第8話【赤子】
ごり、ごり。
ごきん、ごき。
ごりん、ごり、ばりばり。
夜の砂浜に、そんな奇妙な食事の音が落ちる。
死してなお、海に囚われたままだった哀れな妊婦の幽霊が食べられていく。裂けた腹から零れ落ちるのは胎児ではなく、粘性のある液体に包まれた気持ち悪い魚卵だ。
銀色のナイフで綺麗に腕を切り取られ、足を千切られ、胸を削ぎ落とされて、頭に食らいつかれる。そうして徐々に彼女は元の原型をなくしていく。
ぼきぽき、ぽき。
ごり。がりがり。
ばきばき、ぱきん。
ぐちゃ。
食べられているのは妊婦の幽霊だけではなく、彼女に纏わりついていた犠牲者たちも同じだった。
どれほど幽霊を食らおうと、この銀髪赤眼の男子高校生の姿をした悪霊の前では意味などない。常に彼は空腹なのだ、どれほど幽霊を食しても次に手を伸ばす。
妊婦の幽霊を食いながら、手を伸ばして名前も知らない男の幽霊の足を掴む。抵抗する幽霊の足の甲へ銀色のナイフを突き立てれば、相手の口から地獄の底から聞こえるような絶叫が迸った。
ああああああ、あああああああああ。
ああああああ、ああああああああああああ。
食われる、食われる、食われてしまう。
妊婦に海へ引き摺り込まれたばかりに、何とも哀れなものである。
ようやっと海から解放されるのかと思えば、今度は男子高校生の腹の中だ。どう抗ったところで食われる運命を辿る他はない。
「…………」
ユーイルの食事風景を眺める鬼灯は、もう慣れたとばかりの堂々とした態度だった。
彼の食事に立ち会うのは、これで何度目になるだろうか。
暴れる幽霊を押さえつけて、美味そうに幽霊たちの足や手を口の中に押し込んで、骨を砕いて肉を引き裂きながら食事をする彼を見ているのは、今回で何度目だろうか。
「これって何の卵だろうな」
足元に転がる粘ついた液体で濡れた魚卵を見下ろし、音弥がポツリと呟く。
野球ボール程度の大きさはあるだろうか。魚卵のように見えるそれは夜の砂浜に数え切れないほど転がり、気味の悪さを後押しする。
試しに表面を指先で触ってみれば、殻の向こうで何かが蠢く気配を感じ取った。慌てて指を引っ込め、ぬるっとした指先を服で拭う。
「何かの生物の卵ですかね……」
「こんな訳の分からないものが砂浜に転がってたら、地元の住民から通報されるだろうな」
音弥は卵を一つだけむんずと掴むと、
「それッ」
夜の海めがけて投げ込んだ。
ぽちゃん。
放物線を描いて落ちる卵。浮いてこないので、海の中に沈んでいるのだろうか。
音弥は次々と卵を海に投げ込んでいく。鬼灯も彼の姿に倣って卵を海に放り込んだ。
手のひらがぬるぬるとして気持ちが悪い。早くどうにかしたいものだ。
「割らないのか、その卵」
すると、食事中のユーイルが背中越しに振り返り、鬼灯に言う。
「オマエも興味があるだろう? その卵から何が生まれるのか、この女が腹の中で何を育てていたのか」
ユーイルが掲げたのは、無残にも首だけ残された妊婦の幽霊だった。
我が子が帰ってくると信じて、海水浴場を訪れた一般人を次々と海に引き摺り込んだ悪霊。どうして海に人間を引き摺り込むことで死んだ我が子が帰ってくると信じていたのか、今となっては謎に包まれた状態だ。
ぬるりとした卵の中に何が潜んでいるのか。それは、鬼灯も気になる部分だ。
手の中で存在を主張する卵へ視線を落とした鬼灯は、そっとそれを砂浜に置いた。手頃な石を見つけてくるが、
「止めた方がいい」
音弥に止められる。
「何でですか?」
「絶対によくないものだ。入祢に言われても、聞かない方がいい」
音弥の言葉は分かる。
この卵は確かによくないものだ。割らない方がいい、このまま海に投げ捨ててしまった方がいいということも理解している。
だけど、
「私は、知りたいです」
鬼灯は握りしめた石を掲げ、
「知りたくて、堪らないんです」
ゴツゴツとした石の表面を、卵に叩きつけた。
ぱきん。
卵にヒビが入る。
石を叩きつけられたことによる衝撃が卵全体に行き渡り、やがて硬い殻の向こう側で蠢いていたモノが姿を見せる。
殻を退ける小さな手、粘ついた液体を身に纏って姿を見せたのは小さな小さな赤子だった。
「ひッ」
鬼灯は上擦った悲鳴を漏らし、石を投げ捨ててしまう。
砂浜の上を這いずる赤子は、髪が生えておらず全身が皺くちゃだ。目も開いてなくて、半開きになった口の端から涎が垂れ落ちる。
何やら呻き声を上げながらモゾモゾと砂浜の上を動き回る気持ち悪い赤子は、海を目指して這っていく。赤子が通った証として、砂浜に湿った線が伸びていた。
あー、あー。
何かに呼びかけるように小さな赤子が泣きながら、波打ち際まで到達する。
波打ち際まで来た赤子は、寄ってきた波に飲まれて夜の海の中に引き摺り込まれた。
鬼灯は呆然とそれを眺めるしか出来なかった。正直な話、あの赤子が何なのか分からなかったのだ。
すると、
ぱしゃん、ぱしゃん。
ぱしゃん。
ぱしゃ。
海面に無数の小さくて丸い何かが浮かび上がる。
月明かりに照らされるそれは、先程の赤子と同じだった。
腫れぼったい瞼が特徴の顔を砂浜にいる鬼灯たちに向け、それから夜の冷たい海を泳いでいく。どこまでも、どこまでも。
「なるほど、この妊婦が海に引き摺り込んだ連中が赤子となって海に帰っていったか。結果的には我が子を出産できることが出来てよかったなぁ、帝王切開のようになったがな」
妊婦に取り憑いた最後の幽霊を口の中に放り込んだユーイルは、両手を静かに合わせて食事を終える為の挨拶を口にした。
「ご ち そ う さ ま で し た」




