【プロローグ ~四帝覇王と理想郷~】
時は皇歴二一三〇年──初夏。まさに梅雨の時期とあって、日本の各地域は稀に見る豪雨に襲われていた。
黒雲から激しく降り注ぐ篠突く雨が地上を潤すも、ある地域では洪水を引き起こし、ある地域では土砂崩れを引き起こし、人命救助や被害抑制のため警察や救急隊が出動する。ある地域では降雨により公共交通機関が遅延し、利用者が影響を受けたりと、梅雨時期には当然の代わり映えの無い日常が全国には広がっていた。
それは首都、東京も同様だ。地上に住まう誰もがこの豪雨に何らかの影響を受けている今日この頃──しかしながら、黒雲を更に超えた遥か上空には、豪雨の影響を全く受けていない唯一の存在があった。
飛行機ではない。というかむしろ、現在の東京領空区域には、旅客機を始めとするあらゆる飛行物体の通過禁止令が日本政府から発令されていた。
「ふうむ。やはりこの澄み渡った青空を独占出来るのは悪くない気分よな」
薄い蒼色を眺めながら一人気に呟くのは、黒白の衣服を身に纏い尋常ならざる気配を放つ一柱の神──『天上神』ステラ=アストレアだ。
世界を実質的に牛耳る唯一神が居るとなれば、日本政府も慎重にならざるを得ない。其の神の機嫌を決して損なわないように、最大限配慮する必要がある。別にステラはそこまで器量ではないのだが、只今発令中の命令も万が一を考えてのことだ。しかし、ステラがその気になれば簡単に東京を蒸発させられるのは事実で、政府がその力に恐れをなすのも無理はない。
(しかし、こちらの世界の人間は随分と豪胆だ。否……鈍感と言うべきか)
ステラは元居た世界の風景を脳裏に思い出し、無機質に鼻を鳴らした。
(向こうの世界の人間は我の存在を感覚だけで本能的に察知し、誰もが恐怖を覚えたというのに……。地球の人間は恐怖以前に鈍過ぎて、我の存在すら察知出来ぬ。嘆かわしいことよな、この雲の下には平生と変わらぬ営みがあるのだから)
ステラは不快丸出しで舌打ちしたが、屈強な勇者や騎士などが存在する世界の人間と、地球の矮小な人間を比較すること自体が間違いだ。
「違うな……その愚かしさも人間の見所か。それに彼奴らが我という存在に真なる恐怖を覚える日もそう遠くない。束の間の平穏と言うものよ」
「──その通りでございます」
何気なく呟いたステラの独り言に対し、どこからか響く丁寧な口調での返答。しかし現在、彼の周囲には全く生物の気配は無く、それはまるで心霊現象のようである。そして常人ならば狼狽えるはずのその状況下で、この神は沈黙のまま前方方向へ視線を投げかけていた。
その理由はすぐに明らかとなる。ステラの目線の先で、禍々しい黒光を放つ四つの巨大な罅が生まれたのだ。魅入る存在全ての意識を吸い込むような、恐怖を振り撒く漆黒色である。
続いてひび割れの中心部──果ての無い闇を破壊するようにして、不気味な雰囲気を放つ四つの人影が存在を現した。四名は足場の無い空中を数歩進むと、ステラの前で跪く。
全員が黒い外套を身に着けているため容姿自体は分からないが、フードの隙間からはそれぞれ長い両耳、光輪と白翼、不祥の双角、爬虫類の如く瞳孔の開いた金色の瞳が窺い知れた。それは彼らが、天上の六種族と畏怖される存在であることを指し示している。
ステラが無機質に四人を見下ろしていると、不意にその中の一人が言葉を紡ぎ始めた。
「お久しぶりでございます、我が主よ」
「うむ、久しいな」
「この世で最も崇高な唯一神である御身を守護する──我ら『四帝覇王』。御身の命を受け三十一年の時を経てここに集結いたしました」
彼らの正体こそ『天上神』ステラを守護する四つの剣──四帝覇王と呼ばれる存在だ。四人はそれぞれが最強を象徴する〝王〟であり、今しがた口を開いたのは悠久を司る『永久王』タルタリアである。
「そうかしこまるな。面を上げよ」
ステラの一言により、四帝覇王の面々は顔を上げて纏う気配を少し軟化させる。
「おう、ステラよ。本当に久しぶりだな!」
「うむ」
粗暴な口調で豪快に笑うのは筋骨隆々の竜人族──『破壊王』グランだ。
しかし、別にステラはこの馴れ馴れしい態度を不快と思わない。無礼講とは少し違うが、要するにどうでも良いのだ。ステラが求めているのはその身に宿す圧倒的な暴力だけであり、他の事項はまるで期待していなかった。
「ははは、グランは相変わらずだなあ。……ステラ様、お元気そうで何よりです」
「うむ」
最後に会った時から全く変化していない竜人族に、幾本もの刀剣を携える『剣霊王』アルトノヴァが苦笑ぎみに頭を軽く掻いた。声色から察するにかなり若い。
「全くもう……アルトノヴァ、もっと強く言わないとだめよ?」
煮え切らない態度をとるアルトノヴァに、最後の四帝覇王から声が掛かる。
「どういうことだい?」
「確かにグランは一見すると怖く見れるけれど、実態は無駄に図体が大きいだけの脳筋男。つまり、考えなしに突っ込むしか能の無いゴリラ。言い換えると雑魚ね。私や貴方、タルタリアのように知と武の両方を兼ね備えた完成形には到底及ばないわ」
「えっと……」
「怖がる必要は無いのよ? 要するに貴方は立派なんだから、ガツンと言ってやりなさい」
「(……うん、別に僕はグランが怖いわけじゃないんだけどなあ。この娘も相変わらずだ)」
勝手に進んでいく内容にアルトノヴァは内心で嘆息し、変わらず苦笑を見せる。
彼の隣に跪く最後の四帝覇王こそ──『魔空王』サリューヌである。他の三名が男性であるのに対して、彼女が唯一の女王だ。暗黒の外套の隙間から薄く覗く女性らしい豊満なプロポーションに加え、全身からは雄を惑わす甘美で妖艶な色香が漂っており、魔性の美女であることは容易に想像つくだろう。
しかしながら、彼女は思い込みが激しいという欠点があった。加えて救いようのない馬鹿を嫌悪しがちという一面もある。そして当然だが、暴虐と傲慢を体現したような存在であるグランが、矮小な雌如きに侮辱されて平常心を保っていられるはずがなかった。
「おいクソアマァ、調子に乗るんじゃねえよ……ッ‼ この場でグチャグチャに犯してやろうかァ、ああンッ⁉」
「上等よ。あんたみたいな筋肉だるまは四肢を捥いでから人体実験の被検体にして、最後には豚の餌にでもなるのがお似合いだわ。ええ、私ったらなんて天才なの!」
濃密な殺気を醸し出しながら、両名はゆっくりと腰を持ち上げて瞳を細める。
同時に、二つの黒きシルエットから垂れ流される猛烈な闘気と、魔力がプラズマを走らせて衝突した。膨大な圧力が全方向を駆け巡り、地上に住まう多数の人間の意識を刈り取り、多種多様な電子機器を狂わせ、終いには地平線まで続く白雲に、巨大な深い一筋の亀裂を走らせる。世界終焉、世紀末を連想させる──これこそ逢魔が時。
一触即発。アルトノヴァが刀剣の柄に手を持っていき、タルタリアが知らん顔を突き通す中で──相手を惨殺するため強力な二つの権能が猛威を振るった。
「静まれ」
しかし、ステラの介入により具象化した権能が無数に分解され消失する。
そこでようやく興奮状態から脱出した二人の四帝覇王。サリューヌは「どうかお許しください、我が神っ‼」と素早い動作で土下座し、グランは「……ちっ」と不承不承再度跪いた。
因みに五名は権能の能力で浮遊しており、透明な板が敷いてあると仮定すると分かりやすい。そのため下から見た構図では、焦燥の表情で必死に土下座するサリューヌは中々滑稽に見える。
「仲が良いのは構わぬが、良すぎるのは問題だ。……この際言っておく。お前たちにも自由意志はあるが、それ以前に我の手足であることを忘れるな。その身を以て我の命を遂行し、我に忠実な使徒で在れ」
「申し訳ありませんでした……」「……悪かったよ」
「よい、我は寛大だ。それにお前たちの不仲は知ってのこと。予感はしておった」
ステラの叱責により静まるサリューヌとグラン。四帝覇王はステラに忠実な僕であり、主である神に命令されてしまえば従う以外他に選択肢は存在しない。
「うむ、お前たちには久方ぶりに集まってもらったわけだが──」
「遂に動く時が来たということでございますね?」
ステラが言い終わるよりも先に、フードの暗闇の奥でタルタリアが口角を上げる。
「うむ、その通りだタルタリアよ。しかし、本格的に計画を開始するのはまだ幾月か先だ。まずは試運転からよ。あれは我が力と共鳴させてはいるものの、未だ制御に余る」
「ご冗談を。あなた様ならば容易に可能ですわ」
「我は慎重に事を進めたい。……幸いにもその機会は近いうちに訪れる」
ステラはサリューヌに返答した後に、アルトノヴァに確認する。
「そうだな?」
「はい。僕が収集した情報によると、一か月もしないうちに奴らが動きます」
ここで言う『奴ら』とは、ステラや四帝覇王を筆頭とした上位者の殺害を目的としている、愚かにも身の程を弁えない下賤の者たちを示す隠語のことだ。
「この件に関して息子は……シャリアがどう動くか知っている者は居るか?」
ステラは思案しながら、続いて四帝覇王たちに尋ねた。
天上神の実子シャリアは、客観的に見ても非常に有能だ。しかし、優秀過ぎるが故にどうにもステラを警戒している節があり、敵ではないが、完全なる味方ともまた異なる状態である。出来ればステラは、そんな彼の行動を把握しておきたかった。
「おう。この前シャリアにこの件を伝えたら、一度戻るからって返答してたぜ。何故かお前の息子、今回の件に関しては豪く熱が入ってやがる」
「ふむ、驚いたぞ。まさかあやつが──」
シャリアらしからぬ前向きな姿勢にステラは少し訝しむが、直ぐに一つの仮説が脳裏に浮かぶ。
「……なるほど、そういうことか。あの特別観察対象に相当入れ込んでいると見える」
ステラは相変わらず淡々と、自身の顎を撫でる。
彼が告げた特別観察対象とは、シャリアの同級生である一名の人間族のことだ。普通なら一介の人間如きに四帝覇王が動く道理はないが、そこには特別な事情と言う例外が一つだけ存在している。
その特別観察対象の名は──一ノ瀬いのりと言った。
「特別観察対象ですか? 何故シャリア様があの少年のことを──」
「両間の関係は追々調査すれば良い。そんなことよりも、観察対象はどうだ?」
「……は。些か信じ難い報告ですが、特別観察対象は耳長族きっての天才『緑の帝王』アリシア=イーグリアを下し……組織ごと取り込み、学園内での勢力を着実に強めています……。学園内に忍ばせている密偵からの情報ですが」
タルタリアが言い淀んでいるのは、その情報が異常だからだ。いくら数の利があるからといって、人間族が耳長族に勝利するなど前代未聞である。
(まさかあのアリシアが敗北するとは……。まだまだ荒いとはいえ、将来的には私をも超える才能だぞ? 一ノ瀬いのり──以前から頭が回る少年だとは思っていたが、本当に末恐ろしい)
当然タルタリアは、同族の中でも抜きん出た才を持つアリシアのことを認めている。
それを力ではなく、搦め手と知謀で崩したいのりは本当に異彩だ。まあだからこそ、特別観察対象として彼らからは警戒されているのだが。
「へえ、人間族が耳長族に勝つなんてよォ。随分と面白そうな話じゃねえの」
「特別観察対象……確か一ノ瀬いのりとか言いましたっけ。賢くて男前な男は好きですわ」
「サリューヌは本当に欲望に忠実だね……。とはいえ、僕も興味はあるかな」
「…………」
四帝覇王の三人が各々反応を示す中、ステラだけは苛立ちを募らせていた。
「タルタリアよ、そういうことを言っているのではない。あの特別観察対象は必ず今回の情報を掴んでいるはず。それを踏まえた上で対象がどう動くのか──傍観或いは介入か、それについての報告を聞かせよ」
「……も、申し訳ございません。今後の行動に関しては調査中です。ですが特段目立った行動が無い以上は、諦観に徹するものだと思われます」
「そうか分かった。つまりあの童は近々の一件に介入するということだな」
「…………え?」
ステラの言う言葉の意味が一瞬分からなかったタルタリアだが。
(まさかあの少年は、自身が監視されていることすら……私を利用しようとしたと⁉)
内心で呆然とするタルタリアをよそに、ステラは身を翻して右手を突き出す。すると右手に虹色の燐光が収束していき──三次元空間を構成する情報子が改竄されていく。
「■■:■■三五・四三・三九/■■:■■一三九・三八・四五。■■:■■三四・三三・一九/■■:■■一四一・一六・二八──行くぞ」
ステラが不可解な言語を唱え終わった刹那、東京都上空に浮かんでいたはずの五名は遥か遠方──太平洋上空に転移していた。下を見れば、紺碧の海が地平線まで続いている。
魔力を十全に使い空間を捩じ曲げ転移を可能にする六種族も現代には居るが、それは短距離転移に限った話だ。一千キロメートルを優に超える程の長距離転移が可能な存在は、ステラと他一人だけである。無詠唱でも実行可能なのだから、化け物としか形容できないだろう。
その後ステラは平然を維持したまま高度を下げ、不規則に揺れる波の上に降り立つ。
「計画始動の時だ。我は神として生ける者全てに天誅を下し、そして理想郷を創造する」
永き時を代償に捧げ得た理外のシャングリラを顕現させる。
「天城よ、我が神威にひれ伏せ──────起動」
『天上神』ステラの御業を前に、四帝覇王の誰もが息をのむ。
すると次の瞬間、ゴゴゴゴゴ……と重低音が轟き始め、足元に広がる蒼海が物理法則を無視して上下に揺れ始めた。数秒経つ頃には至る所で海水が巨大な渦を作り、激しく水飛沫を上げ、磁場が狂ったことにより幾重の水柱が天へ昇る。それは津波が生易しく見えるほど、天変地異に近い光景だった。世界終焉と見紛うほど信じられない光景だが、事前に施した権能で衛星やレーダーを始めとして絶対に観測されないという事情を含め、全てが予定調和の出来事である。
信仰する神が引き起こした奇跡に、目を輝かせる四帝覇王の猛者たち。
しかし、本命はこれからだ。
唐突に少し離れた地点で海流が不規則に狂い──膨大な量の海水を押し上げるようにして無数の泡沫を生成しながら、水中から何かが這い上がってきた。水面に映る影は段々と濃くなっていき、最終的には海面が爆発したことでその正体が明らかになる。
至る場所を濡らしている巨大なそれの直径は──軽く見積もっても数キロメートルはあるだろう。ステラが米粒のようである。
全体的な造形としては角と凹凸が多く、虹色のオーロラを纏う外観はまさに神聖なる神界を彷彿とさせる。言葉では形容出来ないほど圧巻で、見る者全てを瞠目させる超巨大なその物体は、数々の滝を生み出しながら上空へ浮上していった。
「ふはははっこれぞ我が切り札よ……! これがあればあの女ですら‥…さあ、止められるものなら止めてみよ‼」
常に冷静沈着なステラが、今だけは猛々しく笑い声を上げる。厄災にして救済。破壊にして創造。攻撃にして防御。表裏一体を兼ね備えたそれは言うなれば──神によって誕生したもう一つの世界だった。




