第9話【見てる】
ぐちゃ、ぐちゃぐちゃ、ぐちゃ。
ばき、ぱきん、ぐちゃ。
霊安室で自殺を繰り返す患者の幽霊を食べながら、ユーイルは「んー」と実に嬉しそうに唸った。
「これは良質な恨みだ。濃厚なビーフシチューを想起させるな」
「そう」
鬼灯はユーイルの食事風景に慣れたもので、一般人なら吐いてもおかしくない効果音を聞きながら霊安室内を見渡す。
自殺を繰り返す患者の幽霊は、これで始末した。
あとは看護師の誰かに、地下フロアにはもう幽霊が出ないことを告げれば終わりだろう。鬼灯の役目もこれで終わり、という訳だ。
ユーイルの食事が終わるのを待っている時、鬼灯は床に落ちたメスを見つけた。
患者の手から滑り落ちたもので、今もなお床に転がっている。
一体何本のメスが回収されたのだろう。鬼灯はリノリウムの床に落ちた銀色のメスを拾い上げ、
「――――」
それから息を呑んだ。
いるのだ、まだ何かが。
壁に影の如く張り付いて、じっと患者の幽霊を食らうユーイルを観察している。目の部分だけが白く、ギョロギョロと忙しなく動くので気味が悪い。
「ひッ」
鬼灯はメスを握りしめたまま、二歩、三歩と後ろに退がる。
じっと壁に張り付いているのは、かろうじて人の姿を保っていた。人影のような何かは。銀髪赤眼の男子高校生が患者の幽霊を食べる様を眺めていた。
興味深いものを見るかのように――あるいは食事が酷く羨ましいものとして見ているように。
ユーイルは壁に張り付いた人影の存在に気づいていないのか、嬉しそうに痩せ細った患者の指先を口の中に収めていく。銀色のナイフで患者の肩口から切り落とし、蜥蜴の尻尾のようにバタバタと暴れる指先を咥えて、骨ごと噛み砕いた。
ごりごり、ごりごり。
ごりゅ、ごりゅ。
ユーイルの食事風景を興味深げに見る人影は、なおも壁に張り付いたまま動かない。微動だにしない。
「ユーイル、気づいてないの……?」
「何がだ?」
「あの、壁に……」
「ああ」
そこでユーイルはようやく食べかけとなった患者の幽霊から顔を上げ、壁に張り付いた人影の存在を認識する。
数えれば一〇人ぐらいはいるだろうか。誰も彼も壁に張り付いたまま眼球だけでユーイルの姿を追いかけ、ゆらゆらと真っ黒な身体を揺らす。まるで、ユーイル・エネンに見つけられたことが嬉しいとでも言うように。
ユーイルは真っ赤な瞳を音もなく眇め、
「なるほど、この病室を利用していた患者どもか。まだいたのか」
「その人だけじゃないの……?」
「自殺をした奴はコイツだけだな。だが、霊安室が死に部屋だった時代に死んだ患者はコイツだけではないということだな」
口元を拭うユーイルは、
「オレに食われたくて仕方がないのだろう。奴らも病院に対して恨みを持ちながら死んでいった。それで病院側を苦しめる幽霊になったのだが、同時に奴らはこの病院から離れることすら出来なかったのだ」
おそらくだが、とユーイルは言葉を続ける。
「この病院を辞めていった看護師連中は、全員コイツらを見て辞めたことだろうよ」
「何で分かるの?」
「幽霊としての勘だ。病院に対する『自分たちを見捨てた恨み』と、この場に縛り付けられた自分を見つけてほしいという願望が綯い交ぜになっている」
ユーイルはそう言って、壁に張り付いた人影に向かって手を伸ばした。
硬い壁に指を這わせ、それから人影を壁から引き剥がす。
人影は抵抗することすらしなかった。この病院から解放されたいという願望があるのは間違いなさそうだ。
べりべりべりべり。
壁から引き剥がされた人影の細い指先を咥えて、ユーイルは「いただきます」と言う。
ぽきん。
人影の指先からは、軽い音が聞こえてきた。
その痛みは計り知れないものだろうが、人影が抵抗することはやはりない。彼らも病院側から解放されたいと願っているのだ。
食われていく人影に、他の人影たちも次は自分が食われるのだとばかりにゆらゆらと身体を揺らして主張する。早く食われたい、早く食われたいと言っているようだ。
鬼灯は身体を揺らして食われる順番を待つ人影を一瞥し、
「……ユーイル、食べてあげるの?」
「食べるとも。自分から身を差し出してくるとは、殊勝な考えをする幽霊どもだ。味もなかなか美味い、オムレツにケチャップとソースをかけたような味だ」
「そんな美味しいの……」
「幽霊を食らうのはお勧めしない」
ユーイルはただただ食事を続けながら、
「鬼灯よ」
一体の人影を口の中に収め、嚥下し、それから銀髪赤眼の男子高校生は鬼灯へと振り返る。
「オレはな、生きている奴らには出来る限り長生きしてほしい派なのだ。オレには体験できなかった長い人生を謳歌して、それから死んでほしいのだ」
その言葉には、彼の切実な願いが込められていた。
「だから鬼灯よ、オマエはオレのようになるなよ。今はオレがいるから幽霊が危害を及ぼしてくることはないだろうが」
「平気よ」
鬼灯は銀色のメスを手持ち無沙汰に弄びながら、
「そんな危険なことに首を突っ込むような性格じゃないもの。――あ」
手で弄んでいたメスが、鬼灯の手から滑り落ちる。
硬いリノリウムの床に叩きつけられ、金属特有の細く耳障りな音が霊安室に響き渡った。
その音が聞こえることになるのも、最後のことだろう。
かしゃん、かしゃんッ。




