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月のようなクラゲ、君のような間

 駅前ロータリーの真ん中で、噴水の飛沫が風に乗って細かく散っていた。

 陽は高く、春の終わりとも初夏の手前ともつかない匂いが街を薄く満たしている。信号が変わるたびに人の波が膨らんではほどけ、バスのドアが吐き出す温風の中にコーヒーの香りが一瞬だけ混ざる。待ち合わせの十分前。俺は腕時計を見ては、もういちど見て、意味もなくスマホの画面を暗くしたり点けたりしていた。


「お待たせ」


 振り向くと星宮がいた。白いブラウスに薄いデニム。装いは軽やかなのに、姿勢だけは高校のときと同じで、一本芯が通っている。陽に透ける髪の色が少しだけ明るく見え、歩み寄るたびに袖口の影がゆれて、指先の細さを強調する。


「ごめん、道がちょっと混んでて。……えっと、今更だけど、水族館でよかった?」


「うん、全然いいけど……水族館好きだったのか?」


「えっとね、あそこ、今だけクラゲの特設やってるらしくて」


 星宮は少しだけ目を丸くして、探るように笑った。俺は頷きながら、胸の奥がかすかに軋むのを誤魔化す。


 ◇


 水族館の入口は薄暗く、ガラスの自動扉が閉じるたびに、外のざわめきが海の底みたいに遠のく。最初のトンネル水槽に踏み込むと、光が一段柔らかくなり、頭上で群青の膜がたゆたった。銀の矢のようなイワシが巻き貝の渦みたいな群れを作り、時折、反転するときにだけ腹が鋭く光る。


「わあ……」


 星宮がガラスに近づく。掌をそっと当てて、息が曇らないくらいの距離で目を凝らす。子どもみたいだと思う。けれど、子どもよりも静かに、目だけで喜びを大きくする。その横顔を横目に、俺は自然と背筋が伸びてしまう。


 クラゲの展示エリアは、声を落とすように誘う暗さだった。

 ずらりと並ぶ円筒の水槽に、乳白の傘がゆっくり上下する。触手が細い糸の束になって、水を梳くたびに微かな乱流の影が、壁に生まれては消える。説明の小さなプレートには、擬音も形容もない学名だけが冷たく佇んでいるのに、目の前の生物はどれも、人の言葉の外にいる。


「見て、尾崎君。ほら、これ、月みたい」


 星宮が示したのは、中央の水槽だった。丸い傘の群れが、同じ拍で上下する。遠目には、白い満月がいくつも、藍の暗がりに浮いている。近寄れば、縁の微かな鋸歯と、傘の奥で脈打つ影が見える。

「ほんとだ。……潮の満ち引きを作ってるんだな。光と水に、時間の実体が出てくる感じ」

「ね。規則は水槽が決めるけど、ズレは生き物が生む。その少しのズレが、いちばんきれい」


 水槽の光が揺れる。星宮の頬のあたりに、青白い反射が帯になって走って、額の産毛がわずかに逆立つ。

 俺は浅く息を吸って、胸の奥の小石のまわりを、そっと水で湿らす。楽しそうな星宮を見ると特別な感情ではないが、素直に嬉しく感じる。けれど、その嬉しさに、別の成分が少しだけ混じる。申し訳なさ。臆病さ。過去の自分への苛立ち。——そして、ほんの少しだけ、今の自分が嫌だ。


「楽しんでる?」


「え、あ、ああ。もちろん」


 返事の間合いが半拍ズレたのを、自分で分かってしまう。星宮はそれ以上追わなかった。ただ、クラゲの流れに視線を戻し、「よかった」と小さく言う。その声は、ガラスに触れて湿り、透明度を増したように聞こえた。


 ペンギンのプールでは、黒い背中のラインが水の刃になって、水面を切り取るように滑った。アシカの水槽では、見た目よりもずっと速い回転で、輪の内側を何度も巡り、狭い世界に自由の形を何度も描く。星宮はそのたびに、小さく笑い、小さく息を呑み、俺はその都度、頷き方の角度を探した。


「いいね、ここ」


「……ああ」


 この「いいね」に、いくつ意味を乗せるのが正しいのか、いつもより考えすぎてしまう。

 ——彼女は何を思って、俺と言葉を交わしているのだろうか。

 その言葉を口の中で反芻するたび、喉の奥の小石が、少しだけ角度を変える。


 ◇


 ひと回りしたあと、外へ出ると光が眩しかった。館の陰から道路に出るまでの数歩で、肌の温度が一度上がる。水族館の向かいにあるバーガー&カフェは、テラス席に銀色の椅子が並び、ガラス越しに見える厨房のステンレスが、午後の陽を点々と跳ね返していた。


「ここのアボカドバーガーがね、写真で見てずっと気になってて」


 星宮はメニューの写真を、子どもに絵本を見せるみたいに俺に向けた。盛られたアボカドは厚く、緑が濃い。横に置かれたフレンチフライは長く、塩が均一に馴染んでいる。写真の上に置かれた指先は、やっぱり細く、爪の形も昔と変わらない。


 結局、星宮はアボカド、俺はベーコンチーズを頼んだ。しばらくして運ばれてきた皿からは、あたたかい、肉とパンの匂い。かぶりつくには高さがありすぎて、苦笑いしながら紙に包む。最初のひと口で、顎の可動域が限界まで試され、ソースがこぼれそうになる。星宮は唇の端についたソースをナプキンで拭い、少し照れて笑う。その笑い方が、たぶん高校のときよりも、ずっと柔らかい。


「ここのパン、意外と軽い。見た目より全然重くないね」


「だな。ベーコンの塩がちょうどいい。……あと、ピクルスがちゃんとしてる」


「“ちゃんとしてる”の基準、気になる」


「なんていうか、急に甘くないというか」


 取りとめのない会話は、思ったよりも楽だった。休日の店内はにぎやかで、コーヒーマシンの蒸気の音や、氷がグラスに落ちる音や、誰かの笑い声や、客の呼ぶ声が混ざって、ふいに波の音に似て聞こえる瞬間がある。さっきまで見ていた水槽の光が、店内のグラスや窓にまだ少し残っているような錯覚を覚える。


 ただ、星宮がときどき言葉を探すように、視線を落とすのが気になった。バーガーの包み紙の角をいじる指先。ストローをくるくる回す無意識の癖。水面に投げた小石の波紋が、ガラスに映ってこちらへ返ってくるみたいに、俺の側にも落ち着かない波が立つ。


「……最近、バイトの方はどうだ?」


「うん、ぼちぼち。慣れるまでに時間かかったけど、少しずつ、ね。尾崎君は? 夜勤、あまり無理しないで。顔色、前よりは良いけど、たまに——」


「目の下のクマがやばい? うん、めっちゃ言われる」


「ふふ」


 そうやって緩む笑いの間に、ふっと沈黙が落ちる。声が届かない透明な層に、二人同時に踏み込んだみたいに、視線が少しだけ泳ぐ。俺は水をひと口飲んで、グラスの水滴を親指で拭った。


「——本当は、それを話しを話したかったんじゃないんだろ?」


 言葉が出た瞬間、星宮の指が止まった。ストローの回転が止まり、氷がコト、と小さく鳴る。星宮は目を丸くして、それから、肩の力をほんの少し抜いた。


「……やっぱ、バレちゃうかぁ」


 苦笑いは、諦めじゃない。覚悟に向けて、自分をそっと押し出す前の、短い助走みたいだった。

 星宮は、グラスの底についた水滴をナプキンで押さえてから、窓の外に視線をやる。テラスの銀色の椅子が、風でほんの少し位置を変え、陽射しの中で鈍く光った。


「ごめん。……いい加減、ちゃんと話すよ」


 彼女の声は、さっきの水族館の暗がりみたいに、少し音を吸って、落ち着いた響きを持っていた。

 俺は頷く。喉の小石が、わずかに場所を空ける。


「そうか……ここでいいか?」


「うん。ここでいい。……でも、順番に話させて」


 星宮は両手を膝の上に置いた。指先を組むでもなく、ほどくでもなく、ただ静かに。

 窓の外、通りを一本隔てたところで、街路樹の若い葉が陽を掬い、通り過ぎるタクシーの屋根に、淡い緑の影を落とす。

 店内では新しいコーヒーが挽かれて、いい匂いが濃くなる。氷がまた、コト、と鳴った。


 星宮は一度だけ息を整え、俺をまっすぐに見た。


「——」


 言葉が舌先まで上がって、そこで一旦、止まる。

 その一拍の静けさの中で、さっき見たクラゲの満ち引きを思い出す。規則があるのに、わずかにズレる。そのズレが、生き物の証しだ。


 星宮は、ごく小さく笑った。

 準備は、きっとできた。


「……ねえ、尾崎君」


 そして彼女は、本題に入った。

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