第9話【それは歓迎か?】
ぎぃ、ぎしッ。
廊下の床板を踏むたびに、軋んだ音が立つ。
脱衣所から出た鬼灯は、異臭が漂ってくる台所に向かった。
異臭の原因は、あの女の幽霊が腐った食材を使って歓待の準備をしているからだ。嬉々として料理をしているとは思えない。
短い廊下を辿っていくたびに、鬼灯の鼻孔に嫌な臭いが突く。
「何、この臭い……」
「腐った食材を使えば、どうなるか知っているだろうに」
鬼灯の後ろからついてくるユーイルは、実に楽しそうに笑いながら言う。
「腐った食材を腐った食材と混ぜ合わせても、腐った食材の何かにしかならん」
「それはそうだけど」
「併せて何かの糞尿……いやこれは泥か? ここの周りを取り囲む沼からすくってきたか。飲み物まで出してくれるとは、本格的に歓待の準備が進んでいるようだなぁ?」
ユーイルは食べられないからいいだろうが、これから食べさせられる身としては非常に避けたいところだ。
鬼灯は顔を顰めて、台所を覗き込む。
不思議なことに、女の姿はない。ただ台所にある机には、汚れたカップが一つと白い皿に盛られた泥だらけでべちゃべちゃした何かがあった。鬼灯の食事と飲み物だろうか?
白い皿に盛られたものは、小蠅がぷんぷんと飛び回っていた。あれに触れるどころか、近づきたいとは思えない。
「え」
台所を見渡すと、白い皿と汚れたカップのすぐ側にガラスの箱に収納された市松人形が控えていた。
感情の読み取れない黒い眼球が、じっと鬼灯を見つめている。そこにはいないはずのものなのに。
だって市松人形は、脱衣所に放置されていたのだ。
「ユーイル、持ってきた?」
「オレはここにいるのだが?」
ユーイルは「心外な」とばかりに言う。
確かに、鬼灯の背後に控える銀髪赤眼の男子高校生が脱衣所にある市松人形を持ち込むのは厳しいだろう。幽霊を見るだけではなく触ることが出来る鬼灯であれば、その横をバレずに通り抜けるのは難しい。
必然的に考えられる可能性が、市松人形が勝手に動いたという嫌なものになってしまう。本当なら考えたくない可能性だ。
鬼灯が意を決して台所に足を踏み入れると、
はあ。
またあの吐息だ。
浴室で感じた、生温い吐息。
それはすぐ近くの耳元で。
「いやッ」
鬼灯は思わず耳を塞いで座り込む。台所の床はベタベタとして、ザラザラとした感触もあった。
「どうした、鬼灯よ」
「な、何か……吐息が」
「言っておくが、オレではないぞ」
真っ先に自分が疑われると理解したユーイルが、先に否定してきた。別に疑った訳ではない。
誰がやったのか、すぐに想像がついた。
最初に市松人形があった部屋で、静かに正座をする女の幽霊だ。
ボサボサの髪が垂れ落ちて顔を完全に覆い隠し、猫背で窓の方角を向いている。窓から差し込まれる陽光を浴びてもなお、その邪悪な雰囲気は隠せていない。
枯れ枝のように細い指先で傷んだ畳を引っ掻き、垂れ落ちた頭を揺らす。立ち尽くす鬼灯に「何故もてなしの料理を食べないのか」と言わんばかりの態度だ。
がり、がり、がり。
がりがり、がり。
がり、がり、がり。
がりがりがりがりがり。
音は次第に激しさを増していく。
がりがりがりがりがり。
がりがりがりがりがりがりがり。
がりがりかりかりがりがり。
がりがりがりかりかりかりがり。
傷んだ畳がさらに傷ついて、毟られようと、女は畳を引っ掻くことを止めない。
「歓待に不満があるようだな?」
ユーイルが前に進み出て、畳の部屋の真ん中で正座をする女に歩み寄る。
その手には、いつのまにか銀色のナイフが握られていた。
もう待ちきれないのだろう。沼屋敷の幽霊が目の前にいるということは、彼にとって極上の食事が目の前に用意されたということと同義だ。ユーイルの瞳は爛々と輝き、女の幽霊に固定されたままだ。
きしッ、ぎしッ。
畳が軋む。
銀髪の男子高校生が正座する女の幽霊に歩み寄り、それから朗らかな笑顔で彼女のボサボサな髪を掴む。
痛がるような素振りを見せる女は枯れ枝のような細い腕をめちゃくちゃに振り回して抵抗するが、ユーイルは構わず女の痩せこけた頬に銀色のナイフを添えた。
「沼屋敷に取り込まれたオマエが、今更抵抗するのか?」
ユーイルは銀色のナイフの先端を、台所にいるガラスの箱に収納された市松人形に向けられる。
「アレの為に生きるのか。随分とまあ、まるで我が子のように可愛がっているではないか」
痩せこけた頬を鷲掴みにし、ユーイルは女に「よく見ろ」と告げる、
「アレはただの人形だ。オマエの娘でも何でもない、ただのこの屋敷に忘れ去られた人形だ」
女のカサカサになった唇が蠢き、
あー、あー!!
そんなことはない、とばかりに叫んだ。
「まあまあ、そう怒るな怒るな」
音もなく銀色のナイフを逆手に握ったユーイルは、満面の笑みで言う。
「すぐにあの人形も食って、オマエの元に送ってやろう。せいぜいオレの胃袋の中で、仲良く家族ごっこでもするがいい」
次いで聞こえてきたのは、食事を開始するいつもの挨拶だ。
「い た だ き ま す」
そうしてユーイルは、女の喉元に銀色のナイフを突き刺した。




