屋敷での日々①
賊を全て退けた直後、王国の兵が現場へ駆けつけた。彼らはなお息のある賊を拘束・手当し、すでに絶命したバスカらの遺体を丁重に回収し、騒動の後始末に当たってくれた。
その中で、アレクが軽い聴取のみで済まされたのは、彼の身体に刻まれた無数の傷と、アルディらの証言によるところが大きい。かくしてアルディおよびその家族と使用人らの安全は確保され、一連の脅威は終息した。
となれば、次に取り上げられるべきは——褒賞の件である。
「アレク殿、あなたのおかげで我々は全てを救われました。本当に、本当にありがとうございます。このご恩は一生忘れません。ぜひ報いをさせていただきたい。金銭でも何でも、遠慮なさらずお申し付けください」
かく語ったのは、屋敷の主たる大富豪アルディ・クレイデルである。今、彼はアレクを邸内の客間に迎え入れ、赤を基調とした豪奢なソファーに並んで腰掛けている。
だが、隣に立っていた執事のフォーテンが一歩進み出て、やや眉をひそめながら口を開いた。
「アルディ様。確かにアレク殿には助けられましたが、『何でも』というのは少々言葉が過ぎます。それに私は、アレク殿がどのようにして屋敷に侵入し人質を救出したのか、その点にいまだ疑念を抱いております」
その指摘は、決して不当なものではなかった。だが、アルディは慈しみに満ちた瞳で静かに首を振り、諭すように返す。
「それは先ほどアレク殿ご自身の口から伺ったではないか。彼がいなければ我らは全てを失っていた。ならば私は誠意を込めて『何でも』と申し上げたのだ」
その眼差しには揺るぎなき信頼と感謝の色が宿っていた。王国随一の富豪という立場にありながら、他者への思いやりを忘れぬその在り方は、アレクが事前に得ていた情報に違わぬ人物像であった。
「アレク殿、我が使用人が無礼を働き申し訳ありません」
アルディが深々と頭を下げる。旅人を名乗るアレクに対し、ここまで礼を尽くしてくれるとは、ただ感謝の心からに他ならぬ。
「いえ、お気になさらず。私はただ、皆様を助けたという一点のみで、他には何一つ信頼に足る証をお見せできておりません。疑念を持たれるのも当然のことです。また、褒賞につきましても、大それたものを望むつもりはありませんのでご安心を」
アレクはあくまで控えめに、しかし内に秘めた策を悟らせぬよう、言葉を選んで返した。
「そう言っていただけて助かります。……フォーテン、お前もきちんと謝るのだ」
「……はい。失礼いたしました、アレク殿。非礼の数々、お詫び申し上げます」
フォーテンが立ち上がり、深く頭を下げる。その声音にはまだ警戒心の色が残るが、言葉そのものに嘘はない。
「気にしていません。お気遣いありがとうございます」
アレクも静かに頭を下げ、和やかな空気の中で、ようやく本題へと進む。
「それでは、僭越ながら伺いましょう。アレク殿の望みとは、いかなるものでしょうか?」
満を持して問われたその瞬間、アレクはゆるやかに言葉を紡ぎ出す。
「望みは三つあります。そのうち、最も大きな一つは——。私を食客ではなく護衛として雇っていただけませんか?」
それは、アルディという後ろ盾を得て、己の目的を推し進めるための布石であった。
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アレクは目を覚ますと、まとわりつく眠気を振り払いながら上体を起こした。室内に差し込む朝の光はまだ弱く、日が昇り始めたばかりであることを物語っていた。彼は無感動なまま、カーテンを開け、閉ざされていた部屋に微かな光を取り込む。
数秒間、静かにその黎明を眺めたのち、ベッド脇に畳んでおいた動きやすい服へと素早く着替える。そして向かったのは、壁際に据えられた、幅広く豪奢な装飾が施された五段の引き出しタンス。アレクはその前にしゃがみ込み、床の継ぎ目を探ると、そこに指をかけてゆっくりと引き上げた。
隠し戸が音もなく開き、地下へと続く小さな空洞が現れる。そこに両手を伸ばし、取り出したのは二本の長剣。それを腰に吊るすと、再び静かに立ち上がり部屋を後にした。
この隠し収納は、万が一にも盗難を防ぐための措置である。彼が携える二振りの剣は、換えのきかぬ代物。命を賭けた場において、絶対の信頼を寄せられる唯一の武具なのだ。
アレクの朝は早い。日々の鍛錬により心身の調子を整えることは、彼にとって絶対的な使命である。どれほど壮大な計画であっても、それを支えるのは日常における積み重ねである。時空を超えた今も、その理念は変わっていない。
静まり返った邸宅の廊下を、他の者の眠りを妨げぬよう音を殺して歩む。アレクは昨日の盗賊団との戦闘、そしてその後の報酬交渉を思い返していた。
——「食客ではなく、護衛として雇っていただけませんか? 二ヶ月で構いません」
彼が提示したのは、一見慎ましやかな申し出であった。しかしその真意は、この大富豪アルディ・クレイデルを後ろ盾に据え、次なる計画を進める基盤を築くことにあった。
この願いに対し、アルディの忠実なる執事フォーテンは激しく反発した。素性不明の者を屋敷に置くことへの警戒心は、当然と言えば当然である。
「王国兵団の試験を受けに王都へ参ったのですが、今はまだ力に自信がなく、しばし身を整える猶予が欲しいのです」
アレクが述べたこの理由は、真実の仮面をかぶった方便に過ぎなかった。本心を晒すには時期尚早、目的の遂行には信を得ることが肝要だ。
「……やめるんだ、フォーテン。次、我々を襲う者が現れぬとは限らない。であれば、アレク殿が共にいてくださる方が心強い」
アルディの言葉は、命を賭して自らを救った青年への信義に満ちていた。そしてその真摯さに、フォーテンもついに折れた。
「……わかりました。我々としても、アレク殿がいてくだされば心強い。二ヶ月間、どうかよろしくお願いします」
こうして最も重要な要求は通った。残る二つの望みの一つは、グリッドを同様に屋敷へ置くこと。そしてもう一つは金銭である。ただし、己のためではない。
「次の目的。その前に、あの金で“鍵”となるものを調達しなければならない」
アレクの思考は自然とそこに至る。そして彼は、目的地へと静かに歩みを進めた——。
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屋敷の中はまだ静寂に包まれていた。アレクは他の者たちの眠りを妨げぬよう、足音を限りなく殺しながら廊下を進んでいく。その道すがら、ふと昨日の一件に思いを馳せた。
命懸けで得た信頼、慎重に繰り出した言葉、交渉の成就——それらすべてが、未来を形作る確かな布石である。
「……さて、やるべきことをやろう」
思考を打ち切ると、アレクは目の前の扉を押し開ける。そこは広々とした修練場であった。
一般的な邸宅の倍はあろうかという広さの正方形の空間。煉瓦造りの床に高い天井、通気性を考慮して設けられた広い出入り口と複数の窓。王国屈指の大富豪の屋敷に相応しい、申し分ない設備である。
アレクは腰に吊るした二振りの長剣を静かに鞘から抜いた。冷たい金属の光が朝の淡い光に照らされ、わずかに鈍く反射する。彼は深く息を吸い、足を構えた。
——起床後の鍛錬。これはアレクにとって、もはや生きる上での儀式といっても過言ではない。
剣はただ振るうだけのものではない。力を保ち、己を律し、次なる戦いへと備えるための礎。技は一日にして成らず、積み重ねこそが唯一の道。だからこそ、たとえ昨日傷を負っていようと、今日という一日を疎かにすることはできない。
アレクは剣と己を一つとし、何も考えずに斬撃を繰り返す。時に無念無想の境地に至り、時に仮想の敵を心に描き、それが如何に動くかを想像しては応じるように刃を振るう。
その動きに無駄はない。一振り一振りが研ぎ澄まされ、静かな修練場に鋭い風を刻む。時間が過ぎていくのを感じさせぬほど、アレクは没頭し、鍛錬を続けた。
やがて、一時間半が過ぎた。
アレクの体内時計は常人の比ではなく、寸分の狂いもなく経過時間を察知していた。過度な鍛錬は却って身体を損ねる。彼はふっと息を吐き、剣を納める。
「……今日は、ここまでだ」
剣を収めた音が修練場に静かに響き、再び朝の静寂が場を包む。アレクはそのまま背を向け、無言で修練場を後にした。
そして——。
「おはようございます、アレクさん!」
廊下に出てすぐ、明るく弾けるような声が背後から飛んできた。
振り返れば、そこには焦げ茶色のセミロングに薄茶色の瞳をした、小柄で可憐な少女——屋敷のメイド、フィアラの姿があった。
「屋敷をご案内することになったメイドのフィアラです!よろしくお願いします!」
アレクが振り返ると、そこには人懐こい笑みを浮かべた少女が立っていた。焦げ茶色のセミロングの髪に、澄んだ薄茶色の瞳。白と黒を基調に、肩口の露出が特徴的なメイド服に身を包んだ姿は、可憐という形容がふさわしい。「綺麗」というより「可愛らしい」が似合う顔立ちである。
「あ、ああ。よろしく」
その明るさに一瞬戸惑いながらも、アレクは応じた。
「おい!俺もいるんだけど!」
隣で割り込むように声を上げたのは、派手な出で立ちの男、グリッドだ。しかし、フィアラはそれをさらりと無視し、満面の笑顔でアレクの腕に自身の腕を絡めてきた。近距離での接触により、柔らかい感触と淡く香るフローラルな匂いが否応なく意識に触れる。
正直、鬱陶しいと感じたが、無碍にするのは印象が悪い。好感度を考慮し、静かに受け入れる。
「あ、グリッドさんも付いてきてください」
一応は声をかけたが、その声音は明らかに棒読みで、先程までの熱量は見る影もない。
「おい!この差は何だよ!」
憤慨するグリッドに、フィアラは淡々と返す。
「あっ、そういうのいいんで、とにかくついてきてくださいね」
「アレクさん、まずどこから見たいですか?」
即座にアレクへと笑顔を向け直すその態度は、手慣れているとも言える。
「取り敢えず、今見える範囲から頼む」
「はい!かしこまりました!」
その明るさに最初は戸惑ったが、すぐに慣れた。早速、屋敷内を案内してもらうことにする。
「……何だこいつ……俺様を無視しやがって……女は全般的に好きだが、こいつは例外中の例外だな……元気すぎて鬱陶しいし、寸胴だし……」
背後ではグリッドが悪態をついていた。あえて聞こえるように口にしているのは明らかだ。すると、不意にフィアラはアレクの腕を離し、くるりと振り返った。
「な、何か文句あんのかよ!」
吠えるグリッドに、フィアラはにこやかな笑みを浮かべながらも目は笑っていなかった。
「……襲撃の時、あなたは何の役に立ったんですか?アレクさんのおまけで雇われただけなんですから、分を弁えてください。でないと、ねじ切りますよ?」
その言葉には、敬語と粗言が交錯し、得も言われぬ威圧感が宿っていた。何をねじ切るか、言葉にせずとも察せられる。
「ひっ……は、はい……」
グリッドが狼狽して返答するのを確認すると、フィアラは再びアレクの方へ向き直り、先程と同じ笑顔で腕を絡め直した。
「ではではアレクさん、参りましょう!」
「ああ、そうしよう」
グリッドが不満げに睨んできたが、アレクは意に介さず、フィアラのペースに身を任せた。
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「ここが食堂です。屋敷の外に私用がない方に限ってですが、基本はこの屋敷の者達が一堂に会して朝食、昼食、夕食を摂るのでまぁまぁ広い部屋です。当主様は食に関して拘りを持っている為、隅々まで綺麗なことはもちろん豪奢で雰囲気の良い部屋となっています」
「ああ、確かに食が進みそうないい部屋だ」
「…………」
アレクとグリッドは今、屋敷の食堂に案内されている。
主な構成としては三つの長テーブルが人が二人ほど通れる程の間隔を空けて川の字に並べられていた。
確かにフィアラが言うようにこの食堂は豪奢なのに加えて隅々まで掃除が行き届いている。
長テーブルの上にあるオブジェや部屋全体を彩る飾りなどがそこはかとなく良い雰囲気を醸し出していた。
これほどの食堂でほぼ毎日食事を摂ることができるのは素直に喜ばしいことだ。
「そうですよね!因みに屋敷の外で何か用事がない場合は朝は八時、昼は十二時、夜は十九時に全員食堂に集まると当主様が取り決めているので、この後遅れないようにしてくださいね!二〜三分程度の遅刻なら許してくださいますが、それ以上だとちょっと説教を受けてしまうので……っとではでは次は浴場をご案内します!」
そうしてフィアラは淀みない足取りで尚もアレクの右腕に左腕を絡ませながら、食堂を後にしようとする。
「ケッ、俺は付き合いきれねーぜ。もっといいメイドさんに案内してもら……」
だがグリッドは首を横に振ってフィアラが向かう先とは正反対の方に行こうとした。
「……いいから付いて来てください」
「わなくていーか!まぁ早く屋敷のこと知らねえと業務に支障が出るかもしれないしな!」
それもフィアラの冷めた一言で回れ右することになる。素直にこれほど強い威圧力を発揮する女を初めてみたと感心する。
破滅した世界にはこんな女はいなかった。
「そうだな、次だ」
他にも個性的な使用人がいるのかと思うと色々楽しみになった。
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「では、こちらが浴場です。男湯と女湯は暖簾の色で区別されており、内部は広く、全力で泳げるほどの浴槽がございます。さすがに今は中をご覧いただけませんが、実際に今晩お入りになれば、その広さを実感いただけるかと!」
フィアラは虚空に一瞬視線をさまよわせたのち、右手の人差し指を頬にあてる仕草を交え、ややあざとい調子で続けた。
「ちなみに浴場の利用は朝七時から夜の二十四時まで可能です。ただし、これは当主様とその御息女ティーネ様、お孫様のテリア様、並びに当主様の許可を得た者に限られます。その他の使用人たちは、日中の業務を終えた夜に限って入浴が認められております。――以上が、浴場における主な規則です。何かご質問はございますか?」
「いや、説明で充分だ」
アレクは簡潔に答えた。彼らが今立っているのは、浴場の前。左右に男湯・女湯と分かれており、その規模からして屋敷全体の大きさに違わぬものであることが察せられた。情報として仕入れていた王国の一般的な浴場とは、比べものにならぬ広さと設えだ。
まだ中を確認していないとはいえ、これからは日常的に風呂に入れるという事実に、アレクは自然と思いを馳せてしまう。
――破滅した世界で共にあった皆にも、こんな風呂に入って欲しかった。
時空を越えてから幾度となく感じてきた感情が、今回ばかりは殊更強く胸に迫った。あの世界では水の確保すら困難で、シャワーすら贅沢だった。アレク自身、風呂というものに入った経験は一度もない。
目を細めて、朝の光を浴びる湯屋の外観を静かに見つめる。胸奥に生じる渇望を、理性の底でどうにか押し込めた。
「なあ、ちょっと思ったんだけどよぉ……」
その時、不意にグリッドが口を開きかける。だが、
「それは良かったです!ではでは、次の場所に参りましょう!」
フィアラは満面の笑顔を浮かべながら、その言葉すら最後まで聞くことなく言葉を被せた。
「…………」
鬱陶しいグリッドの言葉を完璧に無視できる精神力に、アレクは内心で軽く舌を巻く。
しかし、今回は彼女を引き止める理由があった。
「なあ、フィアラ。さっきグリッドが話しかけようとしたことについて、答えてやってくれないか?」
「ええ……?どうしてですか?」
小首を傾げて問い返すフィアラ。愛嬌はあるが、明らかに乗り気ではない様子だ。
「俺が連れて来たんだ。もしこいつが屋敷に迷惑をかければ、その責任は俺にも及ぶ」
「……ふむ。まぁ、それも一理ございますね。仕方ありません。では、どうぞ」
納得したらしいフィアラは口を尖らせ、頬を膨らませるというあざとい仕草を添えたものの、最後にグリッドへ向けた言葉は冷ややかで、無表情に近い。
グリッドはしばし言葉を探すように黙っていたが、ため息を一つ吐き、再び問いかける。
「……それじゃ、聞かせてもらうけどよ。夜で、浴場が空いてる時間ってあるのか?あったら教えて欲しいんだけど。実はな、大浴場を貸し切ってみるってのが俺の夢だったんだよ。……なあ、あるよな?」
「…………」
返答の代わりに、沈黙がその場を支配した。
「ではでは、次に行きましょう〜!」
「ああ、すまないフィアラ。そうすべきだったな」
アレクが軽く肩をすくめるように言えば、フィアラはすぐさま歩みを進めた。
――そう、グリッドはいつもこういう男だった。
「な、なんだよお前ら!俺の質問がそんなに悪かったってのか!?おい!答えろよ女ぁ!」
「アレクさん!次は当主様のお部屋を案内します!」
フィアラの声に押されるように、アレクも歩を進める。後方からグリッドの喚き声が響いたが、二人は振り返ることなく先へと向かった。
やがて、グリッドも文句をぶつぶつと呟きながら、渋々後に続いてきたのだった。
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そこは、屋敷の当主にふさわしい、ひとりで使うには広すぎる部屋だった。
カーテン、カーペット、所狭しと並ぶ本棚——すべてが黒で統一されている。
壁だけは黒ではなかったが、それでも全体として重厚な雰囲気を醸し出していた。
中でも目を引いたのは、黒く、ひと目で豪奢とわかる机と椅子——まさにデスクセットと呼ぶべきものだった。
ただ、ベッドやソファといった家具が見当たらず、プライベートルームとしては不向きに思えた。
その疑問は、フィアラの説明で解消された。
「こちらが当主様の執務室です。当主様はこの街『クローデン』の国有地を含め、ほとんどの土地を管理する王国の重要な役割を担っておられます。
そのため、常に多忙で外出も多いのですが、執務はすべてこの部屋でこなされているのです。」
彼女は自分の説明に満足したように頷き、
「ではでは、次は当主様の私室をご案内しますね。すぐ近くですので、行きましょう!」
そう言ってアレクの手を引き、やや早足で歩き出した。
「わかった、すぐ近くなのはわかったから。そんなに急ぐ必要もないだろう。」
「いえいえ、善は急げというものですよ!」
その元気さは、落ち着きのない犬を連想させる。
「おい、てめぇ、もしかして故意に俺様を置いていくつもりだな?」
「とにかく行きましょう!」
「ちくしょう!悪態で返された方がまだマシだぜ!」
グリッドの喚き声が聞こえた気がしたが、フィアラは安定の無視で次へ向かった。
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「こちらが当主様の書斎兼私室です。執務室とは三部屋ほど隔てた場所に位置しています。当主様は仕事と休日を分けたいと考えておられる方ですので。
ただ、時には執務室でそのまま寝てしまうこともあるんですよ。
まぁ、それはともかく、当主様に用がある場合は、この部屋か先ほどの執務室のどちらかにいらっしゃいます。」
先ほどの部屋の豪奢なデスクセットを、ベッドとソファに入れ替え、いくつかの家具を足したような内装だ。
ベッドもソファも白、今回は壁も白、その他の家具も白で、先ほどとは真逆の白に統一された部屋だった。
執務室とプライベートルーム、それぞれの部屋の内装を考えれば、あのアルディという富豪が、かなりの完璧主義者であることがわかる。
「……っと、ここまでで何か質問はありますか?」
「一つ教えてくれ。当主様は私室よりも執務室にいることが多いのか?」
「あー、それを言うのを忘れてました。」
右手を顎に当て、舌を出すあざとい仕草を挟み、
「そうですね……割合で言うと、執務室が七割、私室が三割ですね。
結構、執務室にいることが多いです。
ただ、当主様は外出されることも多いので、それも合わせると、大体、外出四割、執務室四割、私室が二割ですね。」
事細かく丁寧に説明してくれた。
「そうか、これでよくわかった。ありがとう。」
「おう、じゃあ次は俺の……」
「ではでは!次はこの屋敷の人たちをご紹介しますね〜」
「あー、わかった。もうい……」
ぼやきまでも言葉の途中で遮られる。最早、完全にグリッドの存在は否定されていた。
それは最早、安定の扱いとして、フィアラが手を振って小走りに駆けていった。
その相手は、廊下の奥から歩いてくる当主のアルディだ。
ぴょこんと跳ね、歩いてきたアルディの隣に並び、
「こちらが当主のアルディ様です!細かいところもありますが、とてもおおらかで優しい方です。」
毎度お馴染みの元気いっぱいな声でそう紹介した。
「ははは、細かいところがあるのは部屋を見てわかっただろうが、これは性分みたいなもので変えられないんだよ。
まぁ、他者の存在を省みないで自分の性分を貫き通すつもりもないから、そこは安心してくれたまえ。」
「そう言って、アルディ様はこの前も部屋を片付けるメイテルさんに色々言ってたじゃないですか。」
「い、いや、あれはまぁ、部屋を掃除されるんだから、し、仕方ないんじゃないか、な?」
「と、こんな感じに我が儘なところもある人ですが、基本はいい人です。」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ、フィアラ君!」
「ではでは、次はメイドと執事、テリア様をご紹介します!」
彼女自身のご主人様さえも手玉にとって無視し、パタパタと廊下に消えていった。
それから待つこと五分。ぞろぞろとメイドと執事が集まってきた。
ざっと十人ほどのメイドと執事。その中に、親子と思しき手を繋いだ若い女性と、五歳程度の女の子が混じっている。
アレクには、それぞれに見覚えがあった。
先日の盗賊団の襲撃で人質を解放した際に、その親子と話をしていたのだから。
女の子は、あの時は事態が差し迫っていたので表情が曇っていたが、今は小さな目を輝かせ、愛らしく笑みを浮かべている。
若い女性も、あの時と違い、柔和な笑みで口元を綻ばせ、優しげに瞳を細めていた。
また、人質解放の際には薄暗い牢屋の中で話していたため、女の子は茶髪で、若い女性は亜麻色の髪なのは、たった今知ったことだ。
女の子の方は活き活きとした肌色をしており特に問題はないが、若い女性は細身かつ色白で触れたら消えてしまいそうな印象を受ける。
——もしかして……。
ハッとするアレクに女の子がテテテッと近づいてきて、
「お兄さんがみんなを護ってくれたすんごい強い護衛さんだよね!」
屈託のない笑顔を見せてはにかんだのだった。
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——さて、どうするべきか。
先ほどの紹介がすべて終わり、アレクは屋敷の門前に立ち、ひとつ息をついた。何人かはフィアラに劣らぬ個性の持ち主だったが、何よりも気掛かりなのは、当主アルディの孫娘・テリアに必要以上に懐かれてしまったことだ。
「アレ兄!アレ兄!アレ兄のお話し聞かせて!」
そう無邪気に連呼しながら、彼女は「兄」とでも言わんばかりに親しげな呼び方で絡んでくる。今日はやるべきことがあったため、明日遊ぶ約束で何とか納得させたが……彼女の相手は骨が折れそうだ。
しかしこれは、同時に好機でもある。
アレクは今後、他の者たちと表面的にでも良好な関係を築き、命懸けで得たこの地盤を固めていかねばならぬ。ただ、それは必ずしも直接関わる必要はない。テリアとの関係を深めておけば、屋敷内での立場は自然と築かれていくだろう。
——いや、今は考えても仕方がない。
おおよその未来ならば把握しているアレクではあるが、自身というイレギュラーの周囲に生まれる人間関係までは予測し得ぬ。ならば、やるべきことを淡々とこなすまでだ。
門が重く鈍い音を立てて開かれるのに合わせ、アレクは静かにその先の街へと足を踏み出した。
目に映るのは木造造りの住宅や店舗が整然と立ち並び、人々が行き交う賑やかな大通り。馬車がひっきりなしに往来しており、まさに商業都市『クローデン』の中心部と言ってよい光景が広がっていた。
「これが……商業都市『クローデン』か」
昨日、『迷いの森』を抜けた直後に通り抜けた街ではあるが、そのときは時間も心にも余裕がなく、まともに景色を見てはいなかった。
今はゆっくりと歩を進めながら、街並みに視線を配し、雑踏のざわめきに耳を澄ます。しかしその感慨も束の間、すぐに気を引き締める。
——今は新鮮味に浸っている暇などない。
やらねばならぬことは山積している。感動は、せめて次の脅威を排してから味わうべきだ。
アレクは己の記憶に焼きつけた地図をもとに、道を選びながら足早に進む。整った大通りもあるにはあるが、この街はそれ以上に脇道や裏路地が複雑に入り組んでおり、まるで迷路のような構造を成していた。
曲がりくねった裏通りを抜け、また別の細道へと入り……そうしてしばらく歩いたのち、次第に人影が少なくなっていく。家屋も商店も姿を消し、代わりに小道の傍に並行するように水路が現れ始めた。それは複数の小さな流れが束ねられ、まるで川のように太くなった人工水路であった。
人通りが減ったのは、街の中心部から離れたためだけではない。今アレクが向かっている先——そこに原因がある。
冷気すら漂う薄暗い裏路地を進み続けると、やがて視界の先にそれは現れた。
「……あれが」
それは、骨組みに原始的な石材を用い、随所に補強の跡が見られる建築物だった。だがそれが単なる祠ではないことは、一目見れば明らかだった。
豪邸と見紛うほどの大きさ。いや、むしろ“要塞”という語の方がふさわしい。
そして、その祠の入り口には、全身を重装備で固めた王国兵らしき者が二名、仁王立ちしている。その気配を探れば、内部にも多数の兵が控えていることがわかった。さらに、周囲には感知結界も張られている。
王国にとって、ここがいかに重要な拠点であるかは、それだけで明白であった。
ここがアレクの次なる目的地。しかし——
今は動くべき時ではない。
アレクは視線を逸らし、門を正面からではなく、右手へと迂回するように足を向けた。
この祠の監視網をかいくぐってまで向かうべき、もう一つの場所がある。
——さて、どうするべきか。
使用人たちの紹介がすべて終わり、今、アレクは屋敷の門前に佇んでいた。重々しくため息をつきながら、目の前の鉄門を見上げる。
何人かはフィアラと同様に強い個性を持っていたが、それよりも今、最も考慮すべきは——アルディの孫娘、テリアに過度なまでに懐かれてしまったことである。
「アレ兄!アレ兄!アレ兄のお話し聞かせて!」
そう呼ばれ、何度も「遊ぼう!」と誘われたのだ。本日はやるべきことがあったため、明日遊ぶ約束で宥めたが……あの明るさと勢いに応じ続けるのは骨が折れそうだ。
しかしながら、それは同時に好機でもあった。
これから屋敷内での立場を築いていくうえで、全員と直接的に関わる必要はない。だがテリアと親しくなっておけば、アルディ家内における立場の強化に繋がる。間接的とはいえ、計画遂行には十分な価値がある。
——いや、今から余計な先読みは控えておこう。
アレク自身、ある程度の未来は予見できる立場にある。だが、この異世界での人間関係までは読みきれぬ。イレギュラーな要素は常に起こりうるのだ。ならば、やるべきことを着実に成すのみ。
門が、芯に響く重低音を立ててゆっくりと開く。アレクは息を詰め、そして一歩、屋敷の外へと踏み出した。
視界に映るのは、木造でそこそこ堅牢な住宅や商店が立ち並ぶ街並み。そして賑やかに行き交う人々と馬車。ここは商業都市——クローデンである。
「……これがクローデンか」
初めて見る光景が、まるで目に新鮮な刺激を与えてくる。昨日『迷いの森』を抜け、街を駆け抜けた際には、その景色を楽しむ余裕などなかった。
しかし、ゆっくりと歩を進めながらも、その感慨に浸れるのは束の間。今は探索に割ける時間すら惜しい。次なる脅威に備えるべく、街を観察しつつも足早に目的地を目指す。
アレクは、頭に叩き込んだ地図を頼りに、迷路のような街を縫うように歩き進める。大通りは確かに存在するが、圧倒的に脇道の数が多い。それゆえ、この街は構造自体が複雑で入り組んでいる。
裏路地へ、さらに裏路地へ——。歩を進めるにつれて、周囲の人影は次第にまばらとなり、やがて人気は消えた。民家や商店もなくなり、代わりに現れたのは、道の端に沿って流れる水路。まるで川のように太い水流が静かに音を立てている。
このあたりが街の中心から遠ざかっていることもあるが、それだけが理由ではない。この先にある“何か”が、人の往来を遠ざけているのだ。
陰鬱とした裏道を抜けた先、ついにアレクの目にそれは映った。
「……あれが」
それは、原始的な石造りを基盤にしつつも、要所に補強の施された祠のような建物だった。大きさは小さな邸宅どころか、もはや要塞に等しい。目の前に立つだけで、常軌を逸した気配が肌を撫でる。
祠の入り口には、重装備の王国兵と思しき男たちが二人、無言のまま仁王立ちしていた。内側にも兵の気配が複数感じ取れるうえ、感知用の結界まで張られている。ここが王国にとっての重要拠点であることは明白だ。
アレクの次なる目的地——それが、この祠である。
しかし今は動くつもりはない。まずは“もう一つの場所”を確認しなければならなかった。アレクは祠に背を向け……いや、正確には右手へと足を進めた。守備兵に見咎められぬよう、気配と足音を完璧に殺し、身を屈めて静かに進路を迂回する。
祠を背後に歩を進めて十数分。アレクは、ようやくもう一つの目的地に辿り着いた。
そこは、かつて銅を産出した廃鉱石場。時代の流れに飲まれ、役目を終え、誰からも忘れ去られた場所——それが今、アレクの目の前に広がる荒れ果てた石屑の山である。
わずか三年で資源を出し尽くし、捨てられた鉱石場。だがアレクにとっては、それが今回の計画における要点の一つとなる。必要なのは、その石屑の持つ“性質”だ。
確認は必要だ。アレクは素早く石屑に近づき、大人の拳ほどの大きさの鉱石を二つ選び出すと、並べて置いた。そして懐から小瓶を二つ取り出し、中の液体をそれぞれに滴らせる。
——情報通りで何よりだ。
鉱石に生じた反応を見て、アレクは微かに口の端を上げる。だがすぐに表情を引き締め、速やかにその場を後にした。
この周辺には人の気配はなかったが、偶然王国兵が巡回に訪れる可能性が皆無ではない。今は不要な騒動を避けるべきだ。しかもアレクの身には、盗賊団との戦闘で受けた傷が未だ癒えていない。
次の一手に備えるためにも、完全な回復が必要である。今日はここまでで良い。
充分な下調べを終えた今、アレクは静かに来た道を引き返す。その背後、数メートル先にわずかな気配を感じたが——それには一瞥もくれず、歩みを止めることなく屋敷へと戻っていった。
この一連の行動は、屋敷内における信頼を得るための“布石”でもあるのだから。
ヒロイン一人目フィアラ登場。