第16話 嘘
勉強をするために何度か行った先輩の家。
思えば、先輩と初めてクレープを食べた日、電車で帰ると言って駅に入っていったのに、家は電車には乗らない場所だ。
あの日、あの後おばさんに会いに行ったのだろうか。おばさんは私と先輩の関係を知らなかった。
先輩は私のことを何も言っていないということだ。
言わない理由はなんだろう。
夏美が私のことをよく話していたなら、話題に出してもいいはずだ。
それをしないということは知られたくないということ。
隠す理由。後ろめたいこと。いい関係ではないということ。
やっぱり、悪いことばかりが頭に浮かんでしまう。
裏切られた気持ちになってしまう。
どんな理由であれ、こんなに大事なことを黙っていられたことが、すごく悲しい。
だから、私は先輩に会いに来た。
深呼吸してインターホンを鳴らす。
――返事は、ない。
いないのだろうか。急に訪ねて来たし仕方ないか。
また改めてようと踵を返したとき、家の角を曲がってきた先輩がいた。
私に気づいた先輩は驚いた顔をして駆け寄ってくる。
「茜?! どうしたの? 連絡なかったよね? 出かけてたんだよ。入れ違いにならなくてよかった」
先輩は夏休みだというのに制服を着ている。おばさんも正装だった。
「先輩、今日なんの日か知ってますか?」
「知ってるよ。茜の誕生日でしょ? おめでとう」
今朝、誕生日おめでとうとメッセージはもらった。今日は予定があるから一週間早いお祝いだったのだと。
予定、なんて濁しているけれど、夏美の命日だからだろう。お墓参りに行っていたのだろうか。
「さっき、先輩のお母さんに会ったんです」
「あ……そうなんだ。だから来たの? じゃあもうバレちゃったんだね」
おどけたように笑う先輩。まるで、その事実は大したことなんてないというふうにあっけらかんとしている。
私はこんなに、こんなに悲しいと感じているのに。
「どうして、言ってくれなかったんですか? 夏美の兄だって。本当は私のことずっと前から知ってたって」
「言わない方がいいかと思って」
「だから、どうしてですか?」
「僕が夏美の兄だって言って、茜は僕と仲良くしてくれた? 自分のせいで夏美が死んだと思っている君にとって、僕の存在は苦しいものになるんじゃないかと思ったんだ」
たしかに、急に夏美の兄だという人が現れて、仲良くしようと言われても難しいだろう。
罪悪感の上に成り立つ関係なんてお互いに苦しいだけだ。
「でも、だったら夏美が、川に飛び込んだのは子猫を助けるためだって教えてくれたらよかったじゃないですか」
「教えたとして、茜はじゃあ良かったって思う? 自分のせいじゃなかったらもう気にしなくていいいやって」
「それは……」
「僕は、どんなことを抱えていても、茜が自分で変わらないと意味がないと思ったんだ。たとえ夏美が、いじめのせいで自ら命を落とすようなことがあったとしても、それでも前を向いて生きていく意味をみつけて欲しかった」
「どうして、そんなに私のことを?」
「夏美が言ってたんだ。茜にはずっと笑っていて欲しいって」
「だから、私に賭けを持ち出したんですね……」
先輩のしたかったことはなんとなくわかった気がする。
大切な妹の願いを叶えようとしていたんだ。私に笑っていて欲しいという夏美の願いを。
一目惚れしたなんて嘘をついて、賭けを持ち出して私を仮の彼女にした。
そういう関係であるほうが、笑わせやすいと思ったのだろうか。
そして私は先輩のことが好きになってしまった。何も知らずに先輩の全てを信じていた。
もし、私が笑えるようになれば、先輩の目的は果たされる。そしたら正式な彼女になる必要なんてないじゃん。
この賭けは、勝っても負けても先輩との関係は終わりだ。その先なんてない。
「先輩のとっておきの秘密ってこのことだったんですよね?」
「そうだけど、それよりも――」
「もう、賭けは終わりにしましょう」
私は先輩の言葉を遮った。これ以上のことを聞いても何も変わらない。結局、終わるのだから。
「茜……?」
「秘密を知ってしまった以上、賭けは成り立ちませんし」
「でも、約束は夏休みが終わるまでだよ」
「私が笑っても笑わなくても、もう終わりです。先輩のそばにはいられません」
「どうして、そんなこと言うの? 僕が勝ったら付き合ってもらう約束だよ」
「付き合う必要ありますか? 私のこと好きじゃないですよね」
「好きだよ」
「嘘ですっ! 先輩が私を好きになる理由なんてなにもない。夏美のために私のそばにいたんですよね」
「それは違うよ」
違わないでしょ。さっき、夏美が言ってたからだって言ったじゃない。そもそも、夏美の存在がなかったら先輩とは出会っていなかった。
きっと学校ですれ違っていたとしても、私に一目惚れなんてしていないはずだ。
夏美から話を聞いていなければ、私の存在なんて知ることさえなかった。
「おかしいと思ってたんです。それに、夏美のお兄さんである先輩とは一緒にいられません」
「僕が言ってること、全部嘘だと思ってるの? だから、僕のことなんて嫌いだって?」
嫌いなわけない。嫌いになんてなるわけない。
この出会いが偽物だったとしても、先輩の優しさは噓じゃない。
そんなことは、わかっている。
先輩は悪くない。悪いのは、私だ。
「違う、そうじゃない。そうじゃないんです。ごめんなさい……」
「茜……思ってること全部話してよ」
先輩はそっと手を握ってくる。私は俯いたまま顔を上げられない。
だって、私は最低な人間だから。先輩が思ってるような人間じゃない。
今までたくさん話をしたけれど、本音は言わなかった。言えなかった。本当の自分をさらけ出して、嫌われるのが怖かった。だから言わなくていいやと思っていた。
でも、先輩が夏美のお兄さんと知ってしまった今、本音を隠して一緒にいることなんてできない。
「心の奥底の醜い私がいて、それを隠して私は、亡くなった親友を想ってる可哀想な自分を演じてたんです」
「演じてた?」
「いじめの原因だった出来事、夏美が自分だって言ってくれてホッとしたんです。ああ良かったって。夏美ならなんとかうまくやってくれるだろうって。私、自分を守るために親友が犠牲になって安心するような、醜くて最低な人間なんです。先輩は大切な妹がいじめに合ってホッするような人間好きになれますか? 許せますか?」
許せるはずない。たとえそれが原因で亡くなったのではないとしても、夏美がつらい思いをしていたことには変わりないのだから。
夏美はどんなふうに話をしていたのだろう。私のこと、先輩にどんなふうに伝えていたのだろう。
「茜は、やっぱり優しいね」
「なんでそうなるんですか」
「ずっと大事なことを黙っていた僕に、ちゃんと本音を打ち明けてくれる」
「優しくなんてないです。だって、私はこの醜い感情を吐き出すだけ吐き出して終わりにしようとしてるんですからっ」
握られた手を振り払う。
もう、感情がぐちゃぐちゃでおかしくなりそうだ。
悲しくて、苦しくて、なのに先輩と過ごした日々が恋しい。
でも、きっと、これからそばにいる方がもっと苦しい。
このまま何も知らないほうがよかったかもしれない。
何も知らないまま先輩に想いを伝えて、先輩の彼女になっていたら幸せだったのかもしれない。
そんなの、到底無理な話なのに。
「終わりなんて言わないでよ」
「無理……です。私にはこれ以上先輩といることはできません。本当は、それだけ言いにくるつもりだったんです。それじゃあ……さようなら」
「茜っ!」
私は俯いたまま走り出した。名前を呼ばれたが、振り返ることはしなかった。
先輩も追いかけてはこない。
追いかけるまでもないのだろう。
追いかけてこないのをわかっていても、私は足を止めず走り続けた。
止まったら、涙が零れ落ちそうだったから。
先輩のおかげで私は変わろうと思えた。前を向きたくなった。先輩のことが好きになった。
でもそれは、私たちの出会いが偽物だったから。作られたものだったから。
きっと、先輩と過ごした時間は忘れない。でも、この先はもうない。
先輩も私みたいな人間に時間を取られないほうがいいはずだ。
これからは、私は一人でも大丈夫。
そう言い聞かせてひたすら走った――。