大富豪救出作戦①
「ここはどっちだ?」
「ひ、ひぃ!み、右だ!」
悲鳴を押し殺したような情けない声が、背中から聞こえる。
アレクはその指示に従い、すかさず方向を変えて駆ける。
「な、なぁアレクの旦那? もうちょっとだけ減速してくんねぇかな?」
「これでも調整している。次は?」
「ひぃっ!ひ、左だ!」
時間がないというのに背中で文句を垂れる男——グリッドを睨みつけながら、アレクは再び加速した。
逸る気持ちを抑え、ただ前だけを見据えて。
「……あとどれくらいだ?」
「あと十分くらいだ!」
「簡潔に答えろ」
「わーっ!落ちる落ちる!わ、悪かったです!」
慌てふためくグリッドに容赦なく圧をかけ、アレクはひたすらに走り続けた。
——間に合え!
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アレクの次の目的は、クローデンで襲撃を受ける運命にある人物を救うことだった。
だが破滅した世界で得た史料は、あまりにも断片的だ。
クローデンの街並みをぼんやり把握しているに過ぎず、最短ルートまでは分からない。
方角は分かる。だが道は分からない。
無駄に時間を食うわけにはいかなかった。
クローデンは商業都市特有の入り組んだ構造を持ち、方角だけを頼りに進めば、時間がいくらあっても足りない。
しかも、史料自体が間違っている可能性もある。
ゆえに、案内役が必要だった。
通行人を捕まえて頼む方法もあったが、交渉の時間が惜しい。
たとえ交渉が成功しても、常人の歩く速度では間に合わない。
そこで、街並みにも詳しいと聞いていたグリッドを利用することにした。
もっとも、彼は本来なら王都へ護送されているはずだった。
罪は重く、情状酌量の余地は乏しい。
——アレクが手を回さなければ。
「そんな牢獄にぶち込まれるところを助けたんだ。今は俺に従え。次はどっちだ?」
「……感謝してる。次は右、その次は左だ」
怒りに震えるソゼリード一座をなだめるため、アレクは「脅されていた事実」と「信頼を売る案内人が裏切る不合理性」を論拠に説得した。
実際、グリッドが脅されていた証拠はあった。
だが、本来なら罪は免れず、軽い刑ですむ保証もない。
賊の痕跡が綺麗に消された以上、最終的には処罰される可能性が高い。
「この者は王国の練兵団に入団させ、監督下に置く。罪を贖わせる」
そう提案し、押し通した。
グリッドもその条件を飲み、今、アレクの背にしがみついている。
道案内として。
そしてこの先、さらに利用価値がある駒として。
しかし、今はそれを考えている暇はなかった。
運命を変えられるか否か。
全てはこの先にかかっている。
——急げ、間に合え!
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「今日は素晴らしい快晴だな。こんな日は日頃の苦労も何もかも忘れて、庭でゆっくり過ごすのが一番だな」
大富豪アルディ・クレイデルは、感慨深げにそう呟いた。
庭に生い茂る草木が陽光を浴び、キラキラと輝いている。その光景に、アルディは目を細める。
塀のないオープンなベランダに、わざわざ室内用のソファを運び込んだ甲斐があったというものだ。
この感動を独り占めするのは惜しい。そう思い、隣へと視線を向ける。
「フォーテンも、そう思わないかね?」
信頼の滲む柔らかな声で尋ねた。
「はい、旦那様のおっしゃる通りです。この陽だまりの中で過ごす時間は、私も大好きでございます。
草木も陽射しを浴びて、嬉しそうに見えますね」
答えたのは、三十ほどの銀髪銀瞳の男、フォーテン・クリンド。
上質な執事服に身を包み、優しげに細めた瞳と、泰然とした物腰。
ただ者ではないことが、一目でわかる。
低く芯のある声音は、聴く者に安心を与えた。
「うむ、まったくその通りだ。本当にいい日和だな」
フォーテンの実感のこもった返答に、アルディは鷹揚に頷く。
眩しい光を浴びる庭を、しみじみと見つめた。
「お茶菓子と紅茶をお持ちしました」
頃合いを見計らったように、フォーテンが声をかける。
右腕のブロンドの高級時計は、寸分違わず午後三時を指していた。
アルディの感慨に水を差さぬよう、完璧なタイミングだった。
それもすべて、計算づくなのだろう。
「——いつもながら、最高の美味だ」
茶菓子の味は格別だった。
見た目は普通のチョコチップクッキー。しかし、サクサクとした食感と、チョコチップに隠されたコーヒーの芳醇な香りが絶妙だ。
「何度思っても、君を雇えた私は果報者だよ」
アルディが素直に褒めると、フォーテンは優雅に腰を下ろして感謝を口にした。
完璧な礼節、非の打ちどころがない。
フォーテンは、アルディが最も信頼する使用人だ。
数年来の付き合いだが、その理由は、気配りと料理の腕だけではない。
炊事、洗濯、掃除に戦闘技術まで——
まさに万能の執事だった。
「フォーテン、お前を雇って、もう何年になる?」
ふと、アルディはそんな問いをこぼす。
「八年になります。はぐれ者だった私を、旦那様が拾ってくださった。今でも深く感謝しております」
突然の問にも、フォーテンは変わらぬ丁寧さで答えた。
「いやいや、君が私の期待に応え続けてくれたからこそだ。……そうか、八年にもなるのか」
アルディは天を仰ぎ、感慨深げに呟いた。
雲一つない青空が広がっている。
ゴゴゴゴゴゴ——
その時、不意に異様な金属音が響いた。
「……ん? どういうことだ?」
視線を庭へ戻したアルディは、目を見開く。
「何故、門が開いている!? フォーテン、これはどういうことだ!」
本来ならば堅牢に閉ざされているはずの門が、開いている。
しかも、今日は誰とも会う予定がない。
「……私にもわかりません。これは、まさか……」
フォーテンも表情を強張らせた。
その変化に、アルディも最悪の事態を悟る。
「旦那様、急いで逃げる準備を!」
いつも冷静なフォーテンが、焦燥を隠せず告げた。
額には汗が滲み、口元も歪んでいる。
それだけで、尋常ならざる事態だと知れた。
「賊です! 今すぐ!」
最悪の想像が現実になる。
「わ、わかった! だが、娘たちは——」
「……申し訳ございません。屋敷の者たちに警告を。
旦那様は一刻も早くお逃げください。ここは、私が食い止めます!」
その時にはすでに、門は完全に開き、賊たちが雪崩れ込んできていた。
フォーテン一人で、多勢を相手取れるはずもない。
いくら信頼しているとはいえ、武の力までは確証できないのだ。
門から駆けてくる一人の賊が、凄まじい速さでアルディを目指していた。
身体強化か、何らかの異能だろう。
迷っている暇はない。
「……すまない、フォーテン」
娘と孫のため、アルディは逃げる以外になかった。
信頼する執事に背を向け、必死に走る。
だが——
「いや、残念だがな。
あんたの大事な娘と孫は、もう人質になってるぜ」
無慈悲な声が、アルディの希望を打ち砕いた。
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「そ、そんな……ティーネ、テリア……」
娘と孫が人質に取られたと聞かされ、アルディは絶望のまま膝をついた。
「お待ちください、旦那様! ティーネ様とテリア様が人質になっているかは、まだ定かではありません!
こいつらが私たちを動揺させるために言っただけかもしれません!」
フォーテンは必死に賊の言葉を否定しようとする。
だが、すぐに別の違和感に気付き、言葉を詰まらせた。
「屋敷に人の気配がないだろ? 人質は全員、立派な修練場に押し込んである。
丁寧にわかりやすくしてやったんだ。抵抗なんかしたら、まとめて皆殺しだけどな」
賊のリーダー格らしき男が、下卑た笑みを浮かべながら傲慢に言い放つ。
ギラギラとした欲望を宿す鋭い瞳、獰猛な八重歯が覗く口元。
黒いシャツに薄紅の背広。賊にしては妙に仕立てのいい服だが、盗品だろうとアルディは思った。
素人目にも濃い武の気配がわかる。
しかも、先に人質を盾にしてフォーテンを封じた頭の良さ。
一目で底知れぬ相手だと悟った。
それでもフォーテンは怯まず、苛烈な視線を向ける。
「待ってください! アルディ様の屋敷は高い塀と数々の感知式罠に囲まれ、侵入は不可能なはず。
どうやって中へ入り、人質を取ったのですか?」
「そ、そうだ! 門以外からは入れないはずだ!」
アルディも同じ疑問を抱いていた。
最も警戒していた事態が、なぜ起こったのか。
「ああ、普通そう思うよな。実際、あんたの警戒は万全だった」
男は肯定し、しかし悪びれる様子もなく続けた。
「だから内側から崩してもらったのさ。3年前に一人、2年前にもう一人。
お前が雇った執事2人……デイニー、スラン、だったか? 偽名だけどな。
そいつらが上手くやったってわけだ」
「デイニー、スラン……まさか……」
「そ、そんな長期間……!」
衝撃に言葉を失う二人を遮り、男は圧をかける。
「いいか、もうあんたらは負けたんだ。
大人しく従え。戯言言ってる間に、人質を殺すぞ?」
フォーテンは冷静に両手を上げ、無抵抗を示した。
「……わかりました。抵抗はしません。ただ、人質には手を出さないでください」
「おう、さすがフォーテンさんだな。わかってるじゃねぇか」
男はにやつき、何度も頷く。
他人を踏みつけにする快感に浸るような、胸糞悪い笑みだった。
「わ、わかった。私も従う。だから、娘たちと使用人たちにだけは手を出さないでくれ!」
アルディも、屈辱に震えながら跪く。
「おうおう、いい判断だ。嫌いじゃねえぜ、そういうの」
男はさらに笑みを深め、縄を取り出して二人を縛り上げる。
「さて、楽しい搾取の時間といこうか」
動けなくなったアルディとフォーテンを見下ろしながら、男は軽やかに告げた。
続けてぞろぞろと賊たちが集まり、二人は人質のもとへと連行される。
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「ほ、本当に人質には何もしていないのか……?」
縛られながら、必死に問うアルディに、男は肩を竦める。
「何もしてねぇよ。まあ、抵抗したら少しくらいは痛めつけてるかもしれねぇがな」
「くっ……! 娘たちに何かあれば、私は絶対に従わんぞ!」
「落ち着いてください、アルディ様。今は逆撫でしない方が得策です」
フォーテンが小声で諭す。
その助言の直後、男が無造作にフォーテンの腹を蹴った。
「ぐっ……!」
「ガタガタぬかすな、じじい。大人しく従ってろ!」
アルディは悔しさを押し殺し、頭を垂れるしかなかった。
今、無為に逆らえば、愛する者たちの命が脅かされる。
「……さーて、着いたぜ」
歩かされること一分ほど、やがて見えてきたのは、アルディ邸から少し離れた場所にある修練場だった。
正方形の土地を贅沢に使った木造の建物。
広い出入り口と数多くの窓。通気性を考えた造りだが、今は入口が閉ざされ、内部の様子は伺えない。
「ティーネ! テリア!」
胸の不安が膨れ上がり、アルディは堪えきれず名を叫ぶ。
「……まぁ、そのくらいは許してやるよ。どのみち、これからやりたい放題できるんだからな」
賊の男は肩をすくめ、再び下卑た笑みを浮かべた。
「よし、デイニー、スラン! 扉を開けろ! それからテリアを連れて来い!」
だが——
「…………」
返事がない。
「おい、どうした! デイニー! スラン!」
再び呼びかけるが、沈黙が続く。
「くそっ! 何やってやがる! お前ら、様子を見て来い!」
苛立ち、男は部下たちに命じた。
ボシュッ——
その瞬間、白煙が弾け、辺りを包み込んだ。
「な、何だ!? まさか……!」
動く影を見咎め、男が手を伸ばす。だが遅い。
「っ……!?」
アルディは、誰かに抱き上げられ、口を塞がれる。
一瞬の隙を突かれ、フォーテンと共に庭の隅へと運ばれていった。
「くっ……やられた……! 逃がすな、門を押さえろ! 探し出せ!」
白煙が晴れたとき、当然二人の姿はなかった。
怒り狂った男の怒号が、場を支配する。
「……だが、俺たちには人質がいる。急げ、修練場へ! 人質を連れて来い!」
我を取り戻し、指示を飛ばす男。
アルディは歯噛みした。
——結局、人質が殺されれば、すべてが終わる。
そんな絶望に飲まれかけたそのとき。
「大丈夫です。人質はすでに救出して隠しました。
あなた方は自分の身を優先してください」
低く、凛とした声が聞こえた。
黒髪黒眼の男。鋭い光を宿す瞳だけが、印象に残った。
「バスカ様! 大変です! 修練場に人質がいません! 代わりにデイニーとスレインが縛られて……!」
「くそがっ……! どっちでもいい、アルディでも人質でも、草の根分けても探し出せ!」
賊たちが一斉に散る。
「……あなたは?」
フォーテンが問うと、男は短く答えた。
「私は賊を壊滅させます。執事殿、アルディ様の護衛をお願いします」
「しかし、一人であの数を……」
「大丈夫です。時間がありません。任せてください」
男はそれだけ告げると、賊たちの前に飛び出す。
「人質を解放したのは俺だ。
場所を知りたければ——俺を倒して、吐かせてみろ」
そう挑発しながら、懐から二本の剣を抜き放ち、構えた。
※※※
「人質を解放したのは俺だ。居場所を知りたければ、俺を倒してみろ」
草むらから一人の男が飛び出した。両手に握られた二本の剣が、陽光を反射して鋭く光る。
その姿を認めたバスカ・ヴァイグは、苛立ちを押し殺しながらも、低く唸るように問いかけた。
「……人質を隠したのはお前か。アルディも、だとすれば……お前、何者だ?」
男は冷ややかに答えた。
「俺が何者かなど、教える義理はない。それよりも、これだけ周到に襲撃を仕掛けてきたお前たちこそ、ただの賊ではないだろう。俺は、お前たちの正体を知りたい」
バスカは無言で応じた。
「……どちらが何者かなど、力づくで答えさせれば済む話だ」
そう言い放つと、バスカは部下たちに命じた。
「お前ら、やっちまえ!」
「おおお!」
号令とともに、九人の兵が一斉に男へと襲いかかる。
二人の兵が前後から挟み撃ちを仕掛ける。
男は左へと身を翻すが、兵たちは軌道を修正し、追撃した。
金属音が響き渡る。男の双剣が、迫り来る斬撃を受け止める。
しかし、その背後から三人目の兵が襲いかかった。
「くっ!」
男は苦しげな声を上げながらも、鍔迫り合いの状態を脱し、右へと身を投げ出して避ける。
だが、その先にも新手の兵が待ち構えていた。男は咄嗟に左手の剣で受け止める。
ここまで防がれるとは、予想外だった。
しかし、これで体勢を崩した。九人の兵が一斉に斬撃を放つ。
だが、男は双剣を巧みに操り、多くの斬撃をいなし、回避不能な攻撃は最小限の傷で凌いでいた。
「はぁ……はぁ……」
男は肩で息をし、身体には五つ以上の傷が刻まれていた。
「ちょいと驚いたもんだが、これで終わりだな」
バスカは再び部下たちに命じた。
「挟み撃ちだ!」
男は再び左へと逃れる。
しかし、その動きに違和感を覚えたバスカは、男の左手の剣が逆手に持ち替えられていることに気づく。
「なんで、片方逆手なんだ?」
その疑問が脳裏をよぎった瞬間、男は逆手に持った左手の剣を投擲し、一人の兵の腹に突き刺した。
同時に、右手の剣で迫り来る斬撃を迎え撃つ。
さらに、空いた左手で四本のナイフを取り出し、四人の兵の頭部に正確に投擲した。
「なっ……」 
バスカは言葉を失った。
五人の兵が瞬時に倒れ、動揺が広がる。
男は右手の剣で近くの兵を斬り飛ばし、再び逆手に持ち替えて投擲。
さらに、両手でナイフを八本取り出し、投擲する。
「ナイフを投げさせるな!」
バスカは斧を構え、守りの態勢に入る。
十本のナイフが放たれ、バスカは三本を防ぎ、他の三人の兵は手足を負傷し、戦闘不能に陥った。
「……そんな分析しても無意味ではあるが、当たってるとだけ言っておこう。それよりも後はお前一人だな」
男は冷静に答え、双剣を構える。
バスカは怒りを露わにし、斧を手に男へと突進した。
「はぁぁぁぁ!!」
「がぁぁぁぁぁ!!」
裂帛の気合いが交錯し、二人の戦士が激突する。
****************************
実際のところ、アレク一人でも方向感覚を頼りに走れば、アルディとその執事フォーテンを助けるには十分間に合っていた。
だが、それは“彼らを助けるタイミング”に間に合うという意味であって、人質まで救うことは叶わなかっただろう。
今回の目的を果たすために最も守るべきは、その“駒”——すなわち、アルディの娘と孫、そして使用人たちだった。彼らが賊に押さえられている状態は、いわば盤面が詰んでいるに等しい。
だからこそ、アレクはグリッドを案内役に据え、一刻も早く邸へとたどり着き、人質を先に解放する必要があった。
もちろん、私有地に侵入するには気配を悟られないようにしなければならない。だがその点は問題なかった。すでに隠密行動に必要な道具はすべて用意してあったのだ。
——「人質を解放したのは俺だ。場所を知りたければ、俺を倒してみろ」
盤面を有利に整えさえすれば、後は賊の掃討に集中するだけでいい。初めて強気な啖呵を切り、正面から力を振るう態勢が整った。
ただし、『迷いの森』で遭遇した賊とは違い、今回の敵は格が違った。数こそ少なかったが、それ以外はまったく異質だった。
武器の手入れは行き届き、統率は取れており、個々の剣技も優れている。中でも厄介だったのが、息もつかせぬ波状攻撃を生み出す緻密な連携の妙——それは、単なる野盗ではなく、訓練を積んだ別種の戦闘集団を思わせるほどだった。
しかし、この手の連携は一点が崩れれば瓦解するという脆さを持つ。アレクには、それを見抜き、崩す技術があった。血のにじむ鍛錬の日々は、決して無駄ではなかった。
——「後は、お前ひとりだな」
十一人いた敵のうち、アレクは七人を仕留め、三人を戦闘不能に追いやった。残るはただ一人——あの集団のリーダー格である男。
「……てめえ、よくもやってくれたな。絶対に許さねえ。生け捕りにして、拷問して、八つ裂きにしてやる」
その男の危険性は、戦闘前から察していた。肉食獣のような双眸、空気すら刺す殺気。両手に構えた二丁の斧は、異様なほど彼の体に馴染んでいた。
斧はどちらも上下の刃が鋭く尖り、黒い刀身がまるで殺意そのもののように鈍く光っている。柄もまた特異な素材で作られており、木ではない何か——得体の知れない黒光りする物質だった。
彼は激昂していた。だが、それでも冷静さを失わない。アレクの戦いぶりから慎重に、そして理知的に分析を続けているようだった。
明らかに、修羅場をいくつも潜り抜けてきた猛者だ。その立ち居振る舞い、その間合いの取り方、どれを取っても隙がない。
——一筋縄ではいかない相手だが、やるしかない。
できれば戦闘は避けたいところだったが、ここまで来ればもう選択肢はない。全力を尽くして倒すのみだ。最悪、殺してしまっても構わない。まだ三人、賊は残っている。手加減など必要ない。
「はぁぁぁぁ!!」
「がぁぁぁぁぁ!!」
交錯する気合いが空気を震わせる。アレクは両手に握った二本の剣を掲げ、最後の壁へと挑みかかった——。
****************************
刹那、二人の間の距離が爆ぜた。
轟音のような足音と共に地面が揺れ、疾風の如く飛び出したのはバスカ。両手に構えた斧が唸りを上げ、重さと鋭さを兼ね備えた刃が、斜め上から振り下ろされる。
「ッ!」
アレクは一歩も退かず、両の剣を交差させてその斬撃を受け止めた。
だが、重い。
全身にのしかかる圧力に、靴の裏が土を抉り、剣が唸るように軋む。
「はああああっ!」
バスカはそのまま力任せに二撃、三撃と斧を打ちつけてくる。
斧が交互に振り下ろされる度に、剣が悲鳴をあげ、アレクの体が軋む。
だが、ただ耐えるだけではない。
アレクはその合間に細かなステップで間合いを調整し、斬撃の軌道を斜めに逸らすように受け流していた。
身体強化によって尋常でない威力となっていた斧撃は受け流さなければ腕ごと粉砕されてしまうだろう。
「ぬうっ!」
バスカの額に汗が滲む。全力の一撃を何度も浴びせているというのに、アレクはまるで芯を折らせないまま防ぎきった。
その柔軟さと冷静さ、そして……確かな技量にバルガの苛立ちが募る。
「なら——ッ!」
斧の一つを投げた。
空を裂くように回転する刃が唸りを上げ、アレクの左肩めがけて迫る。
アレクは即座に左の剣で弾こうとするが、それを読んだバスカが、もう一方の斧を低い軌道で踏み込みながら突き出してきた。
「チッ!」
アレクは剣をクロスさせ、反射的に二つの刃の動きを止める。だがバスカの巨体が勢いのまま押し寄せてきた。
その膂力に、アレクの足が浮き、数メートル後方に吹き飛ばされる。
「ぐ……っ」
土煙を上げて地面に背中を打ちつけたが、アレクは即座に転がって体勢を整え、息を乱すことなく立ち上がる。
「まだかよ……まだ立つのかよ、てめえは!」
バスカは斧を拾い直しながら吼えた。だがその瞳には恐れすら宿り始めている。
アレクは深く息を吸い、剣を逆手に持ち替えた。
その構えは、迷いの森で見せたものと酷似している。
だが今は、それ以上だ。
「……俺は、ここで負けられない」
その言葉と共に、空気が変わった。
呼吸が深くなり、筋肉が研ぎ澄まされる。
その場の重力すら変化したかのような圧力に、バスカの背筋がわずかに震えた。
「来いよォッ!!」
応じるようにアレクが地を蹴った。
——瞬間、視界から消えた。
「な——がッ!!?」
バスカの腹部に一撃が突き刺さる。
避けようとした時には既に斬られていた。剣が骨の手前で止まり、激痛が走る。
怒号を上げながら反撃の斧を振るうが、アレクはその斬撃の中を潜り抜け、今度は背後から斬り裂いた。
「ぐおおおおッ!!」
バスカの叫びがアラディ邸に響く。
血が舞い、斧が地に叩きつけられる。
その刹那、アレクは間合いを取り、宙を斬るように構え直した。
「……終わりだ」
踏み込む一歩目が地を砕き、二歩目が風を切り、三歩目で——
「やめろォォォォ!!」
絶叫するバスカの瞳が、恐怖に染まる。
しかしアレクの剣は、その声に一切の揺らぎを見せず、一直線に首筋をめがけて振り下ろされた。
斬撃が空を裂き、火花が走る。
そして——
刃がバスカの頸動脈を掻き切り、盛大な赤を飛沫させた。
「これでまた一つ目的に近付いたな」
アレクの目は冷たかった。
勝者の瞳ではなく、目的のためだけに命を秤にかける者の目だった。
アレクは剣を納め、静かに呼吸を整えると遠くに潜ませておいたグリッドへ合図を送り、
ーー力を制限されている不安はあったが、なんとか最初の目的は達成できたな……。
一人内心で呟いた。




