第6話【幽霊交番のその先に】
ユーイルが銀色のナイフを振り翳した瞬間、ギョロリとした眼球の警察官モドキは扉の隙間に引っ込んだ。
銀色ナイフの先端は扉の表面を掠り、嫌な音が耳朶に触れる。
扉の向こうではしばらく人影がゆらゆらと揺れていたが、やがて見えなくなってしまった。奥に引っ込んだのだろうか?
交番の奥に繋がる扉を睨みつけて、ユーイルは舌打ちをした。
「逃がさんぞ」
何が何でも食事を逃すつもりはないらしい。
ユーイルは取れかかったドアノブを握ると、幽霊交番の奥に繋がる扉を開いた。
蝶番が軋む音、それから生温い風が鬼灯の頬を撫でた。風に混じって埃っぽい臭いがするのは、この交番がすでに廃墟だからか。
ギィィィィィー……。
交番の奥は薄暗い。
月明かりすら届くことはない。
鬼灯は懐中電灯を持たなかったことを後悔していた。そうすれば、幽霊交番の奥を調べるのに使えたはずなのに。
「ふむ、この奥にいるようだな」
銀色のナイフを軽く弄びながら、ユーイルは遠慮のない足取りで扉の向こう側に足を踏み入れる。
「ちょっと、ユーイル」
「オレが心配ならオマエもついてくればいいだろう、鬼灯よ」
肩越しに振り返り、銀髪赤眼の男子生徒は楽しそうに笑って言った。
「幾度となく怖い目に遭っているではないか。今更、何をそんなに怯える必要がある?」
「……分かったわよ」
鬼灯もユーイルの背中を追いかけるようにして、幽霊交番の奥に足を踏み込んだ。
はあ。
生温かい吐息が耳元にかかる。
「ひッ」
慌てて鬼灯が振り返ると、ほんの一瞬だけ人間の姿のような何かが見えた。
それはすぐに闇の中に引っ込んでしまったが、若い警察官のような様相をしていたように見える。ギョロリとした黒く塗り潰された状態の眼球が、鬼灯を見ていた気がしたのだ。
ユーイルは「完全に遊ばれているなぁ」と他人事のような口振りで言い、
「随分と相手にされていなかったから、オレたちの存在が嬉しいのだろうなぁ」
――これから食われるのになぁ。
ユーイルの言う通りだった。
幽霊交番に居座る警察官モドキは、もう何年も月無町の住人から相手にされてこなかった。そもそも明かりがついていると認識できた人間は、鬼灯以外に存在するのだろうか。
そしてこれから、幽霊交番に居座る幽霊はユーイル・エネンに食べられてしまう。彼に目をつけられた時点で、もうそうなる運命だったのだ。
バタバタバタバタッ。
鬼灯のすぐ横を、足音が通り過ぎていく。
「ユーイル……」
「そら、鬼灯よ」
扉を潜ってから、すぐにその扉は見えた。
「幽霊交番の最奥だ」
短い廊下は唐突に終わりを迎え、その先にはまた別の扉が待ち構えていた。
交番に勤務する警察官が休憩する為の部屋だろうが、周囲が光さえ認識できないほどの闇に包まれているにも関わらず、その扉だけが闇の中に浮かび上がっているようだった。恐ろしいことこの上ない。
ユーイルが扉を開けようとすれば、
ばぁん!!
唐突に扉の向こう側で、扉そのものをぶん殴る音が鬼灯の耳を劈く。
嵌め込まれた磨りガラスの先に、誰かが立っていた。
扉に手のひらをつけて、ユーイルと鬼灯を確認するように顔を近づけている。黒く塗り潰された二つの眼球が、じっとこちらの様子を窺っていた。
「楽しいか?」
ユーイルは銀色のナイフを扉の向こうに立つ幽霊に突きつけ、
「楽しいだろうなぁ。オマエを認識できる存在が、ここに二人もいる」
カクンと首を傾げたユーイルは、
「いい加減に諦めたらどうだ? そろそろオレも腹が減ってきたところだから、短気になっているぞ」
扉の向こうに立つ幽霊は、ゆらゆらと頭を揺らすばかりだ。
否定にも肯定にも見えない行動を示す幽霊は、扉の前から姿を消す。だが扉の向こうから、足を引き摺るような音だけは聞こえてきた。
ずる、ずる。
ずる。
ずる、ずり、ずり。
ずり、ずる。
部屋の中を歩き回っているのか、時折、音が大きくなったら小さくなったりする。扉の向こう側で影が行ったり来たりを繰り返す。
しばらく幽霊が無駄な悪あがきをしている様を楽しんでから、ユーイルは扉のドアノブを掴んだ。
先程よりもしっかりとした作りになっているドアノブを捻り、扉を開ける。
ギィィィィィー……。
蝶番が軋み、六畳の和室がお目見えする。
中央にはちゃぶ台、部屋の隅には布団の山が積まれている。交番が廃墟になったその時の状態で保存されているものの、家具や部屋の状態は劣化している。
畳は埃を被り、ちゃぶ台にも山のように積まれた埃のせいで白くなっている。布団も黄ばみが激しく、ボロボロの状態だ。
警察官の格好をした誰かは、背筋を曲げて足を引き摺りながら部屋中を歩き回っていた。
ずり、ずりずり、ずりぃ。
ずり、ずりずり、ずり。
ずる、ずる、ずる。
怪我をしたのか、それ以外なのか。
やたら長い前髪の隙間から、虚空をぼんやりと見つめる真っ黒な双眸。だらりと開いた口から涎が垂れ、徘徊する不審者にも見える。
幽霊交番の主は、ふと唐突に足を止めた。
「あ、ぁ、あ、あー」
耳を塞ぎたくなる悍ましい声だった。
懸命に話しかけているのか、ただの嘲りなのか。
朽ちた警察官の制服に身を包むそれは、扉を開くユーイルに向かって手を伸ばす。
「ほう、自分からやってくるとは殊勝なことだ」
ユーイルはニヤリと笑い、警察官の格好をした幽霊の手を取る。
「ならば、その期待に応えてやろうではないか」
敢えてユーイルは警察官モドキの手を取ると、その手のひらに銀色のナイフを突き立てた。
警察官モドキのだらしなく開いた口から、言葉にならない悲鳴が迸る。
黒い靄を噴き出す手を慌てて引っ込めようとしたが、ユーイルがそれを阻止して警察官の腕を掴んだ。警察官の制服を着ているのに相手は貧弱なのか、ユーイルに簡単に押し倒されてしまう。
埃っぽい畳の上に押し付けられ、ユーイルに馬乗りになられた警察官モドキは食べられないように抵抗する。
「あー、あー」
「よせよせ、そんなに暴れるな」
ユーイルはニタリと笑って、
「活きがいいから、余計に食欲をそそられるだろうに」
――い た だ き ま す。




