第一章 ズーロランドにて (3)
気がつけば、すでにリリアは北の方角へ移動を始めていた。素早く、小走りに、しかし物音は立てず、敵から見えないように。
「さすがだわ、リリア!」
そのしなやかな、ピューマのような動きに、ウルラは胸の内で思わず賛嘆の声を上げた。
たとえ、生きるか死ぬかの瀬戸際であっても。この数秒が、自分がこの世にいられる最期の数秒なのだとしても。
美しいものは、美しいのだ。美しいものが目に映るその数秒は、いつだって至福のときなのだ。
リリアの無駄のない機能的な美しい動きは、ウルラの胸を打った。
リリアは、北に向けて、ひそやかに走った。彼女の反面を、横から西日が黄金色に染め上げていた。
次の瞬間、低地をうねって飛んでいた奴らのうちの1機が、上方の崖上でのほんのわずかな動きに気づいた。そいつは前への動きを停め、ぶるりと震えると、一拍だけ間を置いてグイと上昇を始めた。その場でするすると直上に上がり、高度を稼いでそのまま被って来る動きだ。まだ距離があり過ぎ、こちらからではその動きを止めることも、妨害することもできない。
奴らのセンシング能力、知覚能力、そして最善の戦術的選択肢を択ぶ思考能力は、完全にウルラ達の予想を越えたものだった。
やがて、気づいた1機に倣って、河床の別の位置に居た別の2機もそのまま直上に上昇し始めた。そして、おそらくはリリアの存在をプロットして、3機は俄に楔形の編隊を組むと、そのまままっしぐらに緩降下しながら攻撃態勢に移った。
地球の重力を活かし、動きに勢いのつく理想的な突撃だった。あの耳障りな羽音に禍々しいモーターの作動音が加わって、3機はまるで、ジェリコの喇叭を吹き鳴らすかのようにリリアのほうへ襲いかかった。
危険を察知し崖上で障碍物の陰に実を伏せた彼女の周囲を、まるで南極嵐のような機関砲の銃弾が襲った。ブルルルというラム・エア・タービンの作動音が響き、焔と煙と、跳ね跳ぶ土塊が、崖の淵を徐々に削り取って行く。彼らのセンサーは、おそらく半径数メートルという精度でリリアの存在を熱感知しているようだった。そのため直撃は免れているが、3本の機関砲からの情容赦ない絨毯爆撃は、ほどなく、確実に身を潜めた彼女の身体を捉える。先ほどの、ピューマのようなしなやかな動きを魅せたあの美しい肉体は、次に瞬きをするほどの間に粉微塵になってしまうであろう。
リリアは、当初の計画にあった牽制射撃を行うこともできない。ある意味ではそうする手間が省けたともいえた。彼女は、まだ自分では何もせぬうちから完璧な囮となっていたのだ。虫けらどもの卓越した感知能力は、その囮を仕留める勝利の一歩手前までやって来ていた。このまま、機関砲で4.5㍉の弾丸をまとめて崖のへりに叩きつけ続けておれば、ほどなく・・・数秒後には、勝利の栄光が彼らのものになる。
何もできぬリリアは、そのまま地に伏せ、顔を地面にひっつけて這いつくばり続けた。
敵を分断せよ。各個撃破せよ。
いまこのリー・ウォンの教えを忠実に実践していたのは、彼ら命なき虫けらどものほうであった。
しかし、彼らは見逃していた。
彼らが目先の獲物を討ち取ることに熱中し、目の前の崖の土と岩を削り取り続けるうち。
その奥行きのあるシルエットが、200メートル南方に潜むウルラたち4名の照門に捉えられていたのだ。彼らの前面は、傾斜した炭素繊維に化学装甲をコーティングした、軽量だが耐弾性の高いものである。ここを正面から撃っても、ウルラたち戦士の手にする歩槍程度の威力では、貫通させることも、ダメージを与えることもできない。しかし側面は違う。未だ設計上の洗練がなされていない彼らの側方シルエットは、その合理的で無駄のない前面のレイアウトに較べて、不自然に長く、脆弱で、あちこち弱点に満ちていた。
これは、彼ら虫けらどもが、未だ敵に正面以外の角度を晒したことがないという事実の裏返しでもある。彼らは、常に圧倒的に優位で、ひたすら逃げ続ける敵すなわち生身の人間を、上空から悠々と狩る仕事にのみ経験値を持っていたのだ。待伏せされ、側方を銃火に晒されるような事態について、彼らにはこれまで一切データの蓄積がなく、その戦訓も無かった。すなわち彼らはあくまで攻撃用の兵器であり、側方防禦については設計上の考慮がほとんど払われていなかったのである。
これにより、彼らの運命は極まった。
命なき彼らに、運命など、そもそも有るのか無いのか、そうした哲学的な命題についてはひとまず置いておこう。
大切なことは、この戦術選択ミスにより、ウルラ、ロゼオ、ヴァヴァズ、サルダの4名が伏射の姿勢で狙う先に、彼らは、その無防備な横腹を晒してしまったということだ。彼女ら4名の人間は、いずれも熟練した射手。虫けらどもほど精確でも、無慈悲でもないが、相手の犯したミステイクに乗じることにかけては極めて長けた、恐るべき戦闘者であった。
攻守逆転、そしてまた逆転。
ウルラの合図で、歩槍による一斉射撃が加えられ、虫けらのうち2機が黒い煙を吐いて下方に墜ちた。楔形編隊のいちばん向こうに居た1機は、仲間に起きた異変に気づき、身を翻して河床のほうへ遁走を図ったが、彼の背面は、側面以上に脆弱な目標物であった。4丁の歩槍の第二撃が、それを確実に捉え、数弾の直撃で爆発を起こし、そのまま空中で四散した。