第3話【幽霊の出る噂】
「知ってるかい? この交番に幽霊が訪れることを……」
冷蔵庫に常備してあるという麦茶を出され、鬼灯が若い警察官から聞いたのはやはりそんな話題だった。
「昨日のことさ、しつこいぐらいに交番の電話が鳴ったんだ。最初は悪戯電話の類かと思ったけれど……」
沈んだ表情で、若い警察官は続けた。
「その電話から聞こえたのは足音で……でも不思議と息遣いや話し声は聞こえてこないんだ。普通は歩きながらだと呼吸ぐらいは聞こえてもおかしくないだろう?」
「まあ、そうですね」
鬼灯も頷かざるを得なかった。
実際にその電話を聞いたことはないので、確証を持って言うことは出来ない。
でもあってもおかしくないと思う。ここは月無町、人間との衝突よりも幽霊による事件の被害が多い町なのだ。
麦茶が飲めないので再び空中で背泳ぎをするユーイルは、
「で、その幽霊は交番にやってきたのか?」
「え」
「やってきたのか、と聞いている。来ていないのか?」
興味津々といった風に若い警察官へ詰め寄るユーイルに、相手は沈んだ声音で答えた。
「じ、実は……分からないんだ」
「分からないだと?」
「恥ずかしながら記憶に残っていなくて。その部分だけ記憶が残っていないんだ」
若い警察官は申し訳なさそうに言う。
これは仕方がないと思う。あまりのショックで記憶をなくしてもおかしくないだろう。
それどころか、もう夜勤なんて出来ない可能性も高いのだ。あの時の場面など思い出さない方がいいに決まっている。
ユーイルは「つまらんなぁ」と背泳ぎしながら言い、
「まあ、この交番で待っていればノコノコと食事が自らやってくるだろうか。それなら嬉しい限りだがな」
「ちょっと、ユーイル。警察の人に迷惑がかかるでしょ」
「い、いや……誰かがいてくれた方が安心するよ」
若い警察官の顔色は、驚くほど悪かった。今にも気絶してしまいそうなぐらいだ。
さすがの鬼灯も、こんな顔色の悪い警察官を一人で放置して帰ることは出来なかった。ならばここに永遠子でも呼べばよかっただろうか。
今からでも遅くないから自宅に電話をかけよう、と鬼灯が携帯を取り出した直後のことだ。
じりりりりりりりりーん、じりりりりりりりーん。
じりりりりりりりりーん、じりりりりりりりーん。
静かな交番内に、電話の音が響き渡る。
あまりにもうるさいその音に、若い警察官があからさまに怯える素振りを見せた。椅子から跳ね上がって「ひいいいッ」と上擦った悲鳴を漏らす。
鬼灯もさすがに急な着信音には驚いた。これは誰だって驚くはずだ。唯一、驚かなかった人物と言えばすでに死んで幽霊になっているユーイルぐらいだろう。
ユーイルは赤い瞳で未だに着信音を響かせる電話を見つめると、
「出ないのか?」
「ひ、ひぃ、ひいいいッ」
若い警察官は耳を塞いで使い物にならない。
情けない姿を一瞥したユーイルは、リノリウムの床の上に降り立つと電話に手を伸ばす。
普通は一般人が電話を取ってはいけない。もし本当の通報だったら責任が取れないからだ。
鬼灯は「ユーイル、止めなよ」と止めるが、
「もし本当の通報だったら、すぐにそこの警察官へ変わるさ。オレとてそれぐらいの常識はある」
「何かの罪に問われたらどうするの」
「幽霊を罪に問えるなら問うてほしいものだなぁ」
ユーイルは笑いながら、ついに電話を取ってしまった。
「もしもし」
通話に応じてから、ユーイルはニヤリと笑う。それから鬼灯に手招きしたと思えば、受話器を押し付けてきたのだ。
「聞いてみろ」
「ええー……」
鬼灯は促されるままに受話器へ耳を当てると、
「もしもし」
ざりざり、ざり、ざり。
ざりざりざり、ざり。
ざり、ざり。
ざり。
足音が、した。
「足音がする」
「よく聞け、鬼灯よ。足音以外に音は聞こえるか?」
「え?」
鬼灯は受話器に耳を当てて、もう一度ちゃんと音を聞いてみた。
ざりざり、ざりざり。
ざりざり、ざり。
ざり、ざりざり。
ざり、ざり。
歩いている音しか聞こえない。
呼吸の音も、その他の雑音も、何もかもだ。
ただ歩く音だけが受話器から漏れ出てくる。足音だけを録音して公衆電話から悪戯を仕掛けてくるとは考えにくい。
これはやはり、
「この交番に訪れるだろうな」
ユーイルは真っ暗な交番の入り口を見つめて、
「食事が自らやってきてくれるとは嬉しい限りだな。早く食べたいものだ」
それから数秒後、今度は交番の外から足音が聞こえてきた。
鬼灯が受話器で聞いたものと同じだ。
コンクリートを擦るような、それでいて土を踏むような音が。
ざりざり、ざり。
ざり、ざり。
ざり。
鬼灯は受話器を耳に当てたまま、
「ユーイル」
「何だ、鬼灯よ」
そのやり取りは、受話器からも聞こえてきた。
ざり、ざり、――ユーイル――ざり。
ざり、――何だ、鬼灯よ――ざり、ざり。
歩く音に混じって、やり取りが聞こえてきた。
もしかして、この電話の主は交番に近づいてきているのだろうか?
電話を繋げたまま、この交番を訪れようとしているのか?
「あのー、すみませーん」
ついに足音は交番の前で途切れ、聞き覚えのない女性にも男性にも聞こえる声が耳朶に触れた。




