後編
「裕子、行っちゃったね。いいのかい?」
まるで彼女が立ち去るのを待っていたかのように、入れ違いで智樹に駆け寄ってきたのは、クラスメイトの琴美。艶々とした長い黒髪と、健康的に日焼けした肌が特徴的な少女だ。
クラス対抗リレーの走者の一人であり、「頼んだよ、智樹!」と言いながら彼にバトンを手渡したのが、この琴美だった。
「当たり前さ。僕が裕子ちゃんを留めておくわけにはいかない。クラスだって違うんだからね」
「でも裕子を呼んだのは、彼女のクラスのやつじゃないだろ。陸上部の部長だよ?」
わざとらしい笑みを浮かべて、琴美は、裕子たちの方を指さした。
グラウンドの片隅で、裕子と部長が仲睦まじく語り合っている姿が、智樹の場所からでもはっきりと見えた。
「やめろよ。琴美だって知ってるくせに」
裕子ほど長い付き合いではないが、琴美も智樹にとって幼馴染だ。
初めてクラスが一緒になったのは、小学3年生だっただろうか。小学校時代はあまり親しくなかったが、中学では一緒の陸上部だったため、裕子と同じく『仲間』という意識だった。
高校の部活に関しても裕子同様であり、琴美は陸上部を続けており……。
「あれあれ? 部外者なのに、もう智樹も知ってるのかい? 夏休みに裕子が部長と交際し始めた、ってこと」
智樹は黙って頷く。唇を固く閉ざして真面目な表情を作り、気持ちを顔に出さないつもりだったが、琴美には通用しなかった。
「残念だったねえ、智樹。こうなる前に、なんで気持ちを打ち明けなかったんだい? もしも、智樹が先に告白していたら……」
「無神経なこと言うな、琴美」
自分で思った以上に、智樹は厳しい口調になっていた。
悪びれた顔で、琴美は肩をすくめる。
「すまなかったね、智樹。でもさ、あたしは少し悔しいんだよ。智樹の気持ち、あんなにわかりやすかったのに、肝心の裕子にだけは伝わらなかったんだから……」
琴美の口調には、悲しみの色さえ浮かんでいた。
「……ああ見えて、裕子って鈍感なんだねえ」
「いいんだよ、裕子はあれで。少しくらい鈍感な方が、女の子は可愛いのさ」
「あーあ。リレーのバトンを渡すみたいに、恋心も簡単に伝えられたらいいのにね」
それまで智樹は、恋愛の話題を持ち出されて動揺していたのだが、この琴美の言葉で、ふと冷静になる。
考えさせられてしまったのだ。
琴美だって陸上部のくせに、リレーのバトンの受け渡しを『簡単』と言い切るなんて、どうかしている。いや、走りの素人ではないからこそ、十分に練習を重ねているからこそ、『簡単』と言えるのだろうか。
そもそも、リレーのバトンに例えること自体、おかしいのではないか。僕と裕子はクラスが異なり、二人の間に、バトンのやり取りはなかったのだから……。
「おーい、智樹!」
他のクラスメイトが近寄ってきたので、智樹は考えるのをやめた。
その場に男子生徒の輪が出来始めるのを察して、琴美は離れていく。
「じゃあ、またね」
「ああ、お前も頑張れよ」
彼女の背中にそう声をかけながら、何に対する『頑張れ』なのか、智樹は自分でもわからず、少し戸惑うのだった。
――――――――――――
「鈍感なくらいが可愛い、か。あたしも、それは同意するよ」
智樹がクラスの男子に囲まれる様子を眺めながら、琴美は独り言を口にする。
その顔には、哀愁を帯びた苦笑いが浮かんでいた。
「智樹も十分、鈍感なんだぞ。あたしの気持ちに、全く気づいてないんだから……」
(「リレーのバトンを渡すみたいに」完)