第4話【おかけになった電話番号は、現在使われておりません】
「あの」
夜の闇の向こう側から聞こえたその声は、女性にも男性にも受け取れるものだった。
いいや、むしろ高さと低さが入り混じった酷く曖昧な声である。
聞いているだけで不安になるような、どこまでも恐ろしい声。それなのに、肝心の声の主は見えないのだ。
――声はすぐ近くで聞こえてくるのに。
「ひいいッ」
若い警察官は慌てた様子で交番の奥に引っ込んだ。
受話器を片手に握りしめて立ち尽くす鬼灯は、後ろを振り向けずにいる。
本能は「振り向け」と悪魔のようなことを囁いてくるのに、理性が変に働いて「振り向くな」と言っている。まるで石像みたいに身体が動かないのだ。
金縛りに似た状態の鬼灯に、さらに性別が曖昧になったその声が呼びかけてくる。
「すみません」
振り向けない。
「あの、すみません」
振り向いてはいけない。
「あの」
ギュッと固く目を瞑り、鬼灯は受話器を握りしめた。
受話器は耳に押し当てたままだ。
だからこそ、その相手の酷く歪んだ声が受話器越しに耳へ滑り込んできた。
「――もシ、も、しィ?」
ひび割れた声、ぞっと怖気のするようなもの。
鬼灯の背筋が粟立ち、思わず受話器を投げ捨ててしまった。
耳障りな音が静謐に包まれた交番の内部に響き渡り、配線に繋がれた受話器がぶらぶらと所在なさげに揺れる。
心臓がうるさい、全力疾走をしたあとのようにドキドキと早鐘を打つ。
これほど恐怖を感じる場面などあっただろうか。いいや、何度も怖い目に遭ったはずなのに。
すると、天井付近を悠々と泳いでいたユーイルが、
「――おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
「ッ!!」
弾かれたように顔を上げれば、彼は唇に人差し指を押し当てて「静かに」と合図を送る。
鬼灯は頷いて、自分の口を手のひらで覆った。
呼吸も最小限にし、自分自身の存在感を徹底的に消す。「ここに自分はいないのだ」と言い聞かせる。
しばらく交番に「すみません」と呼びかけていた誰かの声は、
「チッ」
苛立ったような舌打ちを残して、それきり聞こえなくなった。
「……ユーイル」
「何だ、鬼灯よ」
「食べなくてよかったの?」
「食べなくてよかった」
ユーイルの赤い瞳は、交番の外側に向けられたままだ。
「今は腹も減っていないしな。またの機会にするさ」
天井付近を悠々と泳ぎ回っていたユーイルは、ストンとリノリウムの床に降り立った。それから交番の奥に備え付けられた扉を軽く叩き、中に隠れただろう警察官に呼びかける。
「オレたちは帰るぞ」
「え、あ、ちょっと」
「じゃあな」
ユーイルはとてもあっさりした態度で、月無町交番を立ち去っていく。
鬼灯も「失礼します」と扉の向こうに隠れてしまった若い警察官に呼びかけてから、慌ててユーイルの背中を追いかけた。
一体どうしてしまったのだろう。急に幽霊が噂となる幽霊交番に興味をなくすなんて。
☆
「ちょっと、ちょっとユーイル」
「何だ、鬼灯よ」
ユーイルは通りかかった電柱に張り付いていた髪の長い女性の幽霊を引っ掴むと、銀色のナイフで器用に解体しながら食事をしていた。「ふむ、塩気のある味だな」などといらん食レポも添えてくる。
先程まで興味津々だった幽霊交番に、幽霊が訪れた瞬間に興味が失せたような態度で立ち去ったのだ。幽霊交番の幽霊を食ってやるとばかりの気概を持っているようだったのに。
お腹がいっぱいだった、という訳ではなさそうだ。それなら電柱に張り付いていた女の幽霊を引っ掴んで歩きながら食べるという下品なことはしない。
鬼灯は暴れる女の幽霊を口の中に詰め込むユーイルに、
「ねえ、何で交番から急に出たの? 幽霊を食べるんでしょう?」
「そうだとも」
「じゃあ、あの幽霊を食べて警察の人を助けてあげればよかったじゃない」
「阿呆め、オレは善意で人助けなどしない。クソ食らえだ」
ユーイルは女の幽霊をあっさり完食すると、
「鬼灯よ、さては幽霊交番の噂の真相を知らんな?」
「え、し、知らないけど……」
「だろうなぁ。幽霊交番というものも初耳のようだったしなぁ」
ニヤリと笑ったユーイルは、
「それなら真相を教えてやろうではないか、鬼灯よ。オマエのすまーとふぉんとやらを取り出せ」
「何でよ」
「電話をかけるのだ」
鬼灯は自分の携帯電話を取り出すと、広々とした液晶画面に指を滑らせてロックを解除する。それから通話をする為の画面を呼び出して、
「では言うぞ。番号は――」
ユーイルが諳んじたのは、どこにでもある普通の電話番号だった。
何の疑いもなく鬼灯はその番号を打ち込んでいき、それから耳に携帯電話を押し当てる。
呼び出し音はなく、すぐに合成音声によるアナウンスが流れ始めた。
おかけになった電話番号は、現在使われておりません。
どこにでもあるアナウンスだ。
「繋がらないわよ」
「何と言っていた?」
「『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』って」
「おかしいなぁ?」
ユーイルはわざとらしく首を傾げると、
「その電話番号は、月無町交番のものだ」
「え……」
それはおかしい。
だって、月無町には交番が一つだけしかないのだ。あの交番しかないはずなのに、どうして繋がらないのか。ユーイルが冗談を言っているとは考えにくい。
合成音声のアナウンスが流れる携帯電話を掴んだまま呆然と立ち尽くす鬼灯に、ユーイルはやたら楽しそうに笑いながら言った。
「では、あの交番は一体何なんだろうなぁ?」




