第5話【ベニヤ板越し】
「ふぅ……」
濡れた髪をタオルで拭きながら、鬼灯は裸足で客室の床を踏む。絨毯が敷いてあるので床の冷たさを感じることはないが、やはり夜なので肌寒い。
ツインルームからシングルルームに移動し、鬼灯と音弥は別の部屋を使うことになった。元々シングルルームを二部屋分の料金を払っていたので、部屋の移動にかかった差額はないとのことだ。
宿泊費まで負担してくれるとは鬼灯も助かったが、申し訳ない気持ちもある。鬼灯はあくまで幽霊を引き寄せる体質を利用されているだけに過ぎず、幽霊を食べるのはユーイルのやることだ。
鬼灯は一人用のベッドに腰掛けると、暗い窓に視線をやった。
「やっぱりベニヤ板……」
シングルルームでも、やはりベニヤ板が窓に打ち付けられていた。押しても引いてもびくともせず、飛び降り自殺を防止するという理由ではやりすぎな気がする。
問題はそこではない。
鬼灯の頭の中に今もなお残る、平坦な笑い声とあらぬ方向を見上げながら波打ち際で遊ぶ水着姿の人々だ。
彼らは全員、海に囚われたとユーイルは言っていた。それがどういう意味があるのか不明だが、あの不気味な光景が脳裏に焼き付いて離れない。
「…………」
鬼灯はベニヤ板を見つめる。
ベニヤ板の向こう側に、あの海がある。時間帯的には、絶対に見てはいけないと言われていた夜の海だ。
今はまだ頑丈に取り付けられているが、あれがいつ外れるか分かったものではない。ただの板に信用なんてないのだ。
「鬼灯ちゃん」
「ッ!!」
弾かれたように振り返れば、浴室から永遠子が顔を出していた。
幼い少女の手には、ドライヤーが握られている。
鬼灯がタオルだけで髪の毛を乾かそうとしている魂胆を読んでいたようだ。永遠子は柔らかく微笑みながら、鬼灯に手招きをする。
鬼灯は永遠子の手招きに誘われて浴室に戻り、鏡台の前に腰掛けた。
「鬼灯ちゃん、風邪を引いちゃうよ。鬼灯ちゃんは私と違って、生きているんだから」
「そうね……」
永遠子がドライヤーの電源を入れながら、鼻歌混じりで鬼灯の髪の毛を乾かし始める。指先が首筋をくすぐるが、やはり人間らしい体温はない。
「ねえ、永遠子」
「なぁに?」
「永遠子は成仏しないの?」
「しないよ」
永遠子は鬼灯の髪の毛を指先で梳きながら、
「だって鬼灯ちゃんが心配だもん。鬼灯ちゃんが死ぬまで、私はずっと取り憑いてあげる。もちろん迷惑だったら、成仏するけど」
「そんなことないよ」
鬼灯は否定した。
永遠子と離れるのは嫌だ。彼女の明るさに、鬼灯は何度も助けられた。
それでもいつか成仏してしまうのであれば、その時は笑って見送ってあげようと思ったのだ。死ぬまで憑いていてくれるなら、きっと今際の際に迎えにきてくれるだろうか。
永遠子が「じゃあ死ぬまで取り憑いてあげるね」と笑いながら言い、鬼灯も思わず笑ってしまった。
かりかり、かりかり。
ドライヤーの音に紛れて、そんな音が聞こえてきた。
「……?」
鬼灯は背後を振り向いた。
背中にはドライヤーを使う永遠子がいて、それ以外の存在はいない。ユーイルは隣の部屋で音弥に捕まっている。
では、この音はどこから?
かりかり、かりかり。
かり、かりかり。
何かを爪先で引っ掻く音だ。
「まさか」
鬼灯は浴室を飛び出し、窓枠に取り付けられたベニヤ板を注視する。
窓枠を塞ぐベニヤ板の向こう側から、その音は聞こえてきた。
絶え間なく。
かりかり、かりかりかり。
がり、がりがりがりがり。
がりがり、かりかり。
かりかり、かり。
何度も何度も、爪先でベニヤ板を引っ掻く音が聞こえてくる。
この向こう側に何かがいるのは確実だった。
足元に寄ってきた永遠子を抱きしめながら、鬼灯はベニヤ板を睨みつけて問いかける。
「誰なの……?」
それに対する答えは、
「何だ。オレのことを忘れた訳ではあるまいな?」
妙に偉そうなその口調は、ユーイルのものだった。
「何だ、ユーイルなの。ベニヤ板で遊ばないでよ、怖いでしょ」
「ここを開けてくれないか」
「はあ?」
鬼灯は眉根を寄せた。
ユーイルは幽霊だ。本気になれば壁をすり抜けられるので、そもそもベニヤ板の存在などなくてもいいのだ。
それなのに、どうして「開けてくれ」と要求してくるのか?
「ここを開けてくれ」
がりがりがりがりがりがりがりがり。
「開けてくれ」
がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり。
「開けろ」
がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり。
「開けろ!!」
要求するたびに、その声の荒さは増していく。
この向こうにいるのはユーイルではない、別の誰かだ。
誰かがユーイルの真似をしているのだ。
「帰って、帰ってよ……!! 開けられないんだから!!」
鬼灯がベニヤ板の向こう側まで聞こえるように叫べば、
「ちっ」
聞こえるように舌打ちをして、それきりベニヤ板を引っ掻く音もユーイルの声が聞こえることもなかった。
安堵したようにその場へ座り込めば、永遠子が「大丈夫?」と見上げてくる。
生きた心地がしなかった。ベニヤ板がなければ、鬼灯は今頃どうなっていただろうか。
「おい、喧しいぞ。何の騒ぎだ」
「あ……」
壁から顔を突き出して怪訝な表情をする銀髪赤眼の男子生徒――ユーイル・エネンは、座り込む鬼灯を発見すると「んん?」と首を傾げる。
「どうした、鬼灯よ。床の座り心地は悪いぞ」
「ユーイル……黒海先生も呼んでくれる……?」
「音弥もか? 一体何があった」
ユーイルの質問に対して、鬼灯はベニヤ板を指で示しながら告げた。
「貴方の声がした」




