第6話【三面鏡の女】
黒く塗り潰された扉の向こう側に足を踏み入れれば、そこに家財道具などは一切ない。
存在するのは、居間と呼べる空間にポツンと置かれた三面鏡だけだ。
この部屋を借りる際に大家から「三面鏡には触らず、動かさないでほしい」と要求された。その見返りとして家賃は無料同然となったのだ。
思えば、これが全ての原因かもしれない。
「あ」
鬼灯は呟く。
誰かの足音がする。
まるで引き摺るような、不気味な足音が。
ずる……ずる……。
ずる……ずる……。
暗い部屋の奥から、ボロボロの衣服を身につけた女が姿を見せる。
ずる……ずる……。
ずる……ずる……。
あらぬ方向に折れ曲がった足を懸命に動かして、三面鏡の前まで足を引き摺ってくる。
それから彼女は三面鏡の椅子に腰掛けた。
磨き抜かれた三面鏡が、前に座る女の顔を映し出す。
じー。
目も鼻も口元さえ分からない、全てが擦り切れてしまった不気味なのっぺらぼう。いいや、妖怪の方がまだ可愛いと思えるほどだ。比べたらのっぺらぼうに失礼である。
「全ての元凶はあれか」
同じく三面鏡に座る女を眺めていた銀髪赤眼の男子生徒――ユーイル・エネンがそんなことを言う。
「確かに不気味な存在だな。顔もないのに鏡の前に立つなど」
「それをあの女の人にも言えるの?」
「言えるぞ、言ってこようか」
すでに幽霊となったユーイルに怖いものはないのか、彼は土足で部屋の中に入り込むと顔のない女の背後に立つ。
「――――、――、――――、――」
女は何か呟いている。
「きれい、じゃない。きれい、じゃない。きれい、じゃない」
何度も何度も。
「きれい、じゃない。きれい、じゃない。きれい、じゃない」
繰り返す。
綺麗じゃない、綺麗じゃないと。
掠れた声で、何度でも。
「ああ、綺麗ではないな」
ユーイルは女の頭を鷲掴みにすると、
「オマエは確かに綺麗ではない。見てみろ、目も鼻も口も切り裂かれて無残な姿になっている」
鬼灯はようやく三面鏡に映る女の顔を認識した。
目も鼻も、口元も。
まるで何かに引き裂かれたような痕跡があるものだった。それらしい穴、それらしい傷跡がのっぺりとした顔の上に刻み込まれているだけで、まるで小学生が好き勝手に作ったお面のようだ。
左右の耳元まで裂けた口から、女は金切声を迸らせる。
「ちゃんと話は最後まで聞け。オレは『綺麗ではない』と言ったのだ」
ユーイルは女の喉元に銀色のナイフを添えて、
「オマエはとても――美味しそうだ」
す、と滑らせる。
引き裂かれた女の喉元から真っ黒な靄が噴出する。
部屋に充満する真っ黒な靄など気にも留めず、ユーイルは引き攣った女の喉元に噛みついた。
ぶぢゅ、ぐちっ。
皮膚を噛み千切り、肉を咀嚼し。
ごりっ、ごきん。
骨を砕いて、嚥下して。
「ふぅむ、かつてここに住んでいた女の幽霊か。同棲していた男に捨てられ、三面鏡の前で顔を引き裂きながら死んだようだな」
女の幽霊を食らいながら冷静に分析するユーイルは、音もなく赤い双眸を眇める。
「だからと言って、鬼灯の家族を襲うのは間違っているだろうに。鬼灯は普通に暮らしていた、オマエとは何の関係もなく。あの女から家族を取り上げたら可哀想だろう」
左右に引き裂かれた口に銀色のナイフを突っ込み、さらに口元を乱暴に引き裂きながらユーイルは言う。
女は痛みのあまり暴れていたが、喉元に食らったユーイルの噛み跡が原因なのか派手に動けないでいる。
三面鏡に押さえつけられ、懸命にもがき苦しむ女はユーイルの赤い瞳に節くれだった指先を突っ込もうとするが。
「何だ、くれるのか。優しいな、オマエは」
伸ばされた指先に噛みつき、食い千切る。
女の引き裂かれた口から、雑音じみた絶叫が放たれた。
食われるのは嫌なのか、ユーイルを引き剥がしてまで逃げようと画策する。そんなことを許さないとばかりに女へ馬乗りになったユーイルは、綺麗に微笑んで両手を合わせた。
それが儀式だ、と言わんばかりに。
「い た だ き ま す」
メインディッシュの食事が始まる。
☆
「ふぅむ、デザートまで最高だ。かつてこの部屋に住んでいた連中が一気に味わえるとは、オマエの自宅は幽霊のフルコースなのだな」
「そう」
顔のない女を食ってから、ユーイルはさらに首を吊った男の幽霊と台所で自分の腕を傷つける女の幽霊もまとめて食べていた。それはもう美味しそうに。
幽霊のフルコースを堪能したユーイルは、心の底から満足そうだった。
あれだけたくさんの幽霊を食べたのだから、しばらくは文句を言ってこないだろう。いいのか悪いのか。
膨れた腹をさすったユーイルは、
「では鬼灯よ」
彼が示したのは三面鏡だ。
つるりとした鏡面が輝いて見える。
この暗い部屋を照らすかのように。
「あそこから出るぞ」
「出られるの?」
「当然だろう」
ポカンとする鬼灯に、ユーイルは常識だとばかりに言う。
「食べ終わったらさっさと立ち去るのがオレの流儀だ。いつまでもこんなところにいれば、また食べたくなるからな」
そう言って、ユーイルは鬼灯に手を差し伸べた。
「出るぞ、鬼灯。どうせ外でオマエの親友が待っているだろうからな」
「……そうね」
鬼灯はユーイルが差し出した手を掴み、輝く三面鏡へ足を踏み出す。
不思議と三面鏡の表面に爪先が吸い込まれ、気がつけばそこは鬼灯の自宅だった。
あの悍ましい世界から帰ってこれただけでも安心である。これでもう、あの顔のない怪物に悩まされることはなくなるだろう。




