第3話【おカえリ】
誰もいない帰り道を、鬼灯は顔のない怪物に腕を引かれて辿る。
助けは求められない。
呼んだって誰も来ないことは分かってる。
逃げる為に抗うことも面倒だ。このまま怪物に食われて人生を終わらせた方がいい。
(誰も悲しまない)
幽ヶ谷鬼灯という少女が消えたところで、誰も悲しまない。
生きていようが死んでいようが、この世界には関係ないのだ。
死んだと明かしたって「え、そんなのいた?」という反応が待っている。鬼灯など所詮はその程度の人間である。
毒々しい色合いの夕焼け空をぼんやり眺めていると、鬼灯の手を引く顔のない怪物たちが足を止めた。
「ィー、え」
「いー、ェ」
「い、え」
「ィー、エ」
顔面の凹凸がなくなるまで擦り切れた怪物は、ないはずの口を懸命に動かして「いえ」「いえ」と繰り返す。
そこにあったのは、確かに鬼灯の自宅だ。
台風が襲撃すれば吹き飛ばされそうな、ボロボロのアパートである。どこかの家が放置したらしい三輪車が物寂しげな空気を纏わせ、鉢植えは倒れて土が溢れてしまっていた。見れば見るほど不気味なアパートだら。
ただ、ここはこれほど嫌な場所だったか?
誰も住んでいる気配はないのに、誰かがこちらを見ている気がする。
誰もいないはずなのに、誰かが部屋にいる気がする。
言葉には出来ない恐怖心が込み上げてきて、鬼灯は今すぐにここから逃げたくなった。
「い、エ」
「いー、エ」
「ぃえ」
「ィェ」
歌うように何度も何度も同じ言葉を繰り返す怪物。
鬼灯の腕を引き、自宅の扉を乱暴に開いた。
建て付けの悪い扉が蝶番を軋ませながら開き、真っ暗な部屋が鬼灯の眼前に広がる。
ぎぃ、ぎぃ。
何かが目の前で揺れている。
ぎぃ、ぎしっ。
それは、人間の足で。
ぎぃー、ぎぃー……。
梁から縄を引っかけて、首を吊って揺れるそれは、名前の知らない男性で。
「――――!!」
自宅で見知らぬ人間が死んでいる様を目撃して、鬼灯は声なき悲鳴を上げた。
首を吊って死んだ男性の黄ばんだ眼球が、腰を抜かす鬼灯をじっと見つめている。
半開きになった唇は今にも動き出しそうな雰囲気があり、乾いた赤い舌が不気味な印象を与える。そこにいるのは人間か、すでに死んでいるのにも関わらずなおも首を吊り続ける幽霊か。
鬼灯の家に居座っているのは、首を吊った男だけではない。
とん、とん、とん。
リズミカルにまな板に置かれた何かを、包丁で刻む無表情な女性。目は虚ろであらぬ方向を見上げたまま、ひたすら何かを切り刻む。
そのまな板は赤く染まっていた。
肉のようなものを切っているようで、細かい肉片がまな板の上に転がる。
「――ぅ、おえッ」
思わず胃の中のものをぶち撒けてしまった。
まな板の上に転がっていた肉の正体は、女性自身の腕だ。
彼女は自らの腕をまな板の上に置き、利き手に握った包丁で腕を刻んでいる。骨も断ち切り、何度も何度も腕に叩きつけて、鮮血が噴き出してもなお彼女は手を止めない。
ぐじゅ、ぐじゅ。
ぐじゅ、ぐじゅ。
切れないことを疑問に思うかのように、女性が包丁を自分の腕に押し付ける。血が噴き出して、滲んで、血腥い嫌な臭いが鼻を突く。
「かぞく」
「か、ぞーく」
「かぞく」
「かぞく」
「かぞく」
「かぞく」
「かぞ、く」
顔のない怪物は、ゆらゆらと頭を揺らしながら鬼灯を自宅に引っ張り込もうとする。
「嫌……嫌!!」
鬼灯は懸命に抵抗しながら叫んだ。
「貴方たちは家族じゃない!! 家族でも何でもない!!」
目的も分からぬまま、鬼灯の近くにいるだけ。
「ただの幽霊!! 怪物!! ――頭のおかしな奴ら!!!!」
懸命に抵抗して、必死に抗って、鬼灯は顔のない怪物からついに自分の腕を取り戻せた。
解放された衝撃で地面に倒れ込むが、すぐに起き上がって鬼灯は不気味な世界を駆け出す。
こんなところにいたらおしまいだ。一刻も早く逃げ出さないと――せめて××高校までは!!
荷物も何もかも放り出して駆け出した鬼灯の背中に、顔のない怪物たちは口を揃えて言う。
「おかえり」
「おかえり」
それが果たして何の引き金となったのか。
真っ暗闇に塗り潰された鬼灯の自宅から、同じく黒い腕が伸びてくる。
意地でも鬼灯を自宅の中に引き摺り込もうとしているようだ。執念深い幽霊である。
そうまでして鬼灯を家に引き摺り込みたい理由は何だ?
「誰か……ッ」
走って逃げようとする鬼灯の脳裏に、彼の姿が過ぎる。
純銀の髪と夕焼け空を溶かし込んだかのような赤い双眸。
××高校の制服である黒い詰襟を着込み、特徴的な話し方をする、幽霊を食べる幽霊。
彼の名は、
「ユーイル!!」
「――――ようやく呼んだか。少し遅いのではないか?」
その名を呼べば、鬼灯の手を引くように誰かの手が伸びてくる。
毒々しい色合いの空を反射する純銀の髪と色鮮やかな赤い瞳、整った顔立ちは異性が放っておかないだろう。
埃一つない真っ黒な詰襟を身につけた男子生徒は、鬼灯を背中に庇うと逆手に握った銀色のナイフを横に薙ぐ。
鬼灯の自宅から伸びていた真っ黒い手が、ぶちりと千切れて地面に落ちる。まるで切られたばかりの蜥蜴の尻尾の如く土の上を跳ね回る黒い手だが、男子生徒に踏みつけられて大人しくなった。
「地面に落ちたものは食べない主義だが、生憎とオレは死んでいるのでな。腹は頑丈な方だ」
銀髪赤眼の男子生徒はのたうつ黒い手を掴むと、ほっそりとした指先から齧り始めた。
ぶちぶち、ごきごき。
めりめり、ごりこり。
――ごくん。
「ご ち そ う さ ま で し た」
口元を乱暴に拭う銀髪赤眼の男子生徒――ユーイル・エネンは、へたり込む鬼灯へと振り返る。
「こんなところで油を売っているなら、さっさと助けを求めればよかったろうに。全く、往生際の悪い娘だな」
「……今、貴方に助けを求めたことを後悔しているわ」
鬼灯は深々とため息を吐いた。
彼だけが鬼灯を救えるが、彼にだけは助けを求めたくなかった。
絶対に「恩返しが云々」と言ってくるに違いない。鬼灯の命は助かって、ユーイルは自分の求める美味しいご飯にありつけるのだから、それで許されないのだろうか。
ユーイルは「まあいい」と言い、
「では、次の食事はあれか? なかなか随分と――美味そうな匂いだ」
彼が視線をやった先には、顔のない怪物と鬼灯の自宅を占拠する首吊り男と包丁で自傷する女性がいる。彼らもきっと幽霊で、ユーイルの腹に収まることだろう。
ユーイルを警戒する顔のない怪物に向けて、銀髪赤眼の男子生徒は綺麗に微笑んで両手を合わせる。
それは、食事には絶対に必要な挨拶だ。
「い た だ き ま す」




