第5話【廃墟交番】
午前零時を回った頃合い、鬼灯は交番の前にいた。
月無町交番と銘打たれた何の変哲もない交番は、夜勤の警察官が街の安全を守る為に今日も明かりを煌々と落とす。薄暗い道の途中に現れた楽園だ。
深夜を徘徊する老人なんかは、この交番に吸い寄せられるのではないだろうか。だだっ広いだけで何もない暗い道の途中にこんな交番が現れれば、誰だって安心して近寄ってしまうかもしれない。
交番を見上げる鬼灯に、ついてきた銀髪赤眼の男子生徒――ユーイル・エネンは「どうした」と言う。
「何か悪いものでもあったか?」
「……本当にこの交番は嫌なものなのかと思って」
鬼灯は明かりを落とす無人の交番をじっと見つめたまま、
「だって、昨日の人は凄くいい人だったもの」
「幽霊交番に囚われているかもしれない、と?」
ユーイルの赤い瞳が眇められ、
「鬼灯よ、オマエは甘いな」
「甘い?」
「擬似餌ということもある。相手を信用させる為に、幽霊が親切な雰囲気を装うのだ」
ユーイルの意見は厳しいものだった。それと同時に納得できるものだった。
同じ幽霊として、幽霊交番に何か感じるものがあるのだろう。ユーイルは鬼灯のように幽霊交番にいた警察官を、単に囚われている可哀想な一般人だとは言わなかった。
なるほど、擬似餌も考えられる。確実に相手を捕らえる為に、幽霊が優しくて気弱そうな雰囲気を偽るのか。昨日の警察官みたいに。
「あの、すみません」
「ッ!?」
不意に背後から声をかけられた。
振り向いた先にいたのは、腰の曲がった老婆だ。
夜の散歩でもしているのか、それとも単に運動でもしているのか。歩きやすそうなスニーカーと明るいピンクのジャージ姿で鬼灯の背後に立っていた。
老婆は不思議そうに首を傾げると、
「そこの交番、ないですよ」
「え」
「潰れたんですよ、随分と前に。撤去が出来ないみたいで、いつまでも廃墟みたいに残っているんですよ」
鬼灯は交番を見やる。
すでに交番の明かりは落ちていて、真っ暗な状態となっていた。
壁は剥がれ落ち、リノリウムの床にはゴミや埃が散乱し、事務机の上には古びた日誌が開かれたまま放置されている。昨日見たばかりの光景が、無残なものに早変わりしていた。
おかしい。
確かにここには交番があったはずだ。
やはりあれは幽霊交番の名前に相応しい、幻の交番なのだ。
「心霊スポット巡りも程々にしなさいね」
老婆は親切心から鬼灯にそう告げて、その場から歩き去っていった。
廃墟と化した交番の前に、鬼灯は呆然と立ち尽くす。
これほど荒れていれば、あの若い警察官は一体どうなったのだろう。異動になったか、または本当に擬似餌なのか。
生きて、いないのだろうか。
「鬼灯よ、諦めろ」
ユーイルがポンと鬼灯の肩を叩くと、
「奴はオレに食われる運命なのだ。それ以上にない」
「…………そうなんだね」
やはり、あの若い警察官は幽霊なのだ。
現実を見ると、鬼灯は悲しくなった。
あれは鬼灯を騙す為の演技だったのか。幽霊とは狡いものだ。
「呼びかけてみるか? まともに応じるか分からんが」
「…………」
鬼灯は真っ暗になった交番の奥を見据えて、
「あの」
呼びかけてみる。
「すいません」
その奥に潜むものは何か。
「あの、すみません」
廃墟と化した交番の奥に隠れているのは、何者か。
「あの、すみませーん」
呼びかけてからしばらくして、応答するように交番の奥の扉が開いた。
キィ。
隙間から覗くのは、警察官の格好をした何かだった。
ギョロリとした眼球を、交番の前に立つ鬼灯に向けてくる。交番の外側に立っている鬼灯は、果たして相手からどのように見えているのだろうか。
扉の隙間から顔を覗かせる警察官モドキは、節くれだった指先を戸の表面に突き立てると、爪の剥がれ落ちた指先で引っ掻く。
かり、かりかり、かり。
かりかり、がり。
かり、がりがり。
がり、がり、がり。
それはまるで、鬼灯の呼びかけに対する応答のようだ。
「ほら見ろ、鬼灯よ。あれがオマエの言う優しい警察官に見えるか?」
「見えない」
「即答ではないか」
ユーイルは苦笑し、
「これが幽霊交番の正体だ。あれが殉職した警察官なのか、それとも警察官の格好を真似ただけのただの阿呆なのか分からん。ただ、あの阿呆が居座っているおかげで騙されてしまう連中がいくらかいるようだな」
それは、昨日の鬼灯のように。
外から聞こえてきた男性にも女性にも受け取れる曖昧な声は、本当の世界から誰かが呼びかけてきてくれたのだろう。廃墟に堂々とした足取りで立ち入る鬼灯を心配してくれたのだろうか。
あの夜、確かに鬼灯は騙された。あの賑やかな交番はもうすでになく、優しそうで気弱な警察官の姿もあのように無残な姿と成り果てた。幽霊交番にまんまとしてやられたのだ。
ユーイルは銀色のナイフを手で弄びながら、荒れ果てた様子の交番内に足を踏み入れる。
「さて、ようやく食事の時間だ。この時をどれほど待ち侘びていたことか、噂の真相も確かめることが出来たし一石二鳥だ」
いきいきとした表情で、扉の隙間から顔を覗かせる警察官モドキに歩み寄るユーイルは、
「い た だ き ま す」
食事の開始を告げる挨拶と共に、警察官モドキのギョロリと蠢く眼球に銀色のナイフを突き立てた。




