僕の遺伝子レベルの志村けん
忘れもしない。令和2年の3月29日のこと。
「大丈夫か?」
仕事中に、妻から突然のライン。
「大丈夫か? 志村けんが命をかけて教えてくれたんだ! コロナ予防! 手洗いしっかりとやれ!」
それで、知りました。
志村けんが死んじまった。
……あっけない。……あっけなさ過ぎる。
コロナ、おま、なんてことすんだよ。
僕は、チビッ子の頃から、志村けんの大・大・大・ファンだ。
例え、志村が故人になったとしても、志村の洗礼を受けたチビッ子にとって、「志村さん」という仰々しい言葉は、なんか違うのだ。志村は志村だ。志村けんだ。
ええい、クソう。
もし、ウイルスが目に見えたなら。
日本中のチビッ子が、大声で教えてやったのに。
志村あああ! 後ろおおおおおおおお! って。
子供の頃から、志村けんが大好きだった。
志村けんは、絶対だった。
いつだって、問答無用で面白かった。
大人になり、結婚してからも、変わらず大好きで、たまの特番は欠かさず見たし、DVDも大人買いして、長女が二歳の時から、笑いの英才教育としてドリフのコントを見せた。長女と二人で「志村魂」も見に行った。二部構成の一部は、定番爆笑コントや津軽三味線、二部は藤山寛美の喜劇を志村流にアレンジした舞台。最高だった。まじ、笑い死にするかと思った。
容赦ない馬鹿、容赦ない貧乏、容赦ないボケ老人、容赦ない変人。そんな言わば社会的弱者ともいえるキャラを、何故か見る者に差別心を一切感じさせず、志村は豪快に演じることが出来た。
それでいて、幼いチビッ子が見ても、どこかノスタルジックな哀愁を感じるような、不思議な魅力があった。
志村けんが、大好きだった。
志村けんは、絶対だった。
そんな僕を妻は「あんた、志村けんが死んだら、絶対泣くよね」と、いつもあきれ顔だった。
仕事が手につかなくなるのが怖くて、家に帰るまでニュースは見なかった。
帰宅して、自宅の駐車場で、恐る恐るスマホで訃報を読んで、
涙をこらえて風呂場に逃げ込み、妻の予言どおり、膝を抱えて、泣きました。
志村、あんまりだよ。
このコントは、笑えないよ。
とは。
とは、言うものの、いつまでも悲しみに暮れているわけにもいかねっす。
僕らは、志村けんの屍から、学ぶべきだっちゅーの。
人がこの世にそれぞれ使命を持って生まれてきたのだとするなら、志村けんの使命は言うまでもなく「人々に笑いを与えること」であった。
だとすれば、今のこの情勢を一日でも早く笑いに変える為に、志村けんが、身を捨てて僕らに警告をしてくれたのかもしれない。
この世界がコロナウイルスを乗り越えて笑うために。いつか、みんなが、笑える日のために。
僕の笑いの原体験は、紛れもなくドリフターズの志村けんだった。
そしてその笑いの核のようなものは、すでに僕の遺伝子に組み込まれていて、その笑いの核は、僕たちの子供へ、孫へ、そのまた子供へと、きっと永遠に遺伝することだろう。
だから、志村けんは死なない。
たまたま、肉体は地上から消え失せてしまったけれど、
彼が残した笑いの核は、日本人の感性に永遠に遺伝し続ける。
志村けんは、日本人の心に永遠に生き続けるのだ。
もしこの先、娘たちが嫁に行って、子供が生まれたら、
僕は、生まれたばかりの孫から、大爆笑をとる自信があるぞ。
僕は、娘や婿や孫の前で、このように踊るのだ。
変なおじさん~。
変なおじさん~。
変なおじさん~。
だから~。
変なおじさん~。
僕の遺伝子レベルの志村けんで、
きっとみんな、大爆笑だ。