:弾む馬車、飛び散る泥水、悔しがる令嬢たち:
弾む馬車など見たことのない通行人が、思わず目と口をまん丸にして棒立ちになる。が、そのすぐあとに、ばちゃん、と派手に水しぶきがあがった。
「きゃっ!」
その泥水は、徒歩で移動していた一家や、屋根なし馬車に乗っていた紳士淑女を直撃し、不幸にも、泥水を頭からかぶってしまった数人の女性が悲鳴をあげた。
「な、なんなのよっ! 誰よっ」
綺麗に結った髪から泥水が滴り落ちる様は、憐れでありつつもどこか滑稽である。思わず泥を免れた人々が凝視する。
「み、見てないで拭うのを手伝いなさいっ!」
その声に応じたわけではないだろうが、どこからともなく現れた黒い服に白い手袋の男たちが、彼女たちの前に整然と並び、すかさず札束を握らせた。
「申し訳ございません」
「な、なによ、これ!」
「我が主からのお詫びです」
主ってだれかしら、と、レディの一人が白いハンカチで泥を拭いながら首を傾げた。連れの男性が男たちの手袋に縫い付けられた紋章をそっと指示した。ユニコーンを二本のバラが囲む紋章は、この国の権力中枢にいる大貴族『二十四貴族』のひとつフォントレー侯爵家の紋章だ。
「ああ……そうよね、イシュタルなら平気でやるわよね、このくらい。というか、こんな無茶をするのは、イシュタルだけだわ」
と、レモンイエローのドレスの令嬢がため息をつけば、ピンクのタイトなドレスを着こなした令嬢が肩をぐっと持ち上げて黒服の男に詰め寄った。
「お、お金を払えばいいってものじゃないわよ! 台無しじゃない」
押し戻される札束、レディたちの目は据わっている。結婚適齢期の彼女たちにとって社交界は結婚相手探しの戦場である。簡単に撤退するわけにはいかない。
「申し訳ございません」
男たちは、慇懃無礼を絵に描いたように頭を下げる。が、令嬢たちの気分がそれで収まるはずはなく。
「まったくもう! せっかく三か月に一度の、国王陛下主催の大舞踏会なのに……がっかりだわ」
ため息交じりに指先で摘まみ上げられたレモンイエローのドレスは、裾から胸元から、見事に泥が跳ねあがっていっそ芸術的な模様を描いている。
「そうよ! 今夜のために、ドレスもティアラも新調して、タイトなドレスのシルエットにあわせて痩せたのに、これじゃ参加できないじゃない!」
露骨に不快感をあらわす令嬢の迫力たるや。黒服の男たちはまた一斉に頭を下げた。しかし複数人いるのに、頭を下げるタイミングも角度も、びしっと揃っている。誰かが合図を出すわけでも指示の笛を鳴らすわけでもないので、さすがに令嬢一行が引きつった顔になった。
「なんだこいつら……精鋭ぞろいの騎士団でもここまで揃わないだろ……」
「こ、怖いな……」
黒服の男たちはひるんだ様子もなく、その中の一人が、あろうことか一歩前に出た。ひ、と一同、後退り。
「お嬢さまがたのドレスはとても素敵です。拝見したところ、マダム・ムーンライトのオーダーメイドと存じます。とてもこれでは足りないとは思いますが、新しいドレスの足しに……」
ぐいっと札束を押し付けて、頭を下げる。レディたちは、重みを増した札束を見たあと目を丸くした。
ドレスが新調できてお釣りがくる額だ。だが、新しいドレスが買えたとしても、舞踏会参加の機会を失うのは辛い。だが、ふ、と、レモンイエローのレディが唇を緩めた。
「残念だけど……今宵の舞踏会は、諦めましょう、レディ・ロレッタ」
え!? と、ロレッタと呼ばれたレディが大きな瞳に涙を浮かべて友人を見た。
「どうしてよ、リリアン! わたしたち、今夜のためにどれだけ……」
詰め寄る友人の肩を、リリアンはレースの手袋をつけたままの手でそっと撫でる。
「考えてもみてよ、ロレッタ。国中の紳士淑女が集う会よ。そこで泥だらけのドレスで駆けつけてごらんなさいよ。どれだけ結婚相手探しに必死なのかと笑われてしまうわ」
「それは……そうだけど……」
「ロレッタ、あなたは本当に綺麗だし、流行のタイトドレスが似合うように体を絞った大変な努力家よ。そしてマナーも完璧なレディだわ。今日のために頑張った、だからこそ、今宵の舞踏会にでたい。その気持ちも、わかる。でもね、見たでしょう? あの馬車」
「ええ……」
忌々し気に、一同は、馬車が走り去った方角を見た。眩い街灯が、王宮へと続いている。この道をまっすぐ行けば会場はすぐそこだ。