第7話【かえろうよ】
かえろうよ
かえろうよ
かえろうよ
砂浜を歩くその女は、海に向かって何度も呼びかけていた。
女性には子供がいた。
生まれる前にもう帰らぬ人となってしまったが、自分の中にまたあの子が帰ってくると信じて止まなかった。
かえろうよ
かえろうよ
かえろうよ
砂浜を歩く女性は、気が狂っていた。
自分の中で死んでしまった我が子が、呼びかけていれば戻ってくると思い込んでいたのだ。
もうあの子は帰ってこないのに、遠くに行ってしまった子供に買えるよう促す母親のように何度も何度も何度も何度も。
「ほら、××家の奥さん……」
「流産しちゃったって」
「それであんな……」
「可哀想に」
他人が何かを言っているが、女性には関係なかった。子供が帰ってくるまで何度も海に向かって呼びかけた。
ぱしゃん。
その時、水を打つ音が女性の耳朶に触れた。
他人の声など聞こえていないとばかりに振る舞っていた彼女が、ふと顔を上げたのだ。狂ったように「かえろうよ」と呼びかけていた言葉も止めて、海を見やる。
それから、彼女は微笑んだ。
「かえってきた」
次の日、女性の水死体が浜辺に打ち上げられていた。
紫色になった女性の顔は安らかな表情を浮かべており、その胸には誰のものか分からないぶよぶよにふやけた水死体が抱きしめられていたと言う。
女性の水死体を境に、この辺りでは海の中に引き摺り込まれて水死体として発見される事故が多発した。
☆
「――わああああああああああああああああああああ!?」
「――ぎゃあああああああああああああああああああ!?」
ベニヤ板が外されたリゾートホテルの客室から、若者たちの絶叫が夜空に轟いた。
彼らも見てしまったのだろう。
濡れた女の顔を埋め込んだ、蜘蛛のような怪物の姿を。蜘蛛の身体から突き出た無数の人間の腕が器用に地面を掴み、ザカザカと這い回る悍ましい光景を。
ついにリゾートホテルの壁に張り付いた蜘蛛の怪物めがけて、銀髪赤眼の男子生徒が襲いかかる。
「誰が逃げていいと言った」
女の額にグッサリと銀色のナイフを突き刺したユーイルは、悲鳴を上げる蜘蛛の怪物を容赦なく蹴飛ばして地面に転がした。
額から黒い靄が噴き出る。
銀色のナイフに刺された痛みで暴れる蜘蛛の怪物は、銀色のナイフを逆手に握りしめるユーイルをジロリと睨みつけた。
「かえらないくせに!! かえらないくせに!!」
「ああ、そうとも。オレの帰るべき場所はここではないからな」
絶叫する蜘蛛の怪物を余裕綽々とした態度で見やるユーイルは、
「手当たり次第に海へやってきた客どもを引っ張り込んで、遊泳禁止になったら目の前のホテルから顔を出した連中を引っ張り込んで、さらにオマエは大きく成長するのか」
赤い瞳を眇めて、ユーイルは問いかける。
「凄いなぁ、オマエの後ろは見事な大名行列だ。それほど人間を取り込んで、一体何がしたい?」
ホテルの客室で怯える若者たちには、彼女の姿が悍ましい蜘蛛の怪物として映っていることだろう。
だが、その認識は間違いだ。少なくとも鬼灯には正しく認識できていた。
無数の人間に纏わりつかれた、一人の女性。その腹は大きく膨らんでおり、妊婦の女性がよく身につけるゆったりとしたワンピースをぐっしょりと濡らした彼女。
黒髪をだらりと垂らした妊婦は、血走った目でユーイルを睨みつける。
「帰ってくるって言った」
掠れた声で訴える。
「こうすれば帰ってくるって、あの子は帰ってくるって!!」
「帰らんよ」
妊婦の訴えを、銀髪赤眼の男子生徒が一蹴する。
「そんなことをしても、腹の子は帰らん。せいぜいオマエに嘘を吹き込んだ誰かの望む何かが生まれるだろうな」
「そんなことない!!」
「いいや、あるとも」
ユーイルは大股で濡れた妊婦へ歩み寄る。
彼の一挙手一投足を、妊婦に纏わりついた人間たちが注目している。
全身を真っ青に染めて、手も足も膨れ上がり、誰が誰だか判別できないほど悍ましい姿をした人間たちが銀髪赤眼の男子高校生を見つめている。鬼灯だったら足が竦んで動かなくなるだろうが、ユーイルは気にする素振りすら見せなかった。
逆手に握りしめた銀色のナイフを掲げ、ユーイルはその切先を妊婦の腹に突き立てる。
「やめ」
妊婦の女性が腹を守ろうとするより先に、ユーイルのナイフが腹を裂いた。
ぞろォ。
溢れ出てきたのは、卵だ。
何の卵だろうか、分からない。
ただそれが、彼女の膨らんだ腹の中から大量に零れ落ちてくる。その光景があまりにも気持ち悪くて、鬼灯は口元を押さえて身体をくの字に折り曲げた。
喉の奥に酸っぱい何かが迫り上がってくる。吐き出しかけた胃液を何とか飲み込んで、鬼灯は妊婦の女性を見やった。
「――――――――」
妊婦の女性も驚愕のあまり固まっていた。
腹の中に、我が子はいない。
いたのは何かの卵だ。これを成長させる為に、彼女はたくさんの人間を海の中に引っ張り込んだのか?
「なにこれ、なにこれ、なにこれ」
「知らん、知らん。オマエが知らなければオレも知らん」
ナイフの切先を妊婦の首筋にひたと押し当てるユーイルは、
「哀れだな、オマエは。我が子が帰ってくると嘘を吹き込まれ、たくさんの人間を海の中に引き摺り込んで帰してきたが、結局は騙されていただけか」
地面に転がる卵を一瞥したユーイルは、
「よく見ろ、アレはオマエの子か?」
「ああああああああああああああああああああああああああああ!!」
錯乱状態になった妊婦の女性は、髪を振り乱して叫ぶ。
とうとう狂った女性を眺めるユーイルは、実に楽しそうに笑っていた。
手持ち無沙汰に銀色のナイフを弄び、彼は待ちきれないとばかりに言う。
「哀れなオマエに救いをやろう、せいぜいオレの胃の中で泣き喚け」
――い た だ き ま す。




