第15話 過去
先輩とデートをして一週間後、私はあの橋に来ていた。
陽が傾きかける夕方の時間帯。空が茜色に染まるころ。
橋の真ん中に立ち、フェンスを掴んで川を眺める。
夏美が亡くなってちょうど三年が経った。
そう、彼女が橋から飛び降りたのは三年前の私の誕生日だった。
どうして飛び降りたのか。どうして私の誕生日だったのか。そんなに私のことを恨んでいたのか。
知りたいことはどうやっても知ることができないけれど、私はこうして夏美のことを想い続ける。
同じ過ちを二度と繰り返さないためにも。
しばらく、橋の上で夏美のことを考えていた。
仲良くなったのは中学に入学してすぐ。体育の授業で私が足を怪我して夏美が保健室に連れて行ってくれたことがきっかけだった。
その後も心配して声をかけてくれたり、階段で支えてくれたり。自然と一緒にいるようになってすぐに仲良くなった。
思えば出会ったころから夏美はしっかりしていて面倒見がよかったな。
もし、夏美が生きていたら今ごろ二人でなにをしていただろう。一緒に高校に通っていたのかな。
放課後、クレープを食べにいったりしたのかな。いろんな所に遊びに行ったりしたんだろうな。
たくさんのことを思い浮かべては寂しさに苦しくなる――。
「茜ちゃん?」
不意に名前を呼ばれ振り返る。
「あ……」
そこには花束を持ち、くしゃりと笑う、夏美のお母さんがいた。
三年前と変わらない優しい表情をしている。
「やっぱり茜ちゃん。久しぶりね」
「おばさん……お久しぶりです」
おばさんは橋の隅に花束を置くとしゃがんで手を合わせる。
「この花、茜ちゃんが置いてくれたの?」
「はい……」
「毎年来てくれてるのね。私がここにくるといつも置いてあったから。ありがとう」
お礼を言われることなんてなにもない。命日に夏美の好きだった向日葵の花を置くくらいしか私にはできないのに。
むしろ私は責められるべきだと思う。
おばさんは夏美が学校でいじめにあっていたことを知っていたのだろうか。夏美のことだから心配をかけたくなくて自分からは言っていないと思う。
でも、気づいていたかもしれない。
私はおばさんに合わせる顔がなくて、ずっと俯いていた。
「ごめんなさい……私のせいで……」
思わずこぼしていた。いたたまれなくて深く頭を下げる。
「茜ちゃんのせいじゃないわよ。それよりもせっかくの誕生日だったのに、あの子がこんなことになってしまってごめんなさい。ほんと、バカな子よね。子猫を助けるために川に飛び込むなんて」
「え……? 子猫?」
「子猫のことは、知らなかった? 三年前、茜ちゃんに誕生日プレゼントを渡しに行くんだって出かけていったでしょ? その途中のこの川で子猫が溺れてるのを見つけて飛び込んだのよ」
見かけた人がすぐに救助を呼んだらしいけれど、あの日は前日が雨で川の流れが速く、引き上げられた時にはだめだったそうだ。
知らなかった。
先生からは川に飛び込んで亡くなったとだけ聞いていた。自ら飛び込んではいるけれど、子猫を助けるためだっただなんて。
それに、夏美が私に誕生日プレゼントを渡そうとしてくれてたことも知らなかった。
おばさんは私たちが約束をしていたと勘違いしているみたいだけど、あの日彼女からはなんの連絡もなかった。
もしかして驚かそうとしていたのかな。サプライズでお祝いしようと考えてくれていたのかもしれない。そういうことをしてくれる子だ。
夏美は、自ら命を終わらせようと飛び込んだわけではなかったんだ。
子猫の小さな命を助けようとしていたんだ。
彼女は、私に会いに来てくれようとしていた。私のせいでいじめに合っていた事実は変わらないけれど、私のことを嫌ったわけではなかったんだ。
思ってもいなかった真実に、心のとげが柔らかく溶けていくような感覚になる。
夏美は最後まで私のことを好きでいてくれていた。
でも、それ以上に大きな寂しさがこみ上げてくる。
私たちはまだまだたくさんの楽しいことができたはずだった。同じ時間を過ごすことができたはずだった。
いくら思ってもどうしようもないけれど。
「何も連絡できなくてごめんなさいね。私も気が滅入っていたのと、いろいろとバタバタしていて」
「いえ……おばさんは今、どこで暮らしてるんですか?」
「私の実家よ。夏美が亡くなってすぐに一人暮らしの母が体調を崩してね、引っ越したの。その母も今年のはじめに亡くなったんだけどね」
「そう、だったんですね。寂しいですね……」
夏美が亡くなってとてもつらい思いをしただろう。
そのうえお母さんも体調を崩してしまうなんて。
おばさんは今ご実家で一人なのだろうか。
「寂しいけど、時々息子が会いに来てくれるから大丈夫よ」
「え? 息子さん?」
夏美は一人っ子じゃなかっただろうか。お母さんと二人暮らしだって言っていたし、兄弟がいるとは聞いたことがなかった。
「夏美の一つ上にね、お兄ちゃんがいるのよ。息子は元夫が連れてるんだけど、離婚してからも私と夏美を心配してよく会いに来てくれてのよ。引っ越し先の実家にもよく会いに来てくれてるの」
おばさんの話を聞いて、なぜか心臓の鼓動が早くなる。
一つ上のお兄ちゃんとしか言っていないのに、私の頭にはどうしてもあの人の顔が浮かぶ。
そんなこと、あるのだろうか。
「夏美にお兄さんがいたなんて、知りませんでした」
「あそこの丘の上の高校に通ってるのよ」
「私も……その高校に行ってます」
「あら、そうなの? 東堂柊也っていうんだけど知らないかしら」
ああ、やっぱり。先輩のことだったんだ。
どこか心の奥が冷たくなっていくような感覚になる。
「知り……ません」
「夏美がよく茜ちゃんのことを話してたから柊也は茜ちゃんのこと知ってると思うんだけど。でも顔はわからないだろうし、知らないわよね」
本当は知ってます。
でも……何も知らなかった。
今までの先輩とのやりとりが腑に落ちる。
これが、先輩の言うとっておきの秘密というやつだったのだろうか。
先輩は私のことをはじめから知っていたんだ。
知っていて声をかけてきたんだ。
一目惚れなんて嘘だ。
いつから知っていたんですかという私の質問に答えなかったのも、夏美から話を聞いてずっと前から知っていたからなんだ。
私が親友と言って夏美のことを話していたのも、全部知ったうえで聞いていたんだ。
夏美が飛び降りたのは子猫を助けるためと知っていて、私が責任を感じているということを黙って聞いていたんだ。
でもどうして?
どうしてそんな嘘なんてついたの?
どうして夏美の兄だって黙ってたの?
どうして何も教えてくれなかったの?
どうして、一目惚れなんて言ったの?
惚れたなんて嘘だ。私を好きだなんて嘘だ。
いや、そもそも私、先輩に好きだって言われたこと……ないじゃん――。
「おばさん、会えてよかったです」
「私も茜ちゃんに会えてよかったわ。そうだ、少し遠いけどもしこっちの方に来ることがあったら家によってね」
おばさんは鞄から手帳を取り出し、住所書いて渡してくれた。
確かに少し遠いけれど、行けない距離ではない。夏美に手も合わせに行きたいし、いつか行く約束をしておばさんは帰っていった。
私はそのまま橋の上で川を眺める。
考えるのは先輩のこと。
先輩が私のことを何でも知っていたのは、夏美から話を聞いていたからなんだ。
クレープはブルーベリーを食べることも、肉巻きおにぎりが好きなことも、あの島に行きたかったことも全部、偶然じゃない。
偶然にしてはおかしいなと思っていた。でも、まさか先輩が夏美のお兄さんだなんて。
先輩は、私のせいで夏美がいじめられたことをどう思っただろう。
私のこと、どう思って接してきたのだろう。
どうして、今更声をかけてきたのだろう。
どうして、付き合ってなんて言ったのだろう。
どうして、そこまでして私を笑わせようとするのだろう。
どうして、あんなに私に尽くしてくれるのだろう。
戸惑いながらも先輩との日々を思い返せば思い返すほど、先輩の優しさが、一緒に過ごした穏やかで楽しい時間が頭に流れる。
でも、それは偽物だったのかもしれない。
何が目的で私とこんな賭けをしたのだろうか。
夏美のことで落ち込んでいる私を励まそうとしてくれた?
でもそれなら橋から飛び降りたのはいじめが原因じゃない、死ぬためじゃないよって教えてくれるはず。
じゃあどうして? こんな私を見て心の内では笑ってた? うじうじしている私に苛立ってた?
わからない。先輩のことが。
そんな人じゃないと思っているのに、良くない疑問ばかりが浮かんで信じられなくなる。
だって、先輩は別に私のことを好きなわけじゃない。
怖い。本当のことを知るのがすごく。
それは私が先輩のことを好きになってしまったからなのかもしれない。
勝手に舞い上がってバカみたいだ。
もう、終わりにしよう。
まだ夏休みは終わっていないけれど、私は先輩の秘密を知ってしまった。
賭けはもう終わりだ。
先輩との関係も終わり。
私はゆっくりと足を進めた。