消える百線香
12月13日。
その日は妹の誕生日であると同時に、9回目の命日でもあった。
朝早くベランダに出てみると、東の空に黄色ともオレンジともとれる色の光が見える。まだ眠たそうな太陽だ。
頭上に広がる空にしてもうっすら灰色で、日中の天気は果たして晴れなのか曇りなのか。
「大穴で初雪!」
あいまいな空模様と違って、私ははっきりと望みを口にした。
電線上の小鳥たちがしきりに鳴いて反論する雰囲気もあったが、私はハッと強く息を押し出す。
ぶわりと濃く白い息が眼前に広がって、直後にふっと風が吹いてもしばしその場に残り続けた。
「蘭、寒いから窓閉めて」
母の声だ。
「えー」
小鳥や小風の抗議を聞き入れなかった私も、仕方なしに顔を振り向かせる。
リビングの奥、カウンターキッチンの向こう側には、平安時代の十二単かってくらいガウンを重ね着した母の姿がある。
「いやそれ絶対暑いでしょ」
しかも母のシルエットが、蜃気楼のように揺れている。
「またコンロ2つとも使ってるし…………」
数年前からの癖くせだ。
朝起きてコーヒーを淹れる時、ケトルを置いていない側のコンロも火力全開なのだ。
そのせいで、母だけでなくその隣の空間さえもが偽物のように歪んで見える。
「蘭! 早く閉めてきて!」
近所迷惑じゃないかと心配になるほど母の声は鋭く、小鳥だけでなくカラスまでもがカァカァと声を揃そろえて鳴きだした。
でも私は、急いで窓を閉めたくない。
現役の女子学生である私は、年がら年中足元の風通しが良い。
初雪を望むくらいには寒さに強くて、何より、まだ東に向かって手を合わせていない。
しかし、
「洋子!」
叫ばれたのは、私の本当の名前だ。
こうなるともう、母の怒りはカッカッと蓋ふたを揺らすケトルのように沸騰間近である可能性が高い。
「蘭の方が可愛いのに」
私はちょっと肩を落としながらも気分を元に戻したくて、ターンタンとその場で回って跳ねて外と内の境界を飛び越える。
足が着くなりさらに2回転しながら手を伸ばし、窓やカーテンを踊るように閉めていく。
結果として東の空に背を向けてしまっていたが、代わりはある。
リビングの角にひっそりと置いてある、小さな仏壇だ。
私はソファーの上を舞いながら移動して、正座するなり手を合わせる。
「あ、先に線香あげないと」
私は引き出しから木箱を取り出して、蓋をスライドさせる。
すぐに杉の素朴そぼくな香りが広がって、すぅと少しだけ大きく息を吸い込んで昔を懐かしむ。
そうして私は、焼香台に線香を立てた。
その数、1本でなく、16本。
「おめでとう」
妹が生きていれば、今日は16回目の誕生日。
だからと言って不謹慎な言動かもしれなかったが、当時8歳だった妹はケーキに立てられたロウソクを消すことに並々ならぬ執念を燃やしていたから、これで良いのだと私は思う。
「実際、火を点つけなくても線香消えるし」
そう、なのだ。
天国の妹が地上に降りて持ち帰っているのか、手を合わせて目を閉じればパッと消えるのだ。
8年前の1回忌から、毎年ずっとだ。
不思議で、ミステリアスで、怖くはなかった。
むしろわくわくして、手紙を一緒に供えて何年も返事を待っている。
それだけ私は、妹が好きだった。
だから8年経っても謝りたいことが、1つある。
けれども、今年。
「…………あれ」
両手を合わせて拝んだのに、目を開けても線香が消えていなかった。
それどころか、ザクッ、ザクッ、焼香台に線香が突き立てられて増えていく。
「なに、これ」
目玉をぎょろりと動かしても、視界の中には誰もいない。
幼い蘭の遺影があるだけだ。
ぎぎぎと顔の向きを変えればキッチンにぼやけた母の姿があるが、ガタガタ震えるケトルの世話を焼く真っ最中。
せわしなく唇を動かしてもいるが、まさか無機物と会話しているはずはない。
「……蘭?」
喉の奥から妹の名が勝手に漏れ出るが、キッチンから私の名を呼ぶ声はない。
いつもなら、それで良かった。
母が黄色とオレンジ色の『洋蘭』が好きだから名付けられて、でも私が洋子なのに妹が蘭子でなくて、不公平だとつくづく思っていたからだ。
その上、私と妹は親でも間違えるくらい見た目が似ていたから、代わり番こで私は『蘭』として振舞って遊びもした。
だから私は、妹亡き後、蘭の名を好んで使って過ごしてきた。
でも今私は、恐ろしくて堪らない。
ザクッ、ザクッ。
線香を突き刺す音が止まず、見れば焼香台が針鼠はりねずみのようになっていた。
初めて目にする光景であるはずなのに、ハッとする。
8年前、焼香台くらい小さくて丸い妹の誕生ケーキに、たくさんの線香を立ててあげたのだ。本数が少ないと不満を漏らすロウソクの代わりで、妹はとても喜んでくれた。
でも母には、血相を変えて怒られた。
「確か、『1人に対して100本の線香を立てると、100年往生したとして自分の番が来てしまう』からって…………」
その時私は、妹のせいにした。妹が自分で立てたのだと。
それで妹と大喧嘩して、その日交通事故に巻き込まれて、謝る機会は永遠に失われてしまった。
私もまる一年経ってやっと病院の暗い部屋から出られたから、妹はもう怒っていない気がしていた。
それで妹の命日に、歳の数だけ線香をあげ始めたのだ。
100歳に100本の線香をあげれば自分の番が来てしまうが、十分往生だし、多少の目減は罰だろう。
でも今、目の前に突き立てられた線香の数は。
今日は12月13日。
1874年に『先に生まれた方が兄・姉となる』と定められた、双子の日だ。
妹の誕生日は・・・・・、私の誕生日・・・・・でもある。
「最初に9本あげて、次に10、11、12、13、14、15ときて今年16本…………」
ぞぞぞと、まるで百匹の鼠が一気に背中をよじ登って来たかのような恐怖に襲われる。
その瞬間、焼香台の真横にお供えしていた手紙が裂けて散らばって、紙切れ一つ一つに、
『消えろ』
と書き殴られていく。
毎年火を点けずとも消えていた線香までもが、ボッと燃え上がる。
燃えて、燃えて、百本全てが煙となる。
跡形もなく消えて、そして…………