返事
ファルー家の二階の一室にはガーディードの少年とその友人であるファルー家の後継者がいた。ようやくひと心地ついたところで、ガーディードの少年は、常に身につけていた革の肩掛け鞄から古びたビロード調の布に包まれた通信用の水晶の欠片を取り出した。随分と年季の入った骨董品だったが、手段としては十分利用出来るものだ。難解な魔術の施された最高級品とは違って片側からの音声しか通らない為に、彼方からの返事を聞く方法は、これとは別に用意されていた。
水晶を取り出すより少し前から、鞄の中では小さな瓶がひとりでに揺れて微かに音を立てている。少年の握り拳程の大きさの分厚く透明な小瓶の中では、血のように赤く染まった砂がまるで細かな虫のように煩く舞い踊っていた。通信の準備を始めたのは、この為だった。ガーディードの少年は小刻みに揺れるその小瓶を慎重に手で掴むと、二つのベッドの間にある小さなテーブルの上に中身をぶちまけた。
赤い砂は明確な意思を持って机上を這いずりまわり、みるみるうちに手書き風の文字の一文を象って整列した。最後までそれが終わらないうちに先頭から千切れては、また後ろに並ぶ文字に姿を変えてゆく。そうして順番に、長い文章を紡いでいった。
"大魔女ネルロヴィオラは火の竜の魔石に眠っている。それが本当ならば、その魔力はログラントに於いては最上位と推定される。
水の竜の結界は、水の竜自身が展開したものではあるが、既に其処に在り続ける物でしかない。魔は生き物と例えられるように、静に対して動のものが有利である。その有利を活かす魔法を使うことで、対等なものに打ち克つことが可能である。"
「……本当に…?」
「ニョルズは魔法の事には頼れる。」
ファルー家の後継者とガーディードの少年二人は、自分達の得た情報を、吸血族の魔法使いの助けを借りながら整理し、祖国ミズアドラスに起きた事件と、大国ミロス帝国に秘される事態の解明に勤しんだ。
展示室に最後まで残ったのは幼女の姿をした吸血族の侍女だった。領主家の長男であるジャシルシャルーンは一連の経緯を簡単に話した後で自分の力ではこれ以上は及ばない事を告げ、吸血族の侍女は静かに労をねぎらい、深々と礼をすると、今度こそ別れの言葉を述べた。
「貴方のお仕事を悪く言ってしまって、
申し訳ありませんでした。…まさか、
貴方自身が、直接…こんなことにまで……。」
「フロイレーヌが間違いとは思ってない。」
「ごめんなさい。本当に。甘えてしまって…。
何時も貴方は優しいから。………はぁ…。
………ご無事で本当に良かった……。」
「まだ、どうなるかは…。」
「止めて下さい。心臓に悪いですわよ。
…………。ワタクシにも出来ることがあれば、
ルビ様の御力になれるように尽力しますわ。
……皆様の為にも…何があっても、
御自身のことはお大事になさりませ。」
「…………。余裕があれば。」
「ええ……。……きっと…。」
「では…また会う日まで。」
「…その通りで。
貴方のご健康とご幸運を心よりお祈りします。
偉大なる水の竜のご加護がありますように…。」
「…………………。
ごめんね。
君のことは、僕が守るつもりだったのに。」
「??へ??」
「もう本当に何も出来なくなった…。」
「??は?え?貴方、何でも出来るでしょう。
器用に落ち着いて…そつなく……。
あ!ワタクシは、ええと…、
人生これからですもの。大丈夫ですわ。」
「うん。…その通りだ。」
「……はぁ。驚いた…。何事かと…。
失礼致しました。……勿論ワタクシ、
貴方には本当に感謝しています。心から。
おかげさまで今迄生きてこられましたのよ。」
「…わざわざ泣かせないでよ。こんな時に。」
「泣く?何に??」
「何って……お別れに。」
「…………………。………貴方……そんな…。
…何を呑気な…。…知ってはいましたけれど…。」
「?」
「…………貴方まさか……、
ワタクシが、別れの言葉に、気を利かせて、
泣かせる台詞を言ってみせたとでも……?
…………はぁ……。
…本っ当に嫌ですわ。冗〜談じゃありませんわ。
ワタクシには大切な事です。真実ですのよ!?
………もうよろしいわ。わかりました。
この際、聞きたくなくても聞いて頂きますわ。
いいですこと?
貴方が、ワタクシに、
生きる力をくれましたのよ!
誇りも性格もつまらない意地も、
守って頂けたから、ワタクシ自由でしたわ!
貴方、御自分のしたことが、ワタクシには、
どれだけ大切なかけがえのないものだったか、
全っ然わかってらっしゃらない!!
領主様と貴方が気に掛けて下さることで、
ワタクシ今迄やってこれましたのよ!?
吸血族のワタクシが、図々しく甘える事すら、
貴方は許してくれましたのよ!?
……本当に、貴方と同じに……、
歳を重ねられたらと…悔しくて………。
でも、そうだったなら、もしかしたら、
話相手にもされないかもしれない……。
……なんて事を、こんなちんちくりんの幼児が、
ずっと考えていたとは、貴方みたいな人は、
ちっっっとも思わなかったのでしょうね!?」
「………………。」
「…………。何とか言って頂けません?…グス。」
「………今日、泣くところ初めて見た。」
「そうでしょうね。」
「あれからずっと泣いてるね。」
「グズズッ…………。芸が無くて。」
「……逆に、僕が、幼児の君に、
特別な感情があっても、問題でしょ?」
「当たり前ですわ!!!
だからずっと…泣くしかできないんです!
芸が無くてすみませんでしたわね!!」
「…いや……、……そっか……僕が悪いね…。
…………どうしたら許してくれる?」
「………………。それでは、……グス…。
どうか……このことは最初から、
何も聞かなかったことにして下さいませ。」
二人は親愛の抱擁を最後に再び会うことは無かった。