:閣下覚醒:
歌劇は、大変すばらしいものだった。
国内外の多くの舞台を観てきているレオの目から見ても、五本指に入る素晴らしさだった。観客が身近に感じられるストーリー、熱のこもった演者、衣装も舞台装置も小物に至るまで、一切妥協がなかった。そして、それらが撚り合わさって見ているものを惹きつけるエネルギーとなっている。
「夢中で見てしまったな……」
――国内にこんな優秀な歌劇団があったとは……
王族の演説も、このくらい熱心にやらなくては民衆の心には届かないだろう。バルコニーに出て無言で手をふれば支持してもらえた時代は疾うに終わっている。
レオは、はぁ、と、呆けたように椅子に座った。隣では上気した頬のリズがゆっくり瞬きをしながら舞台へ視線を注ぎ続けている。余韻に浸っているのだろう。
途中でちらりと見たリズは、本来のシュテファンの相手探しという目的をすっかり忘れて舞台に見入っていた。どうやらヒロインにすっかり感情移入していたらしく、ハッと息を呑んだり身を乗り出したり。
「レオさま……」
「ん?」
「とっても…………」
リズの言葉が途切れた。だが、素敵だった、と、リズの目が潤む。その目に、やけに力強い光が灯っている気がしてレオは思わずリズを覗き込んだ。こ
「わたくし……来世はオペラの舞台に立ちたいですわ」
リズの桜色の唇が動いて、そう紡いだ。いや、呟いてしまった。
「来世? 死んだ後のことだね。まったくレディは面白いことを考える」
レオが笑う声を聴いて、あ、と、リズは慌てたように口をおさえた。うっかり転生に関することを喋ってしまった。とりつくろわなければ、と思うが、舞台が素晴らしすぎた余韻で頭がちっとも回らない。
「えっと、その……」
「いいんだ、いや、わかるよ。次の人生では舞台女優になりたいと思うくらい、この舞台がすばらしかった。そういうことだと思う」
「ええ……お客様の心と視線を独り占めにして……仲間と一つの作品を作り上げる……」
前世――リサだったころに、舞台もドラマも映画もこなしている。が、ミュージカルやオペラの経験はない。
「ぜひ一度、やってみたいとずっと思っているの。でも、今は無理よ……田舎領主とはいえ、侯爵家の令嬢ですものね……」
うんうん、とレオも頷いてくれる。
レオが想像しているであろう事柄とリズがうっとりと喋っている事柄はスケールがかなり違うのだが、詳しく説明しなければ問題ないのである。
「ああ、レオさま。素敵な舞台を、ありがとうございました。とても楽しかったのです」
「いや、俺も楽しかったし、きみがここまで楽しんでくれて、チケット入手した甲斐があったというものだ」
実際、リズが喜んでくれるなら、張り込みを手伝うのも腹心の部下を尾行するのも、ちっとも苦ではない。
「レオさま、次回はわたくしが、何かご招待いたしますわね!」
「本当かい? 楽しみにしているよ」
「そうだわ。狩り……えっと、いえ、そう! 競馬などいかがでしょう?」
「いいね。俺、競馬のレースを競馬場で見たことがないんだよ……」
もしここに、気の利く者がいたなら、もう少し『それらしい場所』でのデートに軌道修正したであろうが――あいにく、アンナベルもアンドリューもいない。
「……おっと、レディ! 大変だ。シュテファンの野郎、会場から出ていくぞ」
「え!」
急ぐぞ、と、レオがリズの手を取った。はい、と、リズも自然にその手を握り返す。二人して小走りで会場を後にする。
繋がった場所が、とくん、と熱を持つ。が、リズはそれを「気付かなかったこと」にした。
「レディ・リズ、馬車に乗って!」
「はい!」
「頼む、前の馬車を追いかけてくれ」
飛び乗った瞬間、妙に広くやたら乗り心地の良い馬車であることに、リズは違和感を覚えた。
「ひょっとして、馬マニアではなく馬車マニア?」
「何か言ったかい?」
ぶんぶん、と首を振る間に馬車は勢いよく走り出す。
「きゃあ!」
「おっと危ない」
馬車の座面に座らせてもらって、ようやく繋いだままだった手を離す。
離れていく温もりが寂しくて、思わずレオを見てしまう。
「ん? どうした?」
「あ、い、いえ。あの、立派な馬車だな、って……」
「そうだろう? 自慢の馬車なんだ」
にっ、と、レオが自慢げに、得意気に笑う。それはまるで、夏休みにこっそり集めた宝物を褒められた少年のようで……。
「あ、あは、レオさまったら……」
リズが、思わず笑う。それは、完璧な令嬢が社交界向けに行う、貼り付けたような笑顔ではなく……。
「くあぁ……たまんねぇなぁ、おい……」
レオは、友人の言葉を反駁していた。
――……お? もしや、レディ・リズのことがそんなに気になりますか? もしや、初恋だったり……
ああ正解だよアンドリュー、俺はレディに惚れちまったみたいだ……。ぽりぽり、と頬を掻いたレオはすぐ隣に座っているリズをそっと盗み見見た。
類まれなる美貌、女神や妖精の生まれ変わり――大げさでもなんでもなく、リズは美しい。リズ以上に美しいひとを、レオは知らない。顔かたちの美しさもあるが、それだけではない魅力がリズを輝かせている。
輝くばかりのプラチナブロンドは、いつも元気に跳ねまわっているリズの動きに合わせてさらさらと音がしそうである。透き通るような白い肌はあれだけ外にいても黒子も傷も一つもない。そして大きな瞳はエメラルドグリーン。喜怒哀楽を雄弁に語ってくれる。薄ピンクの唇はぷるぷると潤んでいて……。
「……!?」
レオは、果実のようなその唇に、己の唇を重ねていた。