第6話【沼屋敷の中】
あー。
緑色の茶色が奇妙に混ざり合った汚い沼の中心、ポツンと小さな陸地に建てられた吹けば飛ぶような木造の小屋からボサボサの髪の女が手招きをしている。
手招きをされても、鬼灯は沼屋敷に行くことが出来ない。
沼屋敷は沼の中心にあり、四方は沼に囲まれた状態だ。沼屋敷に行くには沼をどうにかして渡る必要がある。彼女の要望には応えられない。
鬼灯は首を横に振ると、
「ダメよ」
沼屋敷の窓から顔を覗かせて、鬼灯に向けて手招きをする女に言う。
「貴女のところには行けないわ」
どう足掻いたって無理なのだ。
周囲が沼となった沼屋敷には、陸地がなければ行けない。小型の船でもあればいいのだが、船が浮かぶほどの広さが沼にはないのかもしれない。
それでも沼屋敷の女は鬼灯へ手招きすることを止めず、
あー。
掠れたその声は、鴉の鳴き声に似ていた。耳障りな声だ。
「どうするつもりだ、鬼灯よ。思わせぶりな態度をし続ければ、相手の怒りを買うことになるぞ」
銀髪赤眼の男子高校生――ユーイル・エネンはふわふわと空中を浮かびながら、鬼灯の顔を覗き込む。
鬼灯だって理解している。このまま女性の誘いに応じず立ち続けていれば、いつか相手の怒りを買うことになる。
相手の怒りを買えば、どうなるか分かったものではない。沼に沈められる可能性もあるのだ。あるいは、沼屋敷から出られないかもしれない。
すると、窓からこちらをじっと見つめる女は、
あー。
誘うような手つきを止めて、沼屋敷の中に引っ込んだ。
諦めたのだろうか、それとも何か道具でも持ってくるつもりなのだろうか。
鬼灯は沼屋敷をじっと見つめているが、あの女は窓から顔を出さなかった。鬼灯を沼屋敷に誘っても、鬼灯がやってこないので諦めたのだろう。
そっと安堵の息を吐く鬼灯は、
「ねえ、鬼灯ちゃん」
「何、永遠子?」
永遠子が服の裾を引っ張って、沼屋敷から外れた場所を指で差した。
「沼屋敷の裏側は、ほんの少しだけ沼屋敷に近いよ」
「真ん中にある訳じゃないのね」
「あと、岩がいくつかあるの。足場になりそうよ」
なるほど、その岩を足場にして渡れば沼屋敷に到達することが出来るか。
鬼灯は「分かったわ」と永遠子に言い、その場から離れる。
沼屋敷の中は、鬼灯も見てみなければ分からない。幽霊を引き寄せる体質の鬼灯が沼屋敷に行けば、あの女も簡単に誘き寄せられるはずだ。そしてユーイルに食って貰えば終わる。
緑色と茶色の汚水が満たす沼の周りに沿って移動し、
「沼屋敷には何があるのかしら……」
あの吹けば飛ぶような小屋には何が待ち受けているのか――その真実を知る為に鬼灯は沼屋敷を目指す。
☆
永遠子の言う通り、沼屋敷の裏側はほんの少しだけ陸地に近かった。沼屋敷は真ん中にある訳ではないようだ。
そして沼屋敷に至るまで、手頃な岩が足場のように連なっている。落ちないように気をつければ、沼屋敷に辿り着くことが出来そうだ。
ただ、沼から落ちればヘドロに足を突っ込むことになりそうだが。
「うう……何か少し臭い……」
「おそらく沼屋敷の何かが汚染したのだろうなぁ」
ふわふわと呑気に空中を漂うユーイルは、
「ほーれ、鬼灯よ。落ちるぞ」
「う、うるさい。話しかけないで」
鬼灯は沼の周囲に巡らされた注連縄を乗り越え、沼の淵から足を伸ばして沼に浮かぶ岩場に乗せる。何とか岩に乗ると、思った以上に岩が小さいことが分かった。
下手をすれば岩から足を滑らせそうな予感がある。出来れば誰かに支えてほしい。
鬼灯は頼りになる幽霊に視線をやり、
「と、永遠子。お願い。手を握っててくれる?」
「いいわよ、鬼灯ちゃん。仕方がないわね」
「鬼灯よ、何故オレには言わないんだ?」
「貴方は単純に信用できないもの」
ユーイルに任せると何かの拍子に突き飛ばされて、鬼灯が沼に落ちても助けないことが予想される。沼に落ちるのは絶対に嫌だ。
鬼灯から信頼されていないことを知ったユーイルは、不機嫌そうに唇を尖らせて「心外な」などとぶつくさ文句を言っていた。絶対に信用など出来る訳がなかった。
鬼灯は永遠子に身体を支えてもらいながら、連なる岩に足を伸ばして沼を渡っていく。こういう時、幽霊に触れる体質でよかったと思った。
「鬼灯ちゃん、もうすぐ」
「ありがとう、永遠子」
「信じてもらえんとは悲しいなぁ、悲しいなぁ」
「普段の行動を見直しなさいよ、貴方は」
「オレは普段から誠実さの塊だろう!!」
「じゃあ今の私に何か言うことはあるかしら?」
「突き落としたら面白そうだな、と」
「だから信じられないのよ。沼屋敷の幽霊を食べたらしばらくご飯は抜きね」
「なぬッ!?」
突き放されたことで軽くショックを受けるユーイルを放置して、鬼灯はようやく沼屋敷の敷地内に辿り着いた。岩場があってよかった。
間近で見る沼屋敷は、今にも倒壊しそうなほどボロボロだった。
建て付けの悪い扉には隙間があり、風が吹き込んでくれば防寒などあってないようなものだ。雨風も凌げなくて家としての機能はあるのだろうか。
鬼灯は沼屋敷の扉に手をかける。軽い力で押せば、簡単に開いた。
ギィィィィー……。
扉を開ければ、傷んだ畳がまず見えた。扉の隙間から部屋の中を覗き込むが、あの女の姿は見えない。
代わりに見えたのは、部屋の中心に据えられたガラス製の箱に入れられた人形だった。
ボロボロに色褪せた着物と、ボサボサの黒いおかっぱの髪。肌には正気が感じられないほど白く、頬の部分が汚れてしまっている。
「市松人形……」
この家に住んでいたという娘が大切にしていた市松人形が、虚な瞳を来訪者である鬼灯に向けていた。




