第二章 月の谷間にて (4)
振り返ると、人影が立っていた。
ウルラは、特に焦らなかった。それが、星の光を背にした、サルダの影であることがすぐにわかったからだ。一糸まとわぬ彼女は、おずおずとそこに立って、ウルラを見つめていた。よくは見えないけれど、たぶんあの、捨てられた子猫のような眼をして、じっとこちらの様子をうかがっているのにちがいない。
「あんた、なにそこでボサッと突っ立ってんだい?」
ウルラは、わざと冷たく言った。先輩格の兵が、やっと前線に出だした新米に当たるように、無愛想な言葉を投げつけた。
サルダの影は言った。
「ウルラ・・・そっちに、行っていい?」
「なんだって?」
「居場所がないの。あっちでは、あの二人が・・・。」
言って、かなたの岩棚でいちゃつき合うヴァヴァスとロゼオのほうを指さした。
「あたし、ひとりぼっちだから。」
あなたも・・・という、次の言葉をサルダは言わずに飲み込んだ。
ウルラは、何も答えず水面を見ていた。サルダのつがいは、二日前の、あいつらによる最初の襲撃で即死していた。さっさと伏せりゃいいのに、始めての戦闘でパニクって、泣きながら叫んでおろおろしているところを、何か大口径の弾丸で撃たれた。血しぶきと一緒にすとんと頸がもげて飛び、数メートルかなたの地面に、ごろりと転がった。サルダは、それを目の前で見ていた。まるで、背後から撃たれてバラバラになった愛する人の肉片と血煙を全身に浴びた、わずか数時間まえのウルラのように。
いらい、17歳のサルダは、なにも言わず、うつむき気味に、おっかなびっくりでこの逃避行についてきていた。いざ戦闘となれば、彼女もよく訓練された戦士である。射撃の腕も良く、動作も機敏で無駄がなく、別に隊の足を引っ張っているわけではないけれど。しかしまだ初々しく、どこかしら儚げな雰囲気を醸し出すサルダが、なぜかウルラは苦手だった。
「別に、来たきゃ、来ればいいよ。そこに居りゃあいいだろ。」
ウルラは、わざとつっけんどんに言った。
「あたしは、そろそろ寝るんだ。」
「なんで、寝るの?」
サルダは、不思議そうに聞いた。
「だって、生きていられるのは、もう、ほんのわずかのあいだでしょ?そうなったら、あとは、いくらだって寝ていられるのに。」
「縁起でもないこと、言うんじゃないよ!」
ウルラは怒った。
「あんたと違ってね、あたしは、生き残るんだ。あいつらを残らず叩き落として、必ず生きて帰ってやるんだ。そのために、体力をとっておくんだよ!」
「ごめんなさい、ウルラ・・・あたし、てっきり、あなたももう、あきらめているのだとばかり。」
「ふざけんじゃないよ!」
ウルラは水を叩いて叫んだ。
「あたしは、あんたみたいな弱虫じゃない。つがいが死んじまったからって、おろおろしたりはしない。他のだれか、ひとりぼっちの子にすぐにくっつくような、尻軽でもない!人間、死ぬときは死ぬんだよ。ひとりぼっちになるときは、そうなっちまうんだよ。それだけのことさ。だから、あんたも、そうやって哀れっぽくあたしの気を引こうなんて、バカなこと考えるんじゃないよ!」
言うなり立ち上がり、わざと大股にばしゃばしゃと波を蹴立てて、岸の方へと向かった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ウルラ!」
サルダは必死に謝り、その場に崩折れて泣き出した。
「あなたは闘うつもりなのに・・・生き残るつもりなのに。リリアのことだって、頑張って忘れようとしてるのに。あたしは・・・。ただ寂しかったの、不安だったの。このまま、ひとりぽっちで、死んでしまうのかって思うと。ひとりで死んで、ジャッカルに喰われるなんて。」
言い終わるや、そのまま嗚咽した。
ウルラはふと息をつき、足を止め、水の中からサルダを見上げて、こう言った。
「あたしだってね、助かる見込みはほとんどないって、わかってる。こりゃ、かなりヤバい、絶望的な状況よ。」
二人だけのときの、リー・ウォンの口癖を真似ながら、ウルラは言った。
「くやしいけれど、あいつら・・・あの機械どもは、あたしたちより頭がいいんだよ。どこかで誰かが操っているのかもしれないけれど。だとしたら、そいつはあたしたちより、頭がいい。あの機械が自分で考えて飛んでいるのなら、やつらは、とんでもなく、頭がいい。どちらにしても、あたしじゃ敵わないよ。リリアも死んでしまったしね。」
ここまで言うと、両手を広げて、おいでとゼスチュアで示した。
「でもね、あたしは、闘うんだ。戦い続けている限り、あたしは負けないんだ。歩槍の弾丸が尽きるまで。手榴弾の最後の一投まで。あたしは、どうしたって、逃げ切ってやる!だから、あんたもついてくるんだよ!泣いてないで、ついてくるんだよ。あんた、戦うときは、使えるよ。射撃だってうまい。勇気もある。だから、泣いたりしてないで、こっちに来るんだよ!」
サルダは、まだ少しおずおずと、しかし嬉しそうに水の中に入ってきた。そして、ウルラの前に立つと、恥ずかしそうに上目遣いに見上げた。もう言葉は要らない。ウルラは、サルダの腰に手を回し、強引に引き寄せると、その唇に吸いつき、なかをこじあけ、やわらかい口の中を、舌の先で弄った。サルダの両椀は、すこし緊張したように震えたが、やがて、おずおずとウルラの乳房を撫で始めた。ふたつの身体に包まれた熱と熱とがひっつきあい、混じり合って、それまで凍えるようだったこの世界に、ひとつのここちよい領分を作った。
じんわりと、腰のまわりが痺れてくる。サルダは、いつのまにか鼻と歯のあいだから、小さくあえぐような声を漏らし始めていた。この、可愛いいおばかさん。泣いてばかりで、いつもどこかビクビクしていて。でも、戦うときだけ目つきのきつくなる、可愛いい、可愛いいあたしの新しい・・・いや、たぶん最後の恋人。あんたのこと、最後まで護ってあげるね。身の固い、温かい血の通った、とても可愛いい肉の袋。まるで処女を犯すおっさんにでもなった気分で、ウルラはそんなことを考えた。
二人は、しばしせせらぎのなかに立って互いの身体を弄りあったあと、岸辺に上がり、丸く滑らかな岩の上で、甘美なその続きをした。おそらくは人生最後の、しばしの悦楽に酔った。そしてそのあと、満ち足りた気分で、そのまま二人で折り重なりしあわせな眠りについた。ほんのひとときだけ、ほんのわずかなあいだだけ。
わたしたちは、まだ生きてる。
ウルラは、うかつだった。
距離わずか3メートルまで近づいてきた、それに気づかなかったのだから。いつもなら、どんなにぐっすり寝ていたって、10メートルのところで、気づく。そして、なにも考えず即座に歩槍の引鉄に指をかけ、瞬時にセレクタを戻して、誰何などせず目覚めて1秒とたたぬうちに弾丸を撃ち込む。これまでそうやって、生き残ってきた。でも今回は・・・とても、とても甘美な夢のなかにいた。だから、それに気づかなかった。
耳元の草を踏む音にウルラが気づき、腰を浮かせて、そしていつも身から離さぬ歩槍が、はるかかなたの20メートルも先の岩に立てかけてあるということに気づいて絶望しかけたとき、その大きな黒い影は、ふらふらと近づいてきて、ウルラの頭上から、かすれた声でこう言った。
「た、たすけて・・・たすけて、お願い。」
そのまま、ドサリと大きな音を立てて、裸のまま縺れ合った二人の少女の前に崩折れた。




