幻想
通路の突き当りは天井が高くなり、すぐそこには外に続く大きな洞穴が空いている。夜の闇で湖の水は黒く重く沈む生き物のように感じられた。空の僅かな月明かりが水面に反射して立体的な波の彫刻を薄くしなやかに描いている。辺りは畳二畳分あるかないかという狭いスペースだけが木の板で舗装されていて、他は岩肌が剥き出しになっていた。
水際に立って二人並んでいると、私の前を浮いていた竜の脚から、ついにボストンバッグが抜け落ちた。ウィノ少年が、まるでマズイ事が起こったかのように一瞬息を止めて、やがて朗らかに微笑んだ。まるで菩薩のような一連の振舞いが何を意味するのかは解らない。バッグが抜け落ちるのが粗相であるという判定なのだろうか。しかし相手は雷の竜だ。そこは動物ということで上から見ているのだろうか。これだけ敬意を払っているのに。解らない。しばしば彼はポジショニングが自由すぎて、ちょっとしたミステリーを生み出すようである。暇な時に見ていると面白いかもしれない。竜の動きを待っている今、まさに丁度いい。
私はといえば、地面に落としたら汚れるから先に脱いでおいてほしかったな、と言いながらソレを拾おうとして地面スレスレで宙に浮くバッグを目撃し、それが自分の手元にフワリと浮いて戻ってくるのを何も考えずに無言で受け取った。なぜだか物凄く疲れて急に眠くなったので、ランタンの灯りに目を遣り、風景に照らし出される美少年を眺めている。
考えたら負けという場面を正しいと思ったことなど記憶にないが、仕方ないと諦める事には慣れている。諦めたら試合終了だが、考え続けることは出来る。諦めることが間違っていたと後で結論するのは珍しいことでもない。ウィノ少年はそんなタイプには思えない。その時の判断はその時の最適であると信じなければ次に進む発想には繋がりにくくなる。その方がストレスになるタイプに見える。子供だからか、彼から後悔を匂わせる発言は聞いたことが無い。だからこそ大魔女を薦めた。当主さんに言われるままに働くことを疑ってみるのもいいんじゃないかなと思った。
いつまでもしつこいようだが、鋼の竜の話を魔法使い達やファルー家当主が気にしているのなら、子供を使う選択肢は有り得ない。信憑性がないと考えているのなら、当主本人が未だに姿を見せないのは、さすがに不自然だ。竜に会う為の手続きは全て終わった。私達はその意志を明確に示して従っている。記録もある。時間が無かったとか、またウィノ少年が何かしらの事情の説明を省いているとか、可能性は残っているけれど、一応コレでも大魔女様である。不穏だと言っていいくらいで、どうも腑に落ちない。
当主さんは水の竜と清流の大魔女以外を認めない人だと考えておいた方がいいかもしれない。
だから無理は絶対にして欲しくなかった。彼は彼の答えの責任をしっかり背負う事になる。息子(もしかしたら孫?)が信仰の対象になるって、どんな気分だろうか、なんて私には想像がつかない。周囲の反応もどうなるかわからないのだ。確実な味方は私達だけになる。今のところ。
「…水の竜って、ずっとここにいたの?」
「いませんよ。現れるのです。」
「居ないの!?
信者の人達、居ると思ってるよ?」
「それはそのように信じているのです。
先程、ファルーの子に指摘されたでしょう。」
「…あ、そうか。そういうやつか……。
なんか、考えてみると結構…酷……過酷…。
自分から進んで踏み込むって、凄いな……。」
「どうしたのですか。信仰に興味が?」
「いや、逆にないから。……信じるって、
…虚しくなることもあるんだろうね……。
常に試されてるっていうのが良い、とか?」
「魔女が自分の話をするのは初めてですね。」
「え?…そんなことない…と思うけど?」
「初めてですよ。貴方は自分が何者であるか、
ずっと隠したがっていましたから。」
「…………。それは、…そうかも。」
話がイヤな方向に進んで私は口を閉ざした。現代世界なら友人(聖人)相手にペラペラ喋る事もあったけれど、ログラントは別世界だ。現代世界の常識なんて通じるかわからないし、価値も意味も違う。自分のことなんか、そもそも必要ないのだ。竜は記憶を読めるのだから全部知った上で言っている。
結局ランタンは自分が持つと言って身体の正面に携えたまま静かに立っているウィノ少年は、薄闇の中で水と同じに溶け込んでしまいそうな艷やかな立ち姿をして、まるっきり幻想の一部分となっていた。絵面だけでないウィノ少年を少々でも知っていると、不思議と美しいとは思わない。妖しくも優しい光景だ。リッカ少女が隣にいたなら絵になる二人になることだろう。出来すぎなくらいだ。雷の竜は宙に浮いて微かに光を帯びていた。いつか見た光景である。あの時は山の中だったが、今は湿った洞窟と揺れる水面を僅かに照らしていた。
「もう現れるはずですよ。」
「え?あ、呼ぶんじゃないんだ…。」
「結界を張ります。目立つ必要はありません。」
「え?ライトニングさんがやるの?」
「流石に出てくる前には出来ませんよ。
念の為に少し離れて下さい。」
雷の竜はそう言い置いて自らも私達から離れて浮き上がると、天井近くで停止した。周りにはバチバチと火花のようなものが散っている。隣で見ていたウィノ少年が息を呑んで見上げていた。
闇を裂く様に中空に現れた光には、既視感がある。輝きは増していき、瞬間、眩く光った。
「………。
彼女ではありません。
横の少年が大魔女となる者です。」
「知っています。
この時は用意していましたから。」
「…私を見た影響ですか。」
「そのようです。」
「わからないものですね。」
暗い中で目が慣れない。光の裂け目から影が覗き、頭の中に会話する二人の美しい声が響いてくる。似ている。が、一人は女性のようだ。やがて裂け目が閉じると同時に光は失われ、声の主の姿が薄暗がりに浮かび上がった。会話の内容から予感はしたが、いざ目にするとやはり戸惑ってしまう。
ライトニングさんが二人に増えた。