたぎるような怒りがわいてくる。
だけど今度は、怒りに支配されないように、コントロールして、ちゃんと話をするんだ。
私がまっすぐに見つめ返した視線と、瀬里くんの睨んだ目つきが交わって、危険な化学反応が起こりそうな雰囲気を醸し出す。
片方は怒りを含む瞳で、かたやもう一方は温度のない瞳で見つめる中、二人の頭上で、次の授業開始のチャイムが鳴り響いた。
皆さん、こんにちは!(この文以降、自分語りですお時間のない方はここで読むのをやめていただいて構いません)
今話から登場した緑川先生ですが、実はモデルがいて、私の恩師なんです。
弟がまだ統合失調症だと診断される前、そして診断された後も、しばらく私たち家族はこのことを誰にも言えませんでした。
実は弟をいじめていた主犯は、私の一番仲の良かった女の子の弟だったのです。
この時ばかりは、運命を恨みました。
花鈴が感じていたような怒りを、友達にも抱いていなかったと言ったら嘘になります。
何せ家族の精神を壊した犯罪者の姉であり、その弟のことを大切に思っていた人だったからです。
だけど彼女は、ただただ人情深い人でした。私が、この子とこの子の弟は同じ家族とはいえ、全く別の人間なのだ、彼女はこの事とは無関係だと綺麗さっぱり割り切れたほどに。
彼女の人柄がなければ、私は彼女にも等しくマイナスの感情を持っていた事だと思います。
彼女には思い詰めて欲しくなく、私は彼女に弟のことを話しませんでした。
彼女は何も知らないから、当たり前のように彼女の弟の話をしてきます。
やっぱり自分で決めたこととはいえ、その時ばかりは複雑以外の感情が出てきませんでした。
その弟の嬉しかったことや兄弟間での会話など、聞いていると本当に憤りを感じました。
だけど彼女には負い目を感じて欲しくない。その一心で、笑顔を貫き通していました。
だけど親友や他の友達にも、いとこにも話せず、家に帰ったら会話が成り立たない弟がいる。
無意識に、心の中にとてつもないストレスを抱えていました。
そんな時に、学校でいじめに関するアンケートが配られました。
みんな、これにいじめを見たことがあると書いたら、放課後に呼び出されることはわかっていたので、毎回適当に書いているんですが、私はその時精神の限界で、自分の学校のいじめとは関係のない、弟のことを書いて封筒に入れ提出しました。
案の定放課後に呼び出された時に我に返り、「すみません、関係のないことを書いてしましました」と言ったんです。
だってこのアンケートは、生徒の日々が平和かどうかを確認するためのもので、単なる悩みを書くものではなかったから。
だけどその先生は、「一時間後って空いてる?」と笑ってくれたんです。
その日はテスト期間か何かで授業が終わるのが早くて、帰る人は帰るし勉強するために残るという人もいました。
その先生は情報と数学の先生で、学校でも重要な役職についていたらしく、外部の方との会議も多い先生でした。
担任ではあったけど、それまであまり話したことがなく、ただ優しげで、忙しそうな先生という印象しかない人だったんです。
約束通り一時間後に相談スペースへ行った後、私は初めて、家族以外の人に悩みを打ち明けました。
改めて言語化してみると、心も落ち着いて、いつの間にか震えも止まっていました。
先生は全て聞いてくれた上で、「あなたが弟くんを大事に思っていることがすごく伝わりました」と言ってくれたんです。
誰にも言ったことのなかった、でもずっと吐き出したかった思いを、受け止めてくれた。
たったそれだけのことが、ずっとずっと嬉しくて、私の中でその先生は恩師になりました。
その先生は今は遠くの地域の学校で教師をしています。
彼が離任する日、他の子に混じってお別れの挨拶をしなかった自分のことを悔やんでいます。
たった一言、あの時はありがとうございましたって、それだけが言えませんでした。
またいつかあの人に会ったら、今では伝えたいことがたくさんあります。
皆さんも、今近くにいて感謝を伝えたい人がいるのなら、心にしまっておかずに、言葉で感謝を伝えてみるといいと思います。
それが家族でも友達でも、仕事場の人でも。
ずっとそばにいるなんて可能性は、100%ではありません。
後悔する前に、たった一言だけでも、伝えてみてもいいかもしれませんよ。
長々と失礼しました。ここまで読んでくださった方々、ありがとうございました!
また次話でお会いしましょう!