次なる目的地
――世界が、一拍だけ脈打ち、そして凍りついたようだった。
何かが爆発した気配がした。
確かに、鼓膜を圧迫する空気の振動と、網膜を焼く閃光の予兆はあったのだ。
だが、その先に訪れるはずの轟音も、肉を焼き焦がす熱波も、建物を粉砕する衝撃も、忽然と消失していた。
まるで、その瞬間のページだけが世界の記録から破り捨てられたかのように。
数分後。
執務室の空中に、奇妙な物体が鎮座していた。
それは、アレクがとっさに脱ぎ捨てた上着だ。
だが、それは床に落ちることもなく、空調の風に揺れることもなく、あろうことか空中の一定座標に完全に「固定」されていた。
まるで、透明な琥珀の中に封じ込められたかのような絶対的な静止。
布地の皺ひとつ動かない。重力という星の理さえも、その領域だけは無視されているかのようだ。
そして何より異様なのは、その内側で荒れ狂っているはずの破壊エネルギーが、薄い布一枚を隔てて微塵も感じられないことだった。膨らみもしなければ、焦げもしない。ただそこに、切り取られた空間として存在していた。
アレクがゆっくりと手を伸ばし、その「静止した上着」に指先で触れる。
その瞬間――世界から切り離されていた因果が唐突に修復されたかのように、上着は重力という枷を思い出し、ドサリと重い音を立てて床へ落ちた。
「やれやれ……“あの感覚”が戻ってなければ、今頃俺たちは壁の染みだったな」
アレクは足元の上着を見下ろしながら、誰にも聞こえぬ声量で独りごちる。
傍目には、アレクがとっさに上着で箱を包み込んだだけにしか見えないだろう。だが、その内側で起きた現象は、物理法則の彼岸にある。
干渉の拒絶。変化の否定。
破壊しようとする力と、それを無効化する絶対的な「殻」。
行き場を失った爆風と熱量は、逃げ場のない閉鎖空間の中で互いに干渉し合い、相殺され、無へと帰したのだ。
アレクが床の上着を拾い上げ、バサリと広げる。
すると、繊維の隙間から、さらさらと灰色の粉が大量にこぼれ落ちた。
それは、木箱であり、中身の魔薬であり、精巧な起爆装置であったものの成れの果てだ。すべてが原子レベルで摩砕され、燃え尽き、形を失った残骸。
あれほどの爆発エネルギーが、この薄い布地一枚の内側だけで完結し、裏地には焦げ跡ひとつ残っていないという事実。それは、ただ包んだだけでは到底説明のつかない、魔術を超えた“何か”が介在したことを如実に物語っていた。
「あ、あの……?」
腰を抜かし、床にへたり込んでいた若いメイドが、震える唇で尋ねてくる。
目の前のデスクで固まっていたアルディもまた、何が起きたのか理解できずに口を半開きにし、呆然と灰の山を見つめていた。
死を覚悟した瞬間に訪れた、あまりにあっけない静寂。そのギャップに脳が追いついていないのだ。
「……不発弾だったようです」
アレクは表情一つ変えず、平然と嘘をついた。
灰を払い、何食わぬ顔で上着を羽織り直す。
「導火線だけが派手に燃えて、肝心の火薬が湿っていたんでしょう。魔力光だけは一人前でしたが、中身はお粗末な花火だったようだ」
あまりに無理のある理屈だ。あれだけの光と圧力を放っていたものが、湿気ていたなどあり得ない。
だが、誰も反論できない。
彼らの目の前にある「五体満足で生きている」という圧倒的な事実が、アレクの嘘を唯一の正解として無理やり上書きしていく。
「と、とにかく無事でよかった……。君がいなければ、どうなっていたか」
我に返ったアルディが、額に滲んだ脂汗を手の甲で拭いながら、よろりと立ち上がろうとした。
その時だ。
バンッ!!
執務室の重厚な扉が、乱暴に押し開かれた。
「旦那様! ご無事ですか!?」
「屋敷の結界に異常な魔力負荷が……ッ、間に合わなかった!?」
飛び込んできたのは、フォーテンとフィアラだった。
二人は酷く息を切らせており、額には脂汗が滲んでいる。屋敷内の別の場所で帰還早々に業務にあたろうとしていたようだが、この部屋から発せられた爆発寸前の魔力膨張を察知し、全速力で駆けてきたのだ。
二人の眼には、最悪の事態――瓦礫の山と化した屋敷と、主の無残な姿――を幻視した絶望の色が浮かんでいた。
しかし、そこに広がっていたのは、奇妙なほど静まり返った執務室と、困惑顔の主人、そして涼しい顔で佇むアレクの姿だけだった。
「……え?」
フィアラが間の抜けた声を漏らす。フォーテンもまた、構えていた拳を降ろし、呆気にとられたように室内を見回した。
彼らには分かっていた。自分たちが肌で感じた「予兆」は、こんな何事もなく終わるような規模のものではなかったはずだと。
「いや、アレク殿のおかげで助かったよ。どうやら不発だったらしくてね。……二人とも、よくぞ駆けつけてくれた」
アルディの言葉に、フォーテンはハッとして居住まいを正し、主の無事を目視で確認して深く安堵の息を吐いた。
だが、すぐに鋭い視線をアレクへと向ける。その眼差しは「不発」という説明への疑念よりも、目前の脅威への警戒に満ちていた。
「アレク殿。……何が、起きたのですか?」
アレクは片手を挙げ、その追求を制した。
「事情説明は後だ。……犯人からの『追伸』が届いている」
アレクの手には、先ほどの爆弾入りの箱とは別に、書類の山に紛れ込んでいた一通の封筒が握られていた。
上質な紙を使った封筒。だが、そこから漂う微かな残り香は、先ほどの火薬臭とは違う、どこか甘ったるく、不快な腐臭を連想させた。
アレクはペーパーナイフで封を切り、中の一枚紙を取り出す。
そこに踊っていたのは、丁寧で達筆な筆致とは裏腹に、見る者の神経を逆撫でするような狂気じみた文面だった。
『やっほー!
この手紙を読んでるってことは、ボクの特製花火を防いじゃったってことだね?
おめでとー! パチパチパチ!
いやぁ、まさか不発ってことはないと思うけど、もし生きてるならボクの勝ち負けは保留かなぁ。
でも安心してね。これはただの挨拶。
次はもっと楽しい、とびっきりの“遊び”を用意してあげるから。
じゃあね、ヒーローくん♪』
署名はない。
だが、紙の端には黒いインクの染みが滲んでおり、それはまるで、口を三日月形に裂いて嗤う道化の顔のように見えた。
アレクがその文面を抑揚のない声で読み上げると、室内の空気が一瞬にして凍りついた。
特に過剰な反応を示したのは、駆けつけたばかりの二人だった。
「……ッ、この、人を舐め腐ったような口調は!」
フィアラが嫌悪感を露わにし、ギリリと奥歯を噛み締める。その双眸に宿るのは、明らかな敵意と警戒。
「間違いないですね」
フォーテンもまた、手紙から漂う気配を感じ取り、眉間に深い皺を刻んだ。
「アレク殿がウォーディア討伐をしている際に妨害しにきた黒衣の男ですね。フィアラと私が交戦しました」
アレクは無言で手紙を折り畳むと、二人の反応を静かに観察した。
アレク自身は、その「黒霧の男」と直接顔を合わせてはいない。だが、このふざけた文面と、二人が察知したという「狂気」は、一本の線で繋がっている。
愉快犯的でありながら、用意周到に二重三重の罠を張る狡猾さ。
「……厄介な客に目をつけられたものだな」
アレクの独り言は、重苦しい沈黙の中に溶けていった。
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その頃。
屋敷を見下ろすクローデンの時計塔――その最上層の尖塔に、影が一つ腰掛けていた。
脚をぶらぶらと揺らし、まるで遠足に来た子供のような無邪気さで、眼下の屋敷を見つめる黒衣の男。
その唇が、楽しげに秒読みを刻む。
「さぁて、そろそろかなぁ? 3、2、1……はい、ドッカ〜ン♪」
男が指揮者のように大仰に両手を広げた、その瞬間。
――静寂。
期待していた轟音も、悲鳴も、屋敷を吹き飛ばす紅蓮の炎も上がらない。
ただ、風が通り過ぎる音がするだけだ。
だが、男の感覚は捉えていた。確かにあの瞬間、箱の中の魔力は臨界を迎え、爆発したはずなのだ。それなのに、そのエネルギーだけが、まるで神隠しにでも遭ったかのように世界から消失した。
「……あれれ〜? おかしいなぁ?」
男は首をコテリと90度傾け、間の抜けた声を上げた。
不発? ありえない。自分の工作に手抜かりなどない。
結界で防がれた? いや、あれほどの規模の爆発を、音も熱も漏らさずに封殺できる結界師など、この国には存在しないはずだ。
数秒の沈黙の後。
男の身体が、小刻みに震え始めた。
「……くっ、くくく……」
喉の奥から漏れ出したのは、困惑ではない。抑えきれない歓喜だった。
「あはははははッ! すごいすごい! 本当に防いじゃったの!? あの至近距離で? どうやって? 食べちゃったのかなぁ!? あははははは!」
狂った笑い声が、風に乗って夜空に響く。
男は涙が滲むほど笑い転げたあと、弾かれたように立ち上がり、屋敷の方角へと指を突きつけた。
「いいよいいよ、合格だヒーローくん! ただの兵隊さんかと思ってたけど、キミは『特異点』だね? ボクのシナリオを書き換える、素敵なイレギュラーだ!」
男の瞳に宿る狂気の光が、一層濃く、禍々しく輝く。
単なる殺戮だけでは退屈していたのだ。自分と同じように理を外れた存在――そんな玩具が現れたことに、彼のサディスティックな好奇心が疼いて止まらない。
「じゃあ、次はもっと派手に遊ぼうか。舞台はもう整ってるしね」
男はくるりと踵を返し、西の空を見上げた。
その視線の先にあるのは、ここから数キロ離れた隣の都市――鉄と蒸気の街。
「待っててね、ロステルシア。ボクたちのパレードは、そこでハイボルテージを迎えるんだから」
黒い霧が渦を巻き、男の姿を飲み込んでいく。
最後に残ったのは、空間に刻まれた三日月形の嗤いだけだった。
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一方、アルディの屋敷、執務室。
騒ぎが一段落し、使用人たちが片付けに追われる中、アレクは一人、壁に掛けられた広域地図の前に立っていた。
その視線は、現在地であるクローデンから西へ伸びる街道をなぞり、ある一点で止まっている。
「……やはり、次はここか」
アレクが指先で示したのは、クローデンの西に隣接する中規模都市――『ロステルシア』。
かつてのアレクが生きた「破滅した未来」において、この時期、ロステルシアでは“ある事件”が幕を開けることになっていた。
その詳細は、未来を知るアレクの記憶の中でさえ判然としない。原因不明、生存者皆無。
ただ『何か』が起き、都市一つが抗う術もなく地獄へと変わった――それだけが、変えようのない事実として焼き付いている。
その正体不明の惨劇は、やがて王国全土を巻き込む大戦乱の導火線となり、多くの命を飲み込んでいった。
そこから連鎖的に破滅へのドミノが倒れ始めた、諸悪の起点。
アレクがこの時代に戻り、アルディに取り入ってまで成し遂げようとしている計画の本筋の一つは、まさにその「ロステルシアの悲劇」を未然に防ぐことにあった。
その重要度はウォーディア討伐と同程度である。
「今回の爆破未遂は、単なる挨拶か、あるいは陽動か……」
アレクは懐から、先ほどの犯行声明文を取り出し、再びその乱雑な文字を眺めた。
あの黒霧の男がただの愉快犯ならまだいい。
だが、もし奴がロステルシアの件にも関わっているとしたら――あるいは、奴こそが「あの悲劇」の引き金を引く実行犯だとしたら。
アレクの脳裏に、黒衣の男の嗤う気配と、何者かによって蹂躙されるロステルシアの未来図が重なる。
「……行くしかないな」
目的は一致してしまった。
アレクが守ろうとする場所と、奴が壊そうとする場所。
どちらにとっても、次なる戦場はロステルシア以外にない。
アレクは地図上のロステルシアを強く睨み据える。
その瞳には、来るべき死闘への冷徹な覚悟と、決して未来を譲らないという鋼の意志が宿っていた。
運命の歯車は、西へと回り始めている。




