第1話【森の沼】
月無町の果てには、深い森がある。
周囲を山に囲まれた田舎町だからか、森があるのはさほど気にならない。
森はあの世の入り口とも呼ばれているので、この世とあの世の境界線とも認識できるだろうか。その辺りはひどく曖昧だ。
「じゃじゃーん、本日はこの『月無の森』にある沼について調査しようと思いまーす」
夜も深くなった頃合い、一台のワゴン車が深い森の手前に停まっていた。
スマホのカメラを片手に、夜の闇に包まれた森の周辺を撮影する若い女は「こちらが森の入り口でーす」などと言う。
動画サイトに投稿する為の動画撮影をしているのだ。彼女のチャンネルは主に心霊スポット巡りをする動画を投稿しており、そこで少しばかり危険なことにも挑戦する迷惑な一面も持っていた。
その場に祀られた神々や幽霊の怒りを買う行動は数え切れないほどやらかし、だが彼女はケロリとした態度で次なる心霊スポット巡りの場所として月無町にやってきたのだ。
「この町ってぇ、本当にやばいって聞きますよね!! 何でも幽霊が日常的に町の人へ悪さをするとか、色々!! これは期待大かも!?」
スマホのカメラにキメ顔で告げてから、少女は一度カメラを止めた。
「ねえ、これでいいかな?」
「いいんじゃね?」
運転席に座っていた若い男が、退屈そうな口調で言う。
「本当に入るのかよ」
「入るわよ。どうせ今回も嘘っぱちでしょ」
「でも月無町は本当にやばいって聞くぞ」
少女はスマホで撮影したばかりの動画をチェックしながら、男の言葉を鼻で笑う。
「何がやばいのよ。幽霊なんて本当にいると思ってる訳?」
「いるとかいないとか、そういう問題じゃなくて」
「私はね、動画の再生数が伸びないことの方が怖いわよ」
撮影したばかりの動画の確認をし終えた少女は、運転席に座る男に「ほら行くわよ」と言ってスマホを手渡した。
すでに画面は動画撮影の為のアプリが立ち上がっている状態だ。
少女がスマホを男に手渡したということは、それで自分を撮影しろと暗に告げているのだろう。スマホの代わりに少女は懐中電灯を後部座席から引っ張り出して、軽やかな足取りで森の入り口に向かう。
「はあー……」
深々とため息を吐いた運転席の男は、動画撮影の開始ボタンを指先で触れてからワゴン車を降りる。
少女は暗い森の中を懐中電灯で照らしながら、怖がる素振りなど見せずにズンズンと突き進んでいく。「怖いですねぇ」などとスマホのカメラを構える男へ振り返りながら、転ばないように足元を照らして森の奥を目指す。
枯葉が地面を覆い、隠れた枝を踏みつけて静かな森にやたら大きな音が鳴る。
ぱきぱき、ぱき。
ぱきぱき、ぱき。
がさがさ、がさがさ。
がさがさ、がさがさ。
二人分の足音が、暗い森の中に落ちる。
見たところ、幽霊が出るような気配はない。
人の姿も見かけないし、地蔵や神社がある訳でもない。何かが奉られている様子もない。心霊スポットとして成り立っているのかさえ怪しい場所だ。
少女は「本当に月無町って幽霊が出るんですかねぇ」などと軽い口調で言い、
「おや?」
ふと、少女は足を止める。
森を真っ直ぐに歩いていくと、深緑色の何かが横たわっていた。
沼のようだ。森の中にぽっかりと開けた場所があり、そこが沼地となっているのだ。
「沼ですかねぇ、ここは」
懐中電灯を動かして周囲を見渡してみるが、汚い沼以外に何もない。
「怖いですねぇ、何だか雰囲気が――」
少女がスマホを構える男へ振り返ると、
ぱしゃん。
背後にある沼から、水を打つ音が聞こえてきた。
弾かれたように沼へ視線をやれば、深緑色をした沼の中心に波紋が生まれていた。何かが投げ込まれたのだろうか。
この場には少女と撮影係である男以外の人の気配はないはずなのに、一体誰が?
少女はスマホを構える男を睨みつけると、
「ちょっと、何か投げ入れたでしょ!!」
「投げ入れてねえよ」
男はスマホの動画を続けながら、
「大体、近くに石ころ一つだって落ちてねえだろ」
「じゃあ誰が……」
少女が懐中電灯を深緑色の沼に向けると、
ぱしゃん。
ぱしゃん、ぱしゃ。
深緑色の沼に、真っ白な腕が伸びている。
ゆらゆらと揺れる白い腕は、深緑色の沼の水面に何度も叩きつけられる。
それはまるで遊んでいるかのような雰囲気がある。水を掬って、放って、子供のようにぱしゃぱしゃと。
「あ、ぁ」
少女は思わず懐中電灯を落としてしまう。
「ね、ねえ、ちょっと!! あれ!! ねえ!!」
「…………」
スマホを構えていた若い男にしがみつく少女だが、相手の反応がないことに気づく。
スマホのライトに照らされる男の顔は、妙に引き攣っていた。
深緑色の沼に視線を固定したまま、ガタガタと唇を震わせている。少女が「ね、ねえ……?」とおそるおそる呼びかければ、小刻みに揺れる指先を沼に向けた。
あそこには白い腕が伸びているのに、これ以上に何があるのか。
「…………」
少女が振り返った先にあったのは、真っ白い布を被った誰かだった。
顔はよく見えない。
目深に被ったフードから真っ白いボサボサの髪が零れ、顔の部分を覆い隠している。袖から伸びる枯れ枝のような細い手をダラリと垂らして、沼地の上に浮いている。
――浮いている?
「ひッ」
少女は引き攣った悲鳴を漏らして、沼地から距離を取る。
沼地に浮かぶ真っ白な誰かは、ダラリと垂れた枯れ枝のような腕を持ち上げて上下に動かす。
その動きは、まるで少女と男に手招きするかのように。
「あ、ぁ、やだ、やだ……」
少女の足が勝手に動く。
沼地から逃げる訳ではなく、沼地に入り込むように。
買ったばかりの可愛いスニーカーが深緑色の沼地に沈んで、靴下まで水が泥水が沈み込んでくる。
「いや、やだ、何で何で、やだぁ!!」
悲鳴を上げても、身体は言うことを聞かない。
ずぶずぶと沼を掻き分けて進んでいく少女は、自分の意思に反して動く身体に「止まってよ!!」と叫ぶ。
とうとう沼の深くまで到達してしまい、少女は沼地の中に身体を沈めてしまった。
「あ……ぁ」
その様子を撮影していた男は、スマホを放り出してその場から逃げる。
あの白い誰かに招かれたのは、同行者である少女だけだった。
かろうじてあの誰かに招かれずに済んだ男は、少女を見捨てて逃げるしかなかった。
「だから、だからやばいって言ったのに、だから!!」
男は涙を流しながら懸命に森の中を駆け抜け、とうとう夜の闇に支配された森を飛び出した。
前に停めていたワゴン車に飛び乗り、エンジンをかける。
いつもは普通にかかっていたエンジンも何故かつかず、空回りするばかりだ。ホラー映画でよくある展開だ。
「つけよ、つけってば!!」
男が半狂乱になりながら叫ぶと、
コツコツ。
車の窓が叩かれる。
男の心臓が音を立てて跳ねた。
まさか、あの沼地にいた白い誰かが追ってきたのか。
ゆっくりと誰もいない助手席に視線をやれば、
「おや、どうした。何か怖いものでも見たような顔をして」
乗せた覚えのない銀髪赤眼の男子高校生が、何故か男の隣に座っていた。
「ぎゃああああああああああああああああ!?!!」
悲鳴を上げてから、男の記憶は途切れてしまっている。




