第3話 親友
電車に乗って帰るという先輩とそのまま駅前で別れ、私は歩いて帰る。
母校の中学校を通り過ぎ、家とは反対方向に曲がった。
畦道を通り抜け、階段を登り、土手道に出る。しばらく行くと、小さな橋がある。
もう陽は傾きかけていた。
夕方は嫌いだ。見上げないようにしたって、赤く染まる世界が空の色を、その様子を、勝手に押し付けてくるから。
私は橋の真ん中で足を止めた。
小さいけれど、それなりの高さがある橋だ。
時々、ここに来る。
そして、思い出す。彼女のことを。
大好きで、大切だった、原田夏美という私の親友のことを――。
『上、見てよ茜。空が茜色だよ。綺麗だよ』
『夏美、ごめんね。私のせいで……』
『もう、気にしないでって言ってるでしょ。私はいじめなんかより、茜が笑ってくれないことのほうがつらいよ』
『でも……』
『ほら、顔あげて。茜が笑ってる顔は最高に可愛くて見てるだけで元気がでるんだよ。私はそれだけでいいの。だからさ、クレープ食べに行かない?』
私を守ってくれた彼女は、中学二年の夏休み、亡くなった。
この橋から飛び降りて。
どうして飛び降りたのか、理由をだれかから聞いたわけではない。
でも、彼女が死んだのは私のせいだ。私が殺したも同然だ。
私は一生この罪を背負って生きていかなければならない。もう逃げるなんて許されない。
苦しくて、悲しくて、本当に消えてしまいたいと思うこともある。
でもあのとき、夏美が身代わりになって守ってくれた。
だからこの命を、私が勝手に終わらせるなんてできない。
きっかけは、私の勘違いからはじまったいじめだった。
中学二年になってすぐのころ、私は教室でクラスの中心人物である天野さんのシャーペンを拾った。そして、開きっぱなしだった天野さんの筆箱にそっと入れた。それが、勘違いで間違いだった。
私が拾ったのは天野さんのシャーペンではなく、同じものを使っていた斉藤くんのものだと気づいたのはその翌日。天野さんは自分のシャーペンだと思ってそれを使っていたが、斉藤くんが声をかける。
「そのシャーペン、俺のじゃない?」
「え?」
「ほら、ここに小さくSって書いてるだろ」
斉藤くんがグリップの内側を指さす。天野さんはそれを見て気まずそうに顔を赤らめた。
「なんで使ってんの?」
「え……それは……」
私が、天野さんのシャーペンと勘違いして、筆箱に入れてしまった。そう言わないと。
でも、なかなか口を開くことができない。
天野さん、怒るだろうか。
「ああそれ、落ちてたの拾って私がいれたんだよ。天野さんのじゃなかったんだ。同じの持ってるよね」
夏美が言った。しれっとした表情で。
驚いた。彼女は関係ないのに。私は何も言えなかった。
「へえ、同じの持ってるんだ? 女子がこれ使ってるの珍しいね」
天野さんはポーチ型の筆箱を漁り、同じシャーペンを見つけるとさらに顔を赤らめて手に持っていたシャーペンを斉藤くんに返した。
これだけなら、同じシャーペンを持っていて、間違って使っていただけのことだった。
けれどそれから、天野さんのグループによる夏美へのいじめが始まった。
教科書を隠されたり、上履きを濡らされていたり、回収したプリントをわざと夏美のだけ抜き取って提出しなかったり。どれも陰湿なものだった。
臆病な私は天野さんたちに何も言うことができなかった。夏美にも、何も言うなと言われた。
「天野ってば斉藤が好きでシャーペンお揃いにしてたことがばれたからってこれはないよね。てか、たまたま同じだったって言えばいいのに」
夏美はこうなることがわかっていて、自分が筆箱に入れたと言ったんだ。
私を守るために、やってもいないことをやったと言った。
「こんなの全然平気だよ? だから大丈夫! 茜のせいじゃないし気にしないで。とばっちりくらうといけないから、学校では私に話しかけたらだめだからね」
平気なわけない。大丈夫なわけない。
そう思っていても、夏美の言葉に甘えていた。
なにをされても笑って毎日学校に通う彼女は本当に強い人なんだと、思いこませていた。
でも、私は弱かった。弱すぎて逃げた。自分のせいでいじめを受けている夏美を見たくなくて学校に行かなくなった。
今になっても、どうして学校に行かなかったのかとあの時の自分が憎い。
夏美はなにをされても学校に行っているのに、私が不登校になるなんて。
私が学校に行かなくても、夏美はどうして来ないのとは聞かなかった。ただ毎日、その日あったことを連絡してくれる。まるで、自分は大丈夫だと伝えてくれているように。
『今日は靴箱に泥が入ってたからそのまま泥を天野の靴箱にいれてやった』
『体操服が消えてたから斉藤のジャージ借りた(笑)』
そんな反撃して、逆撫でするようなことをして大丈夫だろうか。いじめがひどくなったりしないだろうかと心配になったが、それは言えなかった。もしかしたら、それでいじめが終わるのかもしれない。天野さんも諦めるかもしれない。
それが夏美の対処法なら私が何か言うべきではないと思った。
でも、夏美は夏休みが始まって数日後に、死んだ。
橋から飛び降りて。
夏休みに入って一週間が過ぎたころから連絡が取れなくなった夏美に、私は愛想がつかされたんだと思った。
嫌われても仕方ないことをしたんだと。
連絡がとれなくなったのは、夏美はもうこの世にいなかったからなのに。
夏休み最後の日、担任の先生から連絡があって初めて夏美が亡くなっていることを知った。
すぐに家に行った。何度も遊びに行ったことのある平屋の一軒家。
お母さんと二人暮らしで、夏美はいつも、女手一つで育ててくれるお母さんのことを尊敬してると言っていた。
けれど、そこはもう空き家になっていた。
自分の罪を自覚した。私は夏美に守られたのに、私は夏美を守ることができなかった。
もう、なにもかもどうでもいいように思えた。
でもこれ以上逃げて自分だけ楽をするなんて、それこそ許されない。
次の日、学校へ行った。
天野さんたちも担任の先生から夏美の話を聞き、驚きを隠せないでいるようだった。
いじめが原因で飛び降りたとは言われていないが、飛び降りたという事実に怖気づいたのか、それから天野さんたちは異様に大人しくなった。
何事もなかったかのように日常が流れ、私は高校生になった。
友達と呼べるような人はいない。作らないと決めている。
楽しんではいけないし、笑うこともしない。
いつも笑っていた夏美は、本当は苦しかったんだ。つらくて苦しくて、それでも平気なように振舞っていた。気づけなかった私に、人生を楽しむ資格なんてない。
なのに、なぜか今日私には仮の彼氏ができた。
不思議な先輩に流されて変な賭けに乗ってしまった。
『高校生になったら彼氏欲しいよね』
『私、先輩がいいなぁ』
『確かに茜は年上の引っ張っていってくれる人がよさそう。かっこよくて、優しくて、頭良くて、勉強教えてくれるような人とか』
『そんな完璧な人はいないよ――』
夏美との会話を思い出す。なんでもない、他愛のない会話。夏美はいつも笑っていた。
その笑顔が好きだった。
今はもう、見ることはできない。
私だけが、どんどん先へ押し流されていく。
もうすぐ、夏美が亡くなって三度目の夏がくる。