第8話 夢
その後も変わらずどの問題もわかりやすく教えてくれて、宿題だった教科書の問題と、テスト範囲のワークも解けるようになった。
「ありがとうございます。一人では絶対にここまで終わらせることできませんでした」
「茜はのみ込みが早いから教えがいがあるよ。要領をつかめばすぐできるようになると思う」
それはきっと先輩の教え方が上手だからだと思う。
授業を真剣に聞いていたってわからなかったのに、先輩が教えてくれるとすぐにわかるようになるのだから。
「今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。茜と一緒に勉強できて楽しかった」
「勉強って、楽しいですか?」
「一緒にいられるだけで嬉しいってことだよ。茜のことを知れたしね。無理やり聞き出したみたいになってごめんね」
「いえ、聞いていただいてありがとうございました」
夏美がいなくなってから、心の内を誰かに話したことはなかった。言うつもりもなかったけれど、変わらない先輩の態度に言ってよかったと思う。
誰かに気持ちを聞いてもらうことで、ちゃんと向き合うことができるのだと感じた。
「じゃあ僕もひとつ、本当の気持ちを茜にだけ言っておこうかなー」
「え? はい……」
先輩は教科書を閉じて膝を抱えて座る。
本当の気持ちってなんだろう。とっておきの秘密ってやつとはまた違うことだろうか。
私は膝の上に手を置いて聞く体勢をとる。
「僕、医者になりたいわけじゃないんだよね」
「そうなんですか?」
「本当は教師になりたいんだ」
お父さんが大病院の医院長で、周りからも跡継ぎだと言われ、頭も良くて、先輩は医者になるんだろうと勝手にイメージを持っていた。
でも、そうだよね。親が医者だからといって医者になりたいとは限らない。
先輩の教え方はすごくわかりやすかったし、人のことをよく見ているし、教師に向いていると思う。
「先輩は良い教師になりそうですね」
「そう思う?」
「はい。とっても」
先輩は嬉しそうに微笑むと膝の上で頬杖を突く。
「前に、医者にはなりたくないって友達に言ったんだ。そしたら、もったいないって言われた。せっかく約束された将来があって、その頭もあるのにって」
「まあ、そう思うのもわかります。だけど、自分がやりたいことをするのが一番いいと思います」
「やっぱりそうだよね。でも、教師にないりたいっていう思いはあるけど、医者になることが絶対に嫌ってわけではないんだ。それに約束したんだよなぁ」
「跡継ぎになるってことをですか?」
「そう。いろいろと難しいんだよね。父親も頑固だしさ。なかなか言えなくて」
先輩のこういった不満を初めて聞いた。いつも穏やかで、弱みは見せずになんでも黙ってこなしていくのかと思っていた。
本当の気持ちを打ち明けてくれたことが嬉しい。
私のことを知りたいと言って、ちゃんと自分のことも教えてくれる。本心を言い合える相手がいるということはすごく特別なことだ。
「どうして、教師になりたいんですか?」
「学校ってさ、勉強するだけじゃないでしょ? たくさんの出会いと経験があって、ここを経て大人になっていく、すごく大事な場所。そんな場所で生徒たちと、たくさんの人と関わっていたいと思うんだよね」
人の命と直接関わる医者もすごいと思うけど、と言う先輩は、自分の思いと周りの思いで板挟みになっているように感じた。
先輩は、教師に向いていると思う。でも、医者になったとしても、どんな道を選んでも、きっと素敵な大人になるはずだ。
「私は、先輩のこと応援してます」
「ありがとう。茜は、将来の夢とかないの?」
「ないです……」
即答してしまえる私は、夢なんて持つことはおこがましいと思っていたから。だから、考えたこともなかった。
高校を卒業したら適当に大学に行って、就職して、ただ同じような日々を送っていくのかな、なんて漠然と想像するだけだ。
「まあ、まだ時間はあるしゆっくり考えてみたらどうかな? 夢とかじゃなくても、自分がどう生きていきたいか」
「どう、生きていきたいか?」
「夢を叶えたとして、それがゴールではないんだよね。それから先をどう生きていくかが大事だと思う」
それは、たとえ夢がなくても生きていく上で、自分がどうやって過ごしていくかということなんだろう。
全ての人が夢を叶えるわけでも、夢を持っているわけでもない。
それでもみんな生きていくためにやるべきことやっている。
したくない勉強をしているかもしれない。好きではない仕事をしているかもしれない。
でも、生きていくなかで楽しみをみつけて、自分なりの人生を歩いているんだ。
私は、自分の人生を楽しむことができるのだろうか。
「私の生きる意味ってなんだろう……」
小さく呟いた言葉を、先輩はしっかり聞いていたようだ。
「茜はもっと自分を大切にするべきだよ。もっとわがままになって、もっと好きなことをすればいい」
「そんなことできませんよ」
「じゃあ、僕が茜を大切にするよ。いっぱい楽しませるから」
「先輩は、私を甘やかし過ぎです」
「茜にはそれくらいがちょうどいいよ」
本当に、どうして私にそこまでしてくれるのかわからない。
これが惚れた弱みというやつなのかな?
そんな感じでもないような気がするのは、私がまだ恋を知らないからだろうか。
先輩との出会いは、この三年間の私がすべて変わってしまうような、そんな出会いなのかもしれない。
先輩の仮の彼女になってから、一ヶ月が過ぎていた。
相変わらず笑うことはないけれど、今はもうなんの抵抗もなく、先輩の隣にいる。