第1話【もしもし】
月無町には交番がある。
周囲を山に囲まれた田舎町の交番など、たかが知れている。
交代で勤務している警察官がいるのだが、何故か揃って夜勤の仕事を拒否するらしい。この交番に配属された警察官は、もう何人も夜勤の仕事を経験してから辞めているようだ。
「ふあぁ」
その話を全く信用していない度胸のある警察官は、退屈そうに事務机へ向かっていた。
月無町は驚くほど住人が少ない、少ないので事件も起きない。
深夜帯など通報なんて一つもなく、通りがかる人間さえいない。毎日が退屈な仕事である。
「これで給料が貰えるんだから楽だよな」
不謹慎な台詞である。この場に警察官の先輩がいれば、間違いなく雷が落とされている。
警察官は眠気を紛らわせる為に欠伸をし、そろそろ日誌を書くかとノートを開く。
別に書くことなどない。事件は起きないのだし、誰も交番を訪ねてこないのだから、仕事など皆無だ。こんなところにいて、本当に出世できるのだろうか。
そんな時だ。
じりりりりりりーん、じりりりりりりりーん。
じりりりりりりーん、じりりりりりりりーん。
静かな闇夜を引き裂くように、交番に設置された電話が鳴り響く。
「うわッ!?」
警察官は驚いたあまり、ボールペンを投げ出してしまった。
リノリウムの床に当たって音を立てるボールペン。
まあどうせあとで拾えばいい、安物のボールペンを拾う人物などいないだろう。
それよりも、先に電話の対応である。
「誰だよ、こんな夜中に……」
ぶつくさと文句を言いながら、警察官は電話の受話器を取った。
「はい、月無町交番です」
いつものように応じると、耳に当てた受話器から音のようなものが聞こえた。
ざり、ざり。
ざりざり、ざり。
ざりざり。
ざり。
歩いているような音だろうか、コンクリートを踏みしめるような音が警察官の鼓膜を揺らす。
「もしもし? 悪戯なら切りますよ?」
怪しんだ警察官が呼びかける。
それでも相手は何も言わない。絶えず足音が聞こえてくるだけだ。
不思議なことに、息遣いも何も聞こえてこないのだが。
「はあー……切りますね」
警察官は一応そうやって宣告してから、受話器を元の位置に戻した。
あの電話は何だったのだろう?
本当に悪戯だったのだろうか。それなら警察官を舐めすぎである。次にかかってきた時には注意をしなければ。
苛立ったように息を吐いた警察官は日誌に無言電話の件を書いておこうとするが、ボールペンを落としてしまったことに気づく。
「拾うの面倒臭え……」
しかし、ボールペンはあの一本しかない。
仕方なしにボールペンを拾いに行くと、目当てのボールペンはベンチの下に転がっていた。わざわざ屈んでボールペンを拾う。
腕を伸ばして落ちたボールペンを拾った時、見計ったように再び電話が鳴る。
じりりりりりりーん、じりりりりりりーん。
警察官はジロリと電話を睨みつけた。
先程と同じく悪戯だろうか。
本当に事件なら急行しなければならないが、もし悪戯なら説教をしてやろう。先程の恨みも若干はある。
警察官は面倒臭そうに受話器を取り、しかし不機嫌さを相手に悟られないような声で応じる。
「はい、月無町交番です」
聞こえてきたのは、やはりあの音だ。
ざりざり、ざり。
ざり、ざり。
ざりざりざり。
ざり、ざりざり。
ざり。
ざり。
歩いているような音だけが聞こえてくる。
やはり悪戯で間違いなさそうだ。
警察官を相手に悪戯電話を仕掛けてくるとは、いい度胸である。
「おい、交番に悪戯電話は止めろ。本当に必要な通報が受けられなく」
なる、という警察官の言葉は最後まで紡がれなかった。
も、シも、しィ?
途切れ途切れに聞こえてくる「もしもし」という言葉。
酷く歪んで聞こえるそれは、明らかにまずい雰囲気のある声だ。
低くなったり、高くなったり、聞く相手を不安に思わせる言葉である。
「ひッ」
思わず警察官は受話器を投げ出していた。
ガツン!!
受話器が事務机に当たって、嫌な音を立てる。
あの声は一体何だった?
人間ではないような雰囲気がしたが、まさか本当に人間ではないのか?
「いいや、気のせい気のせい……」
警察官は自分に言い聞かせて、投げ出してしまった受話器を元の位置に戻す。すでに電話は切れていて、ぷーぷーという音しか聞こえてこなかった。
先程の不気味な声を忘れることにして、警察官は改めて日誌の作業に戻る。
あの無言電話の件は書くべきだろうか。もしかして、歴代の警察官が早々に夜勤の仕事を嫌がるのはこれが原因か?
ボールペンを握る手が震える。字が震えて上手く書けない。このままだと先輩から笑われてしまう。
ざり、ざり。
ざりざり、ざり。
ざりざり、ざりざり。
ざり、ざり。
ざり。
誰かの足音。
受話器から聞こえてきた、あの音に似ている。
コンクリートのような、砂を踏むような足音が、交番の外から。
「すみません」
交番の前で足音は途切れ、それから男性のような、女性のようにも聞こえる声が警察官の耳朶に触れる。
「あ、はい」
警察官は顔を上げた。
「道を尋ねいのですが」
「はい、ただいま」
地図を本棚から取り出して、警察官は交番の入り口まで歩いていく。
だが、あと少しで交番の入り口に到達するところで足を止めた。
足しか見えないのだ、交番の入り口には足しか存在しない。日本人だけではなく、外国人でも潜れるように設計された建物のはずなのに、何故、目の前には足だけが伸びている?
「あのォ」
ゆっくりと、
「すみませェん」
巨大な顔が、交番の中を覗き込む。
「も、シも、しィ?」
あの時、受話器から聞こえてきた声がした。
――それからの記憶がない。




