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未読の宵、星宮の予感

「最近はお洒落なカフェだとか、近代的な造りの店とかが流行ってっけど、やっぱ男の一息はこういうシブいカフェに限るよな~。な、傑?」


 喜一の声は、磨きこまれたカウンターに低く反射して、琥珀色の照明と混ざり合った。新宿の高層ビル群の谷間にぽっかり空いたような小さな店。ビル風が押しつけるガラス扉をくぐった先は、もう別世界だ。赤茶けたビニールレザーのソファ、古いラジオからは小さな音量でジャズのスタンダード、棚の奥では整然と並ぶサイフォンのガラスが薄く曇り、湯気の輪郭が光をほどく。壁紙は淡いクリーム色で、ところどころ日焼けしたシミが島のように広がっている。テーブルの角は柔らかく丸く、幾度も手に触れられて塗料が薄くなっていた。


 午後の新宿は、どこかの会社の説明会帰りの学生や、名刺入れを胸ポケットにねじ込んだサラリーマンでごった返している。だけどこの店だけは時間に追われる足音から切り離されて、秒針の音がやけに大きい。窓の外で信号が青から赤に入れ替わるたび、店先の植木鉢に反射する色も淡く変わった。


 俺と喜一は、就活フェス帰りにここへ逃げ込んだ。就活フェス――要するに、企業が体育館みたいな会場にブースを構えて、学生たちがそのあいだを回遊魚のようにぐるぐる行き来するイベントだ。名札を胸につけ、ESの写しをファイルに挟み、笑顔と相槌の練習をして、知らない大人に「御社の○○に惹かれまして」と言い続ける場所。


 俺にも喜一にも、「絶対ここ」という企業はない。だからこそ、パンフレットを重ねながら、どこか宙ぶらりんの自分がパンフレットの隙間からすり抜けていく気がした。


「……」


「おーい?」


「……ん?」


「はぁ……お前、最近ずっとその調子だぞ? 話しててもどこか上の空っつーか、なんかあったのか?」


「あー……悪い悪い、なんでもない」


「なんでもなくないだろうよ……あれか? 夜勤のし過ぎなんじゃないのか?」


「夜勤のバイト、ね……」


 カップの縁に唇を当てる。熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどよい温度のブレンドに、ほろ苦さが舌に広がる。鼻に抜けるのは豆の甘い香りと、古い木の粉っぽさ。天井の扇風機が低い唸りを上げて、紙ナプキンの角をかすかに揺らした。


 ――グラさん。いや、真尋まひろさんは、今日も来ないのだろうか。


 言葉に出すと何かが壊れそうで、コーヒーの黒だけを見つめた。湛えた表面に、窓の外の空が小さく映り込む。雲がゆっくりと流れていく。手元の時計の針も、同じ速度で進んでいるはずなのに、胸の内側の時間だけが、どこか別のリズムで遅れていた。


 喜一はナポリタンを、鉄板でジュウジュウ言わせながら食べている。フォークが皿に当たる音が妙にうるさくて、でもありがたい音でもあった。誰かの気配と音が、俺を現実へ引き戻すから。


「就活フェス、さ。どうだった?」


「どうもこうも……どの企業も口揃えて『協調性がある人』『主体的に動ける人』って言ってるけど、結局本質的にほしいのは『企業にとって都合の良いやつ』だしなぁ~って思っちまう」


「それな。だから俺は『協調性あります!』『主体的に動けます!』って顔でうなずいてた」


 笑い合って、黙る。ふと、向かいの席の空気が、コーヒーの湯気みたいにどこか頼りなく揺れて見えた。俺の笑いは、どこか感情の表面に薄く貼り付けたビニールみたいで、指でちょっと引っ張れば破れてしまいそうだった。


 窓の向こうで、午後の陽が傾き出す。新宿のガラスの塔たちの影が、少しずつ長くなって、地面に伸びていく。俺たちの時間も、長く伸びて、どこかに薄まって消えていくのだろうか――なんて、昭和レトロが似合わないポエムが勝手に浮かんで、セルフで「草」と感想を施す。


「夜、ちゃんと寝てるのか?」


「寝ようとはしてる。ベッドで目閉じるじゃん? でも天井の木目だけやたら明瞭になってくるフェーズに突入して、気づいたらアラームが鳴ってる」


「それは寝てる」


「寝てない時もある」


「……夜勤やめて昼にシフト入れりゃ?」


「昼、授業あるし……夕方はピークタイムだから入りたくねぇ」


 言いながら、カップの底に残った黒が、心の中のモヤの色と同じに思えた。飲み干すと、カップの内側に薄い輪っかが一つ残る。使い終えたコースターには、水滴の跡が月の満ち欠けみたいに重なっていた。


 店を出ると、風の匂いが変わっていた。さっきより、少し冷たい。春と夏の境目の夕方は、どこか都会のビルの輪郭を柔らげる。俺たちはそれぞれの駅へ分かれる角まで歩いた。信号が変わるまでの短い間、沈黙が流れる。青になったとたん、俺は手を上げて、軽く振った。


「また連絡する」


「おう。……無理すんな」


 喜一の言葉は、背中に刺さって、少しだけ温かかった。


 横断歩道を渡りきったところで、スマホが震える。画面には「神田」の文字。


 〈この間の件の事、すっかり話すの忘れてた。美琴、話し合いOK出た。金曜18時、大学のガラス棟ロビー。正直こえぇ〉


 思わず足を止める。通り過ぎる人の流れが袖をかすめていく。


 〈いける。逃げんな。例の謝罪+説明、ちゃんとしろよ?〉


 すぐに既読がついて、三つの点が躍る。


 〈頼む。あの件(後輩ちゃんのこと)も全部話す。ちゃんと向き合う〉


 画面を閉じると、ビルの谷間の空は淡い灰色に沈み始めていた。風がひと筋、シャツの襟を撫でていく。金曜の夕方――あいつらの関係が、もう一度結び直されるのか、それともほどけてしまうのか。胸のどこかで、秒針とは別の拍がひとつ大きく跳ねた。

 篠崎さんが喜一に嫌悪感を抱いているように見えたから、そこは少し気がかりだ。


 そして俺は、自分のポケットにある、連絡先の並ぶ画面を一瞬だけ見て、またしまった。

 表示名は真尋さん。送るべき言葉は、まだ喉の手前で渦を巻いている。


 ◇


 夜。ファミレスの裏口は、いつものようにハンバーグの匂いをまとっている。油の甘い匂いと、洗剤のきつい匂いと、冷蔵庫から漏れる微かな冷気。俺はタイムカードを押し、薄い生地のシャツにエプロンを巻き、鏡に向かって「二十点」と呟いた。いつも通りだ。いつも通り、のはずだった。


 キッチンの鉄板が鳴り、ホールの照明は少しだけ黄味が強い。夜の客は少ない。ノートPCを開いている物書き風の常連と、スーツの上着を椅子に掛けて、一人で定食を食べているサラリーマン。たまに、終電前の学生がフライドポテトをつつきに来る。深夜のファミレスは、外界の音が遠い。窓のと向こうを走る車のライトが、ガラスに白い筋を残しては消える。時計の秒針は相変わらず律儀だ。


 ――今日も来ない。


 卓上のメニューを正す。ストローを補充する。水のポットを新しいものに替える。やることはいくらでもあるはずなのに、どれも体の外側で勝手に動いているような感じだった。時間を「進める」ための作業。けれど心だけが、どこかに置いてきぼりだ。


 真尋さんと出かけた、あの日。外苑前の風。金属バットに乗った打球の手応え。神宮外苑の木立の隙間から覗く空は、薄い水色で、雲の輪郭が柔らかかった。あれから――一か月。店のベルは鳴るけれど、彼女の足音はしない。グラサン越しの毒舌も、テーブルを軽く叩く癖も、耳の奥に残っているのに、現実には現れない。


 メッセージを送ろうと、何度かスマホを取り出した。「最近来ないけど、大丈夫?」――文字にすると、急に湿った重さを持つ。俺たちは付き合っていない。そういう関係に名前はない。お客と店員のあいだ。休日に渋谷、外苑前を歩いた二人。

 そんな間柄であっても、やはり俺は心配をせずにはいられなかった。

 何度も何度も打っては消して打っては消してを繰り替えた文章を、遂に送る。


 ポケットにスマホを戻す。心臓だけ、少し早い。


 カラン、と、入店ベル。反射的に胸が跳ねる。視界の端が明るくなる。

 ――え、送った矢先に来た、のか?


「お疲れ! 尾崎君」


 そこに立っていたのは、背筋の伸びた黒のジャケット。滑らかな生地が店の照明を柔らかく反射する。髪は肩の下で緩く巻かれて、光の帯を作っている。目元はきりっとして、けれど口元にいつもの癖のある笑み。


「……ほ、星宮」


 高校の記憶の中から、そのまま大人の輪郭に更新されたような星宮夏帆。以前よりもぐっと大人びた装いは、夜の街の色に馴染み、同時にこのレトロな空気にも不思議と似合っていた。女性にしては高い身長が、黒のラインでさらに引き締まる。


「やっぱり夜は暇そうだね」


「お、おう……まあ、だから夜勤してるようなもんだし。とりあえず席、案内するよ」


 レジ横の二人掛けへ。彼女はジャケットを椅子の背にかけ、腰を下ろす仕草まで、どこか大人びて見える。爪は短く整えられ、控えめなピンクのネイル。指に銀の細いリングが一つ光る。学生の頃の彼女を、俺は真正面から見ないようにしていた。あの夏以降、特に。


「ごめんね。お客として来たわけじゃないんだ。……尾崎君、もうすぐ上がりでしょ?」


「まあ、そうだけど……何かあったのか?」


「ちょっと話したいことがあってね。……でも何も頼まず居座ったら迷惑でしょ? ドリンクバーだけでも注文するよ」


「そうか……わかった」


 伝票に「DB」と書くときのボールペンの感触が、変に鮮やかだ。カップに氷を落とす音。ソーダのレバーを引けば、細かな泡が立って、透明のカップを満たす。星宮は炭酸ではなく、ホットコーヒーを選んだ。砂糖は入れず、ミルクを一滴だけ。彼女は昔から、甘すぎるのは苦手だった気がする。


「大学、どう? 勉強とか、ちゃんとやってる?」


「まぁ……出席取って、課題出して、ギリギリやってるって感じかな」


「ふふ、尾崎君らしいね。……バイトも、ずっとここで?」


「うん。夜勤は正直しんどいけど、昼間は動けるし、都合いいからな」


「……そっか」


 当たり障りのない近況を、当たり障りのないトーンで交わす。けれど、俺の笑い方は少し硬かったと思う。言葉の間が、ほんの少し長い。星宮の視線はその間を見逃さない。俺は視線を外し、食器の並びを直し、空のグラスを集め、磨いた。グラスの透明に、俺の顔が歪んで映る。


 レジ横の時計は、日付が変わる少し手前。店内は静かだ。厨房からはソースの温め直しの、くつくついう音。エアコンの吹き出し口で揺れる紙のPOP。夜は、音がすべて薄くなって、代わりに心の中の音が大きくなる。脳内のノブが、勝手に「心配」のボリュームを上げるみたいに。


 俺が一度、注文口のベルを押し間違えた。厨房から「はいよ」と返事が来て、自分でも笑ってしまう。星宮は、それに合わせて小さく笑ってから、すぐ真顔に戻った。その切り替えの速さが、妙に印象に残る。


 ◆


 ――やっぱり。


 軽く近況を交わしただけで、胸の奥がざわついた。尾崎君、どこかが壊れそうな顔をしている。

 この感じは知っている。私の身体が、夏の匂いと一緒に覚えている。


 あの決勝。アルミのバットが芯を噛む“カィン”という音が、今日だけは刃物みたいに響いた。スコアブックのマスが真っ黒に埋まっていくたび、三塁ベンチの端に置いた氷嚢はぬるくなり、ロージンの粉が白く指についた。

 エース番号「1」の背中は、いつもみたいに大きくは見えなかった。マウンドの盛り土はスパイクで荒れ、帽子の庇は汗で濡れて重い。点差は、スコアボードの右端から左へ、砂嵐みたいに増えていった。


 試合が終わると、歓声は風にちぎれて、残ったのは金属臭と土の匂い。

 翌日、部室の廊下では、誰のものとも知れない声がささやいた——「天狗だったよな」「一年のくせに背番号1とかさ」。

 嫉妬はいつも陰から投げられる。真正面からは、誰も投げないくせに。


 彼はエースで、才能があった。だから妬まれもした。

 でも、最後に彼自身がいちばん彼を責めた。先輩たちの夏を、守れなかったって。

 野球推薦で入ったから、退部は退学と同義だってことも、私たち女子マネは知っていた。監督室の前で、私は救急箱とスコアブックを抱えたまま、何も言えなかった。止めに入る言葉は喉まで来て、出てこなかった。


「好きです」って言葉も、出ないまま終わった。


 ——だから、今も同じ後悔はしたくない。

 笑っているのに、笑っていない顔。返事はしているのに、心が遅れてくる声。

 女の勘なんて言葉で片づけたくないけれど、わかってしまう。彼は誰かのことで、深く悩んでいる。


 だったら——今度は、踏み込む番だ。


 私はドリンクバーのコップを両手で包み、湯気の向こうから彼を見つめて、息を整えた。


「……あのね、尾崎君」


「ん?」


「今度、ちゃんと話したいことがあるの。私から」


 彼は少し驚いて、でも逃げなかった。

 今度こそ、何も飲み込まない。助けられなかったあの夏のぶんまで。

 そして——あの時言えなかった言葉も、いつかちゃんと。


 それだけ。告白でも、説明でもない。予告。それでも、私の心臓は不自然に跳ねた。彼の目が一瞬だけ丸くなる。驚きと、戸惑いと、少しの警戒。私はそれ以上言葉を重ねなかった。言えば言うほど薄まってしまうことがある。思いは濃くしておきたい。


「……わかった。いつがいい?」


 その返事が、あまりにも自然で、私は拍子抜けして、同時に救われた。あの頃、彼に近づく度に見た、張り詰めた空気とは違う。大人になったのは、私だけじゃない。


「お互いの休みに合わせよう。私、来週の金曜は昼間空いてる」


「じゃあ、俺も調整する」


 レジ横のスケジュール表と、彼のスマホのカレンダーが、同じ日に小さく丸をつける音がした気がした。たぶん錯覚。でも、確かに何かが同じ方向へ転がった。


「場所は……どこがいい?」


「うーん……水族館、行きたい」


 口から滑り落ちた言葉は、自分でも意外だった。水族館。薄暗い廊下。青い光。水の音。静かに並んで歩ける場所。言葉に頼らなくても、一緒にいられる場所。


 彼は少しだけ目を瞬かせてから、笑った。「了解」と。私はうなずいた。言葉は少なくていい。少ないほうが、きっと、届くこともある。


 会計を済ませ、扉を出る。夜風は少しひんやりして、頬に気持ちいい。ビルの谷間に星は見えないけれど、信号の青が交差点の上で瞬く。私は振り返らなかった。振り返ると、きっと弱気になるから。靴音は、コツ、コツ、と夜に落ちて、すぐに吸い込まれていく。


 ◇


 閉店間際のホールで、俺はグラスを最後の一つまで磨き終えた。星宮の残り香――たぶん柔軟剤の、清潔な匂い――が、椅子の背に薄く残っている気がした。気のせいかもしれない。でも、匂いは記憶を強くする。


 スマホを取り出す。カレンダーの金曜日に小さな丸。指先が、ほんの少しだけ震える。

 これは、恐れか、期待か。その両方か。

 真尋さんの名前の横に、最近のトークは灰色のまま並んでいる。通知は来ていない。画面を閉じる。深呼吸を一つ。


 夜の扉を閉める音は、いつもより少しだけ大きかった。店内の照明が落ち、ガラス越しの街の光が濃くなる。歩道の白線が、月光みたいに見えた。

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