レンティアにて 〜対暗殺者戦〜
夜明け直前――渓谷を渡る霧はまだ薄藍に沈み、草葉の露が月明かりを零す神秘的な時刻。
滝見台へ続く狭い遊歩道には、灯篭代わりの松脂松明が等間隔で差してある。
湿気を帯びた炎がくぐもった橙を揺らすたび、谷底から吹き上がる風が ピィ――ッ と甲高く鳴った。
その音色に、アレクの背筋がわずかに強張る。自然の音に紛れ込んだ人工的な響き――合図に偽装した鳥笛である。
何の警戒も張らなければ、ただの山鳥の声に聞き違える細い音色。しかも二度。
意図的な反復は、経験豊富な彼にとって明確な警告だった。
その瞬間、アレクはわざと視線を逸らさず、白木の欄干に指を沿わせた。
指先に伝わる木の質感を確かめながら、周囲の異常を探る。
「右側、茂みの影が一つ多い」
小さくつぶやいた言葉は風に溶け、フォーテンだけが僅かに頷いた。
長年の連携が培った無言の意思疎通。彼女の瞳に宿る鋭い光が、戦闘態勢へと切り替わる。
次いで、遊歩道を挟む左右のヤマツツジの茂みがわずかに「呼吸」を変える。
まるで生き物のように、伸びた枝葉が内側へ巻き込むように折れ、続いて地面を蹴る柔らかな足音――ジャリッ と粘土質の砂利が捻れた。
月光がひときわ冴える斜面へ、影が五つ。その後方から、もう一段小さな影が滑り出る。一目で訓練された歩法。荷重を吸収しながら斜面を下る独特の重心移動だ。アレクの眼には、彼らの一挙一動が計算されつくした殺戮の舞踏に見えた。
先頭を切った細身の女暗殺者――後にピスと名乗ることになる彼女は、身長こそフィアラと同程度だが、その身のこなしには野生動物のような俊敏さが宿っていた。
腰の回転が異様に速く、まるで回転軸そのものが体内で独立して動いているかのような、人間離れした柔軟性を見せる。
月光が彼女の輪郭を浮かび上がらせる瞬間、袖口を翻す軌道で二振りの短いレイピアが月を掻くように抜かれた。
その動作は一瞬――いや、一瞬未満。刃が鞘から離れる音すら聞こえない、完璧に制御された抜刀術。
刃渡りはわずか四十センチほど。しかし剥き出しのスチールは光を吸うほど黒く、まるで夜そのものを鍛え上げたかのような異様な輝きを放つ。
研ぎ澄まされた刃先が空気を切る度に、ヒュン、ヒュンと微かな唸り声を立てる。
その音は、死神の囁きのように不吉だった。
着地と同時に踏み足を切り替え――右足から左足へ、体重移動は水のように滑らか。
左脚を大きく前へ踏み出すと同時に、右のレイピアが鋭い刺突を繰り出す。
狙いはアレクの心臓――致命傷を狙った一撃必殺の構えだった。
その刺突の軌道は完璧だった。無駄な動きは一切なく、最短距離で最大の威力を発揮する。
刃先がアレクの胸元に迫る瞬間、空気が震えるほどの殺気が放たれる。
しかし、フォーテンは既に動いていた。走りながら足裏で結界符を踏み抜く――その足音は、まるで太鼓を叩くように力強い。
踏み抜かれた符は瞬時に光を発し、魔力の波動が同心円状に広がっていく。
気配遮断の半球が瞬時に展開される。半径約五メートルの魔力場が形成され、その内部では音も匂いも、そして殺気さえも外部に漏れることはない。
空気がぬるりと沈む一拍――まるで水中に潜ったような、重く粘りのある感覚が辺りを包む。
女暗殺者の肩がわずかに――ほんのわずかに揺れた。訓練された殺し屋といえども、突然の魔力場の変化には一瞬の動揺を隠せない。
その僅かな隙が、彼女の完璧な攻撃軌道に微細なブレを生じさせる。
と同時にフォーテンは回頭――左足を軸にして身体を180度回転させ、懐から取り出した拳甲を構える。
その拳甲は魔力を帯びており、青白い光を放っている。
しかし女暗殺者は只者ではなかった。遅れを帳消しにする鋭角の切り返し――右足を支点に、左足を大きく外側へ振り出し、体勢を立て直す。
その動きは、まるでバレエダンサーのように優雅でありながら、同時に致命的な殺意に満ちていた。
右レイピアが水平に――フォーテンの首筋を狙った横薙ぎの一撃。左のレイピアがわずかに遅れて斜上へ――心臓と肺を貫く上段突き。
二枚構えで死角を完全に潰す、隙のない攻撃パターンだった。
その瞬間、アレクが動いた。右手に握られた匕首が、まるで生き物のように宙を舞う。
投擲の軌道は放物線ではなく、むしろ直線に近い――それほどの速度と精度で投げられた一撃だった。
――ギィン!
甲高い撞着音が夜の静寂を破る。金属同士の激突が生み出す火花が、一瞬だけ辺りを照らし出す。
アレクの匕首が、ほぼ並進してきた二振りのレイピアの内、右剣の根本――ちょうど護拳と刃の境界部分に絡み付くように弾き当たった。
その衝撃で、右のレイピアの軌道が大きく逸れる。同時に左剣も、バランスを崩した女暗殺者の体勢の変化により角度を失い、フォーテンの袖口を切り裂くに留まった。
布が裂ける乾いた音と共に、わずかな血飛沫が舞う。
「投射軌道を読んだ? 厄介……!」
女暗殺者――ピスの声には、計算外の事態に対する苛立ちと、同時に手強い相手への敬意が混じっていた。
一歩後退しながら、両手のレイピアの刃先を小刻みに揺らす。
それは次の攻撃のための予備動作であり、同時に相手の動きを牽制する意味もあった。
続けざまに手信号。月光を遮った指の影が三度、素早く動く――「仕掛けろ」の合図だ。残る暗殺者たちが一斉に動き出す。
左右に散開した三名の暗殺者が、弧を描くように移動しながら短弓を引き絞る。
その動きは統制されており、まるで一つの意思で動く多腕の化け物のような連携を見せた。
矢羽根は通常のものより細く、先端には緑がかった液体が塗られている。
毒針か、もしくは麻酔入りの矢――いずれにせよ、掠っただけでも戦闘不能に陥る危険な代物だった。
三本の矢が同時に放たれる。ヒュン、ヒュン、ヒュンと空気を切り裂く音が連続して響く。
狙いはそれぞれ異なり、一本はアレクの胸部、一本はフォーテンの頭部、もう一本はメイテルの脚部へと向かう。
フォーテンは瞬時に結界を拡張――気配遮断の結界を人払いを覆う帳に変換する。
魔力の性質を瞬時に変化させる高等技術。
結界の色が青白から淡い金色へと変化し、飛来する矢を弾き飛ばす。
金属と魔力が激突する音――キン、キン、キンと三連続で響く。
弾かれた矢は軌道を変え、地面や木々に深々と突き刺さる。その威力の程が窺い知れる。
同時にフィアラが動く。
右手を大きく振りかぶり、炎弧を描くように魔力を放出する。
オレンジ色の炎が弧を描いて飛び、側面から暗殺者たちを牽制する。
炎の温度は摂氏800度を超え、触れるものすべてを焼き尽くす威力を持つ。
メイテルも応戦に加わる。袖口が風をまとい――いや、正確には風を操っているのだ。
彼女の周囲の空気が渦を巻き、まるで見えない刃のように暗殺者たちの動きを阻害する。
風の刃が暗殺者二名の足元を掠め、彼らの体勢を崩す。
バランスを失った暗殺者たちは、次の攻撃のタイミングを逸してしまう。
その間にも、崖下では別の脅威が着々と準備されていた。
垂直ロープを伝って降りた二名の暗殺者は、まさに爆破工作の最終段階に入っていた。
円筒状の魔薬筒――長さ約30センチ、直径10センチの金属製容器の中身は、塩硝と魔力誘導粉の混合物。
この組み合わせは、魔力を触媒として通常の火薬の数倍の威力を発揮する。
翼のような導爆紐を両脇へ展開する作業は、時計職人のような精密さを要求される。
ねじれた麻紐の芯に鋼線が通され、そこに魔力を流すことで瞬時に発火する構造。
一本でも配線を間違えれば、作業者もろとも爆発してしまう危険な代物だった。
「支柱ごと吹き飛ばせば橋は落ちる。上へ注意を向けさせろ」
囁きは滝音よりも小さく、しかしその言葉には冷酷な計算が込められていた。
彼らの計画は単純明快――橋を崩落させて逃げ道を断ち、上から落下してくる標的を始末する。
導爆紐の準備が完了する。
パチッ と小さな紫電が走り、紐の付け根がマッチのように燃え始める。疾く火花が走り――爆発まで残り3秒。
上方では、アレクが崖下の異変に気づいていた。フォーテンとの視線の交錯――それは言葉以上に雄弁な警告だった。
「崖下!」
その視線が爆音より速く警告を刻んだ瞬間――
ドンッ
重く、鈍い爆発音。しかし、奇妙なことが起こった。爆発の光は放たれ、衝撃波も発生したにも関わらず、「崩壊の絵」は動かない。
岩盤は爆ぜかけ――亀裂が走り、破片が舞い上がろうとしている。
支柱は折れかけ――鋼鉄の梁が捻れ、今にも砕け散りそうになっている。
飛沫は拡散しかけ――水滴一粒一粒が空中で静止している。
なのに、それらすべてが時間の噛み合わぬジオラマのように完全に静止していた。
まるで世界そのものが一時停止ボタンを押されたかのような、現実離れした光景。
暗殺者たちの瞳が反射光で見開かれる。その表情には、理解を超えた現象への恐怖が刻まれていた。
「爆発が……止まった……?」
動転したのは一瞬だった。
細剣の女ピスが深く息を吸い、呼気を鋭く吐き出すと同時に手元のレイピアを返す。
その動作は、まるで居合の型のように美しく、同時に致命的だった。
けれど、そのわずかな間隙――ほんの0.5秒程度の隙を、フィアラは逃さなかった。
右手を前方へ突き出し、掌から炎弧を放つ。しかしこれは通常の炎ではない。
魔力によって圧縮・加速された炎の塊が、弾丸のような速度で横薙ぎに放たれる。
その速度は音速に迫り、空気との摩擦で青白い光を帯びていた。
炎弧が空気に触れた瞬間、周囲の温度が急激に上昇する。
摂氏1200度を超える超高温が、狙撃役の弓手二人を瞬時に飲み込んだ。
彼らの黒装束が一瞬で炭化し、悲鳴を上げる間もなく戦闘不能に陥る。
同時に、フォーテンが前進する。
魔力を帯びた拳甲が青白い光を放ちながら、崩れた体勢の暗殺者の肩口を狙う。
その一撃は正確だった。
拳甲の先端が暗殺者の鎖骨に命中した瞬間、乾いた骨の折れる音――パキッ――が響く。
暗殺者は呻き声を上げながら地面に崩れ落ちる。
メイテルもまた、その瞬間を逃さなかった。
袖口から放たれる風の刃――それは目に見えない透明な刃物として、空気中を高速で移動する。
軌道干渉の術。飛来する敵の攻撃の軌道を、風の力で微妙に逸らす高等技術。
当てるはずだった風刃を僅かに逸らし、襲撃者の攻撃を無力化していく。
風の刃が暗殺者の武器を叩き落とす音――カランッ。短剣や投げナイフが地面に散らばる。
武器を失った暗殺者たちは、もはや有効な反撃手段を持たない。
「ッ――退け!」
ピスの疾呼が夜空に響く。
しかし、既に戦況は決していた。
仲間たちは戦闘不能に陥り、自分一人では到底勝ち目はない。
彼女は腰のベルトからワイヤーランチャーを取り出すと、峡谷の向こう側へ向けて射出する。
金属製のフックが岩場に食い込む音――ガチンッ。
ワイヤーを握りしめ、体重を預ける。そのまま峡谷の濃霧へと飛び去っていく。
その姿は一瞬のうちに霧に溶け、まるで最初から幻だったかのように消失した。
残された暗殺者たちに待っていたのは、組織の非情な掟だった。
フォーテンたちが拘束を試みた瞬間、彼らの口端から黒い液体が溢れ出す。
それは毒――しかし単なる毒ではない。魔力逆流を引き起こす特殊な毒物だった。
体内の魔力回路を逆行させ、生命力そのものを燃やし尽くす恐ろしい薬物。
ジュッ――という蒸気の音と共に、暗殺者たちの肉体が内側から崩壊していく。
皮膚が煙を立て、筋肉が溶解し、最後には骨すらも灰となって風に舞う。
完全な証拠隠滅。
顔も身元も、DNA さえも残さない完璧な自害システム。これこそが伝説の暗殺集団《死冥》の恐ろしさだった。
崩れなかった支柱の爆煙が、遅れて噴き出す。空中に取り残されていた岩塊はその瞬間、まるで質量を思い出したかのようにストンと重い音を立てて落下した。
フィアラが熱風で粉塵を拡散し、フォーテンが《無感結界》で爆声を吸い取る。戦いの痕跡を自然に還そうとするかのような、静かな後始末が続く。
滝見台へ射す一条の朝日が、今度こそ本来の速度で水飛沫を金色に変えた。戦いは終わり、日常が戻ってくる。
しかし、霧の向こうに消えたピスの瞳に宿っていた光――それは復讐への炎だったのか、それとも畏敬の念だったのか。
その答えは、次なる邂逅まで闇の中に封じられることとなった。




