第7話【人の住んでいた気配】
建て付けの悪い扉の隙間から沼屋敷の様子を窺えば、ガラスの箱に収納されたボロボロの市松人形だけしかなかった。
六畳の部屋は見事にボロボロで、敷かれた畳は傷んでしまっている。雨漏りもあるのか畳は腐っている場所もあるし、天井も所々に穴が開いてしまっている。
台座に乗せる訳でもなく、ガラスの箱に収納された市松人形は沼屋敷の中央に放置されたままだ。感情の読み取れない虚な黒い眼球がじっと鬼灯を見つめており、容易に触れてはいけないような雰囲気がある。
ユーイルも沼屋敷の内部を覗き込んで、
「何だ、市松人形しかないな」
そう言うと、銀髪赤眼の男子高校生は土足で沼屋敷へと踏み入れた。
傷んだ畳の上をぐるぐると歩き回り、他に何かないかと家探しをする。
市松人形がある部屋はどうやら壁の一部が仕切りとなっているようで、動かせるようになっていた。壁を滑らせれば台所が見え、その台所も見るも無惨にボロボロの状態だった。
コンロは焼け焦げ、黒くなったフライパンが放置されていた。シンクには腐った水が入った桶が置かれ、中には使用済みの皿が浮かんでいた。誰かが生活していた気配がある。
「他には何かないのか?」
「ちょっと、ユーイル」
ユーイルは獲物を探して沼屋敷の奥を目指し、鬼灯は市松人形が放置された部屋で取り残される。
この市松人形が不気味なのだ。ガラスの箱に収納されているが、お構いなしに沼屋敷の中を歩き回りそうだ。
不思議と市松人形から視線を外すことが出来ず、六畳の和室に放置されたガラスの箱をじっと見つめたまま鬼灯は立ち尽くした。この人形の一挙手一投足を見逃すまいとするように。
すると、最後に沼屋敷へ足を踏み入れた永遠子が、市松人形を見つめたまま微動だにしない鬼灯の服の裾を引っ張る。
「鬼灯ちゃん、どうしたの?」
「え、あ」
永遠子に呼ばれて正気に戻った鬼灯は、
「ごめん、永遠子。何でもないの」
「市松人形は持ち帰らないようにしようね」
永遠子もガラスの箱に収納された市松人形を一瞥し、
「あれって不気味だもん」
「そうね……人形には悪いけれど」
人形はただそこにいるだけなのだ、何の罪もない。
鬼灯は無理やり市松人形から視線を外して、沼屋敷の奥を目指したユーイルを追いかけた。
台所へ足を踏み入れれば、それまで感じることのなかった異臭が鼻を突いた。食べ物の腐った臭いが何種類も混ざり合っている。鬼灯は思わず鼻を摘んでしまった。
食べ物がこんな屋敷の中にあったのだろうか。電気の途絶えた冷蔵庫もあるし、電子レンジらしきものもある。かつて人が住んでいた気配は見られる。
「臭い……」
「本当、嫌な臭い」
永遠子も顔を顰めて、鼻を摘んでいた。
ユーイルは台所を抜けてどこかに向かったようだ。沼屋敷の奥から弾んだ声で「おお、凄いな!!」などという言葉が聞こえてくる。
鬼灯と永遠子が台所の悪臭で動けずにいると、ユーイルがわざわざ悪臭の立ち込める台所まで戻ってきた。それからキラッキラと赤い瞳を輝かせて言う。
「鬼灯、鬼灯よ。こっちに来てみろ!!」
「何よ、ユーイル。私はこの台所が臭くて、奥には行けないわよ」
「悪臭など関係ないだろう。この先に面白いものがあるぞ!!」
ユーイルが興奮気味に言ってくるので、鬼灯は仕方なしに悪臭の立ち込める台所へ足を踏み入れて沼屋敷の奥を目指した。永遠子も「くさーい」などと言いながら、鬼灯についてくる。
台所を抜けた先には狭い廊下が伸びていて、その先はトイレと風呂場になっている様子だった。トイレは黴だらけとなり、設置されたトイレットペーパーも埃を被っている上に黄ばんでしまっている。まともに使うことも出来なさそうだ。
ユーイルが示したのは、風呂場の方だった。
ガラス戸を開け、その先は脱衣所となっていた。古びた洗面台が目に飛び込んできて、曇った鏡に鬼灯の上半身が映り込む。
蛇口は曇り、洗面台には虫が湧いていた。近づきたくもないほど汚れている。
「こっちだ、鬼灯」
仕切りに浴室から呼びかけてくるユーイルに応じようとした鬼灯だが、
ギィ、ギッ。
鬼灯の背後から足音が聞こえた。
弾かれたように振り返れば、誰かが台所方面に向かっていた瞬間が見えた。ボサボサの黒髪と白い服の裾が見えた気がした。
よく耳を澄ませば、誰かの足音が聞こえてくる。
ギィ、ギッ。
とたとた、とた。
とた、とたとた。
ギッ、ギッ。
畳の部屋と台所を行ったり来たりしているのだろうか。足音が変化する。
鬼灯は台所方面が気になったが、今はユーイルの事情が優先だ。
彼には沼屋敷に出てくる女を食ってもらわなければならない。彼が側にいなければ話にならない。
「どうしたのよ、ユーイル」
「これを見てみろ」
曇りガラスの引き戸を開ければ、古い形式の風呂釜が目の前にあった。
変色した水の中に、何かが浮かんでいる。
原型は止めていないが、人間のようなものだ。腕をダラリと風呂釜の外に投げ出し、肌が腐って顔もよく判別できないようになっていた。ドロドロに溶けていて、気味が悪かった。
死体と呼んでいいものなのだろうか。この風呂場で亡くなった誰かなのだろうか?
「この死体、よく見れば女に見えんか?」
銀髪赤眼の男子高校生は、ニヤニヤとした笑みを浮かべて問いかけてくる。
確かによく見れば女の死体に見えなくもない。
ただ、何故こんなところに女の死体があるのだろうか。鬼灯には想像が出来なかった。
はあ。
その時、鬼灯の耳元で生暖かい吐息が吹きかけられた。




