~届かなくても、叫び続ける~
「凪っ!!」
扉が壊れる勢いで外に出ると、そこにもう凪の姿はなかった。
外はもう群青色に染まりつつある。早く見つけないと、夜になる!
「おばさん!私通学路見てくるから、おばさんは右の方お願いしますっ!」
「わかった!花鈴ちゃん、もし見つけたら凪のスマホに電話して!私が今持ってるから!」
「はいっ!」
頭が真っ白。足も上手く動かせない。過呼吸になったみたいに息が浅くなってる。
「凪ーっ!」
近所を叫びながら走り抜けるけど、どこにもいない。
学校まで行ったのかな?でもなんで‥‥
今までこんなことなかったのにっ‥‥!
犬と散歩中のおじさんや、対向車線の車を運転している人が、私をチラリとみては通り過ぎていく。
私、何やってるんだろう。
つい一ヶ月前の私なら、今頃、家族とご飯を食べたり、凪に電話でわかんない課題のとこを教えてもらったりしていた時間だ。
なんで、こんなことになっちゃったんだろう。
どんどん目線が下になっていく。
「あっ!?」
ちょうど右手側に海が見えてきた。
砂浜に誰かいると思ったら、見覚えのある服を着た凪が立ってる。
「凪っ!!」
靴を脱ぐ暇なんてない。砂に足を取られながら、でも一生懸命手足を動かして、彼の元へ向かう。
なんとかたどり着いたけど、半ば倒れ込むようにして、彼にしがみついてしまった。
「ご、めん凪っ‥!って、勝手に家出たらダメじゃん!しかもなんでこんなとこいんの!?」
息は絶えだえ、汗はびっしょり。こんな状態で抱きついてしまったのが恥ずかしくて、すぐに離れようと顔を上げたけど、彼の顔を見て、息が止まった。
凪は、私を、見ていなかった。
ただ、海の向こうにある何かだけを、瞳に映していた。
波の音が大きく響く。
「凪‥‥?」
「ごめん。俺いくわ」
「はあっ!?ちょ、凪っ!!」
あろうことか、凪が靴のまま、波へと一歩踏み出した。
「どこ行ってんの!?そっちは何もないって!!」
「行かなきゃなんだよ離して」
「バカっ離せるわけないでしょ!?」
元運動部で、私よりも大幅な体格の男の子。
そんな人に力で勝てるわけもなく、ずるずると引っ張られていく。
「帰ろうっ凪!あんたが言ってるそれは幻覚だから!」
「そんなわけない。ほんとに聞こえるんだって」
この幻覚や妄想の怖いところは、本人がそれを“本当“だと信じてしまうところだ。
体の全ての機能を制御する脳を、コントロールできなくなる物質が多く出る病気だって書いてあった。
「花鈴」
呼ばれるのがずっと好きだった名前に、苛立ちが含まれている。
「離して」
力強い、言葉と体からの拒絶だ。
「‥‥いや、いやだよ、凪っ‥‥」
目の前にある顔は無表情だけど、私を拒んでいるのが見て取れる。
どんどん、波が深くなっていく。
もう私の膝上のスカートが濡れるくらいまで来てしまった。
そうだ、せめておばさんに電話‥‥!
ポケットからスマホを出そうとするけど、片手で凪を押さえながら取り出すのは、すごく難しい。
そして凪が身をよじった瞬間、ぽちゃんとスマホが海に落ちてしまった。
「あっ‥!」
どうしよう。誰にも助けを呼べない。夜に海に来る人なんていないし、おばさんは真反対の方向を探している。
「行かないで凪っお願い!ねえ!凪ってばっ!」
どれだけ叫んでも、喚いても、伝わらない。
こんなに体は近いのに、心に、届かない。
私は必死なのに、凪にとってはまるで、虫の羽音のように感じるのかな。
ああ、なんでこんなことになってるんだろう。
凪が、何をしたっていうんだろう。
「……お願い、誰か助けてっ‥‥」
弱々しく呟いた、その時。
「花鈴ちゃんっ!凪っ!大丈夫か!?すぐいくからもうちょっとの辛抱だ!」
後ろを振り返ると、遠くから凪のお父さんが走ってきているのがわかった。
ズボンを濡らしながら私たちのところまできて、凪をガシッと捕まえる。
「凪、もう帰ろう。な?」
「でも‥‥俺行かなきゃ‥」
「それは今日じゃない。ほらいくぞ。花鈴ちゃん足元気をつけてね」
「は、はい」
靴もスカートもびしゃびしゃのまま砂浜に上がると、ペタンと尻餅をついてしまった。
さっき着いたおばさんが、慌ててタオルを巻いてくれる。
「すみません、電話しようと思ったんですけど、スマホ海に落としちゃって‥‥」
「そうだったの!?お父さんが帰り際にあなたたちを見かけたっていうから、慌ててきたけど、まさかこんなとこにいたなんて‥‥二人とも無事でよかったっ‥‥!」
おばさんが泣きながら、ぎゅうっと抱きしめてくれる。
懐かしい、凪の家の匂いだ。
それがわかった途端、緊張と不安と焦りと、さっきまで溜め込んでいたものがどぱっと溢れて来る。
「凪が、どこか行っちゃうって思ったら、すごく怖かった‥‥」
「うん」
「凪に、私の声が届かないのが、悲しかったっ‥‥」
「うん‥そうだね‥」
その後、おじさんは凪と家に帰って、おばさんの方は全身びしょ濡れの私のことを、お母さんに謝罪しに来た。
スマホは弁償しますと言うおばさんに、落としたのは私だし、大丈夫ですって伝えたけど、気が済まなかったみたいで、後日新しいスマホが届いた。
そのひおばさんとお母さんは、私の家で遅くまで話し合いをしていたけど、どっときた疲労感で、私はすぐにベッドで眠りについたのだった。
「くしゅんっ!」
「あらら…7度5分あるね。今日は学校休みな」
翌日の朝。寒気と頭のだるさで目を覚ますと、案の定熱があった。
やっぱり昨日、8月とはいえ夜の海に浸かったからだろうな。
「……昨日おばさんから凪のこと聞いたの?」
「うん。まさか凪くんがそんなことになってるなんて、知らなかったなあ。花鈴も教えてくれないし」
「いや……おばさんたちが言ってからのほうがいいかなって思ってたし…」
「心の整理がついてから話そうと思ってたって言ってたわ。にしても、どうりで最近花鈴の帰りが遅かったわけね」
「うん‥‥」
「無理して疲れてたんだよ。凪くんがそうなっちゃってるし」
そう、なのかな‥‥。確かに、疲れていないと言えば嘘になる。
好きな人が、別人みたいになって、元気もなくて。
「そっか、私も、無理してたんだな‥‥」
辛いのは凪本人と家族のおばさんたちだけだと思っていたけど。
天井を見つめる私に目線をやって、お母さんはそっと部屋を後にした。
昨日は本当に、怖かった。
体の芯から冷えていくほどの焦りと不安。
凪が私の声を聞いてくれないことへの絶望。
「凪‥‥」
私がこの名前を呼ぶと、必ず、目を合わせてくれる。笑ってくれる。
そんな凪は、もう、いない。
「っ‥‥うう‥っ」
体と頭は燃えるように熱いのに、流れてくる涙は冷たかった。
夜ご飯を食べた後に、凪の家のインターホンを鳴らす。
「…!あら!花鈴ちゃん!?もう熱は…」
「こんばんはおばさん。熱は、学校休んだら下がりました。昨日あんなことがあったから、やっぱり凪に会わないと心配で」
「花鈴ちゃん……本当に、無理しなくていいのよ…?」
口をつぐんで、もう一度問いかける。
……うん、やっぱり。
「確かに無理はしてます。でも、ただのわがままなんです」
やっぱり私は、凪のそばで、向き合いたい。
声が届かないということは、わかってる。
何を言っても無駄なんだろうとわかっている。
昨日のたった一日で、嫌という程理解した。
それでも、ここで私が声をかけつづけることをやめるつもりはない。
それが、今日一日ベッドで導き出した、私の行動の核ともいえる決意だ。
「……今日、凪が…」
「花鈴…!」
凪の声のあとに、足音が近づいてくる。
凪だ。ああもう、姿を見るだけで泣きそうになってしまうなぁ。
「凪、凪は体調はだいじょ」
そのまま歩みをとめず、私の目の前まで来たかと思うと、突如きゅっと体をだきしめられる。
「なっ、ぎ…!?」
靴もはかず、裸足のままだ。
昨日は必死であまり気にならなかったけど、好きな人との近すぎる距離感が、今更になって心臓をはやくさせる。
どうしよう、いま顔、ぜったい赤い。
「ねえ凪、どうしたの?ほんとに体調悪い?」
背中をぽんぽんたたくけど、本人は一向に離れてくれない。
「……凪、今日はずっと花鈴ちゃんは?って聞いてきたの。たぶんここ毎日きてくれてたから。今日は夜も遅いし、来てくれないと思ったんじゃないかしら」
たしかにここ1ヶ月くらいは毎日会ってたけど…一日こなくなったくらいで…?
「たぶん今の凪にとって、花鈴ちゃんに会うことは"普通のこと"になっているのね。だから'普通"が変わったから、不安になったのかしら…?」
ただでさえ今は不安定な時期だ。
言葉を失ってしまう。
昨日の一件で、決意を改めるとともに、私にできることはないんじゃないかという思いも強くなった。
だけど、そっか。
「凪の世界に、ちゃんと私もいたんだ……」
泣いているのを見られないように、私も凪に抱きつく。
凪が今どういう顔をしているかは、だいたい想像がつく。
私はこんなにも心臓が苦しいけれど、きっと凪は、何も感じていない。
それでもいい。それでも、今は。
翌日。
「あ、横畠くん」
凪の2人の友達のうちの1人と、廊下ですれ違った。
凪のことについて聞いてみよう。
「なに?」
「えっと、凪のことなんだけど。横畠くん、1か月くらい前の凪がどんな様子だったか、知らない?」
「凪……?」
耳にするのが恐ろしい名前とでも言うように、横畠くんの顔が一気にひきつる。
あまりにも明らかな違和感に、私も眉をひそめる。
「どうしたの?凪と仲良かったよね?なんか知ってるんでしょ?」
「……しっ、知らない!俺はもうずっと前から、あいつと関わってないから!もう随分前から!」
そう言い捨てると、横畠くんは目も合わせず廊下を走っていってしまった。
「一体、何があったの……?」
話してないじゃなくて、関わってない…?
自分は無関係ってこと?でも何とーー。
「ははっ、あいつウケるんだけど。川岸さんも意味わかんないよねー」
声がしたほうをみると、顔見知りの男の子たちの集団が私の前を塞いでいた。
「瀬里くん……どういうこと?」
私に話しかけてきた男の子、瀬里くん。
彼がリーダーのこのグループはたしか、凪と同じクラスだったはず。
凪も含め去年私たちは同じクラスだったんだ。
「あんなに慌てちゃってさぁ、川岸さんは何聞いたの?」
「凪についてだけど、瀬里くんたちも知らない?1か月前くらいの凪のクラスでの様子」
「あはっ!知ってるも何も、俺らが1番遊んであげてたんだもん!」
「遊んであげてた……?」
意味深な発言だ。どういうことーー?
「あいつもばかだよなあ、川岸さんと仲良くなりたいったらつっかかってくるんだもん。だからまあ仕返し?みたいな?」
「なっ、…まって、私たちそんな話したこともないじゃん。それに、凪が……?仕返しってどんな」
「あいつ川岸さんのこと好きだったんじゃねえの?まあだからムカついていろいろとね」
なんとなく状況はわかった。
私が、全ての元凶だったんだ。
いや、そんなことよりも、どうしても腑に落ちないことがある。
なんで目の前のこの人たちは、今笑ってるんだろう。
何が面白いんだろう。どうして笑ってられるんだろう。
私の好きな人に、一生消せない傷をつけておいてーー。
目の前が真っ暗になると同時に、どこからそんなはやさがでるのかわからないけど、気づいたら、手に持っていた教科書を投げ捨てて、瀬里くんを押し倒していた。
手には、ペンケースから取り出したシャーペンを握って。
「……は?ちょ、え?川岸さん?」
こいつが、凪を。凪の人生を台無しにーー!!
「おまえのせいだっ!!」
そのまま手に持っているそれを、彼に向かってふりかざした。