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破滅の改変者  作者: 篤
22/23

レンティアにて

日暮れ前、街道は山裾で終わり、浅い渓谷をまたぐ白石橋の先に「レンティア」の城砦都市が姿を現した。

外郭壁は淡い桜石、陽光を受けて桃色に輝く。

往来の商隊はほとんど途絶え、衛兵たちが夕刻閉門の準備を進めている。


アルディの馬車列が関所標しるべを越えると、

領主 コルフ・レンティア みずから出迎えに現れた。

精悍な体躯に渋い笑み――額には温泉掘削で負ったという古傷。


「遠路を労った。さあ、温泉と夜宴が君らを待っておるぞ!」


その朗らかさに、ティーネとテリアは早くも頬を緩めた。


「やったぁ!温泉だぁ!ほらほら早く行こうよアレ兄!」


「テリア、お待ちなさい。走ると危ないですよ。まだお宿についてないのだからはしゃぐのはお宿についてからになさい」


はしゃいでアレクの手を引くテリアとそれを困り顔ながらも温泉への期待に緩んだ頬はそのままなティーネが追いかける。


「お嬢様、ティーネ様の言う通り、まだ温泉は近くにはありませんよ」


──底流の魔力がざわめいているだと?


だが手を引かれながらもアレクの視線だけは橋下の谷へ滑る。

“暗殺予定日”はあと二夜後、けれど何かが前倒しになりつつある気配がした。


関門を抜けた一行は、城下を通らず裏手の温泉郷へ直行した。

渓流沿いに木造の旅籠《澄湯亭》が建ち並び、その奥にコルフが私財で建てた新築別荘が赤松に囲まれている。


「わーい、温泉だぁ!!」


「お嬢様1番乗りはずるいですよ〜!」


「こらこら、はしゃぐのも控えめにしなさい」


テリア は露天足湯へ駆け込み、フィアラと飛沫をあげる。メイテルは彼女達を注意をしながらも軽快な足取りは高揚感を隠しきれていない。


「元気が有り余っているようね」


そんな女湯の有り様をティーネは微笑ましげに見守っていた。


一方の男共はというと、アルディとコルフは蒸気の中で杯を交わし、「この湯治場を王国公認にしたい」などと経済談義に花を咲かせていた。


「意外ですね、警戒心の強いあなたなら湯船の中にでも剣を持ち込みそうなものですが」


「それはお互い様だ。フォーテンも鉄甲などを持ってきそうなものだったがな」


「いえ、この旅籠の警戒は厳重なので必要ないと思っただけのことですよ」


「ああ、普段ならともかく今回はコルフ卿も一緒に泊まるからこれほどにも警備は厳重なんだろう」


フォーテンとアレクが旅籠の警備という何の面白味のない会話をしていた。

とはいえお互いに普段よりリラックスできているので世間話程度に二人の間の空気を和らげる効果はあった。


「それにしてもアレクさん、あなたのその身体の傷は……」


フォーテンがアレクの身体をみて何かを言いかけるが、


「なんだ?またお互い様って言ってほしいのか?フォーテンも似たようなものだろう?」


アレクもフォーテンの身体に目を向け、肩をすくめる。


「……やはり似たもの同士。それは認めざるを得ないようですね」


「そっちの方が俺としては色々とやりやすいからな。正味アルディ陣営ではあんたを一番頼りにしてる」


これも温泉のリラックス効果か互いに胸筋を開いて互いにとっての存在意義を確認し合えた。


「すげえ!すげえよ!普通こんな風呂一生入れねえよ!途方もなく広いから泳いでも狭く感じねえし、貸切だから遠慮なく騒げるってもんよ!すげえぇぇ!」


「……ってことでグリッドの面倒は任せた。こんなでもできることはあるだろう」


「前言撤回です。私は他人に厄介ごとは押し付けませんよ?」


騒ぐグリッドを尻目に、二人は揃って肩をすくめたのだった。

読み通り大浴場での襲撃はなく、男女共にそれぞれ楽しみながら入浴を終えた。














湯上がりの湯気がまだ廊下に漂う頃――フォーテンの意識は、すでに「寝込みへの奇襲」へと切り替わっていた。

 彼は旅籠の見取り図を頭に叩き込み、別荘と湯殿を結ぶ動線の梁裏へ結界符を忍ばせる。いざという時、短筒式の発煙具で即座に通路ごと封鎖できるようにするためだ。


 外柵の松林を巡るのはフィアラ。枯れ枝の散り方、獣道の深さを確かめながら、地形を利用できる待ち伏せ地点に小さな火符を埋めていく。ひとたび炎を起こせば夜目を奪え、敵の動きを強制的に変えられる。 


 行列の最後尾を担ったメイテルは、湯屋番台の帳簿整理を自ら買って出た。だが目的は帳簿ではない。番台奥に座れば、客の出入りと従業員の動線が手に取るようにわかる。必要とあらば、その“流れ”をさりげなく変えることが出来る位置だった。


 グリッドだけは大広間で大の字になり、豪快な寝息を響かせている。夕餉の時刻になったら起こしてくれ、と言い置いたが――今のところ起こす者はいない。戦力外、と判断されたのだ。


 一方、アレクは「泉源の配管素材」を侍医に尋ねるという奇妙な話題を振り、老人が詳しい金属名を挙げ始めるのを待ちながら、袖下で静かに脈を取った。呼気に甘みはなく爪も白い。微量毒の兆候はなし。

 ――毒殺の線は薄い。ならば襲撃か、温泉自体を利用する企てか。


 忙しげに動く一同を視線で追いながら、アレクはあらためて胸中で線を引く。真実を共有しているのはフォーテンとフィアラの二人だけ。メイテルは――有能だが謎が多過ぎる。グリッドには、何も伝えない方が安全だ。


 そのとき、廊下の障子がすっと開いて月明かりの届かぬ場所にメイテルが立った。


「アレク様、お忙しいところ恐縮ですが……少しお時間をいただけますか?」


 振り返ったアレクは帳簿に視線を落としつつ人払いを済ませ、障子越しの気配に声を掛けた。


「帳簿整理は終わったのか?」


「はい、先ほど」――メイテルが静かに一礼して襖を閉め、そっと室内へ。 


 僅かな沈黙。

 アレクは筆を置き、低い声でだけ核心を告げる。


「今夜か、遅くとも明日。領主を狙った襲撃が入る可能性が高い」


 メイテルは驚きも怯えも見せず、小さく瞬きを返す。


「詳しい筋は──」


「今は伏せさせて欲しい。敵の全容も動機も、まだ確証がない。だが“滝見台”と“渡り廊下”は特に危険だ。あなたには気配の遮断と誘導を任せたい。今回の件が終わったら全てを話そう」


 メイテルは逡巡なく頷いた。


「承知しました。“客の流れ”はこちらで整えます。皆さまを不用意に近づけさせません」


 言葉と同時に、彼女の袖口がふわりと揺れる。

 吹き込んだ夜風がアレクの髪をかすめ、わずかに軌道を外れて廊下へ抜けた――敵の探査をも外へ逃がす、あの微妙な偏向。


 アレクは符刀の柄を指で確かめ、小さく息を吐く。


「助かる。細工は多いほどいい」


「では準備に戻ります。……お気をつけて」


 深く一礼すると、メイテルは音を立てず去って行った。後には帳簿の紙鳴りと、湯殿へ続く渡り廊下で淡く明滅する結界符だけが残る。


 ――暗闇の刃は確かに迫っている。それでも、この旅を無傷で越えられる布陣は整った。

 メイテルに襲撃の全貌を語るのは、それを封じてからでいい。

















別荘の主膳には、地元の渓で釣れた岩魚と、山の麓で醸された淡い琥珀の地酒が静かに並べられていた。木の葉が擦れ合う音が、御簾の向こうから微かに届く。夏の名残を留めた涼風が吹き抜けると、桜皮細工の杯が涼やかに鳴り、沈黙の間を満たした。


 その静謐を破ったのは、ひときわ通る低音だった。


 「明日は山上の滝見台で宴を張ろう」


 別荘の主・コルフが杯を掲げるようにして告げる。あたかも気まぐれのような口調だったが、その響きにはわずかに抑揚が足りなかった。


 その言葉に、傍らで給仕をしていたアレクが、酒を注ぐ手を止めることなく、わずかに眉を動かす。口元の杯はそのままだったが、視線は一瞬だけ鋭く、虚空の一点を射抜いていた。


 滝見台──山の背にせり出す崖上の景勝地。風景は素晴らしい。宴にはもってこいだろう。だが崖際は常に落とし所にされる。視線が途切れる場所での狙撃にも、あるいは足場を狙った突き落としにも好都合。


 「景色は申し分ありませんが、足元は見えづらいでしょうな」


 アレクの一言は、まるで料理の塩加減でも語るような何気なさだった。


 対卓に座していたフォーテンは、酒の香りを嗅いでいたが、その言葉にわずかに顎を引き、静かに茶請けの皿に手を伸ばした。漬物の器を取り上げるふりをして、その合間に主君アルディの袖をそっと引く。


 「明朝、出立前に“視察”を入れましょう。滝の水量が多いと、橋桁が滑りやすいと聞きます」


 その声は主膳に届くか届かぬかの微かな音量で、あくまで使用人の忠言の体を装っていた。だが言外の意味は、アルディの聡明な目を逃さなかった。


 「うむ、任せる。早朝であれば……まだ周囲も静かであろう」


 頷きつつ、器を手にしたアルディの視線がわずかにコルフへと流れたが、彼はすでに別の話題をソゼリード一座の座長と交わしており、夕餉の席を取り繕うように笑みを浮かべていた。


 だが、鋭敏な者には分かる。


 あの滝見台の提案は、ほんの思いつきではなかった。

 景勝地という言葉に包んで差し出された、何かの試金石。あるいは誘導。


 視線と言葉の応酬は交わされず、膳に置かれた器が軽やかに鳴っただけで、夕食の卓はなごやかな歓談を装って続いた。


 「テリア様、お魚もう一切れいかがですか?」


 フィアラが盆を持って近づくと、テリアは元気よく頷いて皿を差し出した。


 「うん!このお魚、山で釣ったの?めっちゃおいしい!」


 その無邪気な声が空気を少し和らげたが、フォーテンの手は膝の上で静かに握られたままだった。


 夕餉の席で交わされた“要調査”の言葉はそれだけだったが、三人の間には一つの結論が共有されていた。


 この宴は、偶然ではない。

 崖上で待つのは絶景か、あるいは別の“終点”か。


 杯を満たす音が重なり、笑い声とともに夜の帳が降りていく。

 静かに流れるこの時間の下で、すでに運命の分岐は刻まれつつあった。










 夜半。旅籠の灯が落ちると同時に、森を渡る虫の声が濃くなる。遠く、山並みの稜線が墨のように滲み、月はその背に静かに浮かんでいた。旅の一行は早くも就寝の刻を迎え、寝息と寝返りの音が微かに帳の内より漏れてくる。


 その刻、外柵を囲む松林の間に――一本の狼煙が、音もなく立ち上った。


 それは焚き火の残り香に紛れぬよう、ごく小規模な火薬と乾いた苔を用いた無音の合図である。闇を裂くのではなく、夜気の中に滲むようにして上がるその煙は、合図の意味を知る者だけにしか届かぬ。


 「……出たか」


 寝床から即座に跳ね起きたフォーテンは、寝巻のまま羽織をまとい、腰の長刀を提げて松林へ駆けた。足音は地を擦らず、息は殺されている。行き着いた先、狼煙の発生源に至ったとき、足元の地面が不自然に掘り返されていた。


 周囲の落葉は風の筋道に沿って散らばっており、その中心に一点、鋲の痕が無数に点描されている。


 鎖帷子を着込んだ者が地を転がり、姿勢を崩した証。刃渡り二尺余りの投げ短剣が、倒木の根元に逆さに突き立っていた。


 その鍔には、あの黒渦の符丁は刻まれていない。


 フォーテンが眉をひそめ、慎重に辺りを見渡す。そこへ、松の幹の影からひとりの影が音もなく現れる。アレクである。彼もすでに起きていたのだろう、旅装の上に黒い外套を羽織り、左手にはすでに一振りの剣を構えていた。


 「……あの時の手合とは違うようだ」


 アレクは地面に突き立てられた短剣を抜き、刃を素早く布で包む。その手元に宿る動きは、まるで儀式のように静かで、緊張の糸がほどけぬまま次の所作へと連なっていく。


 フォーテンは頷き、指先で足跡の残滓を撫でてから、二人で手早く周囲の地面を均す。追跡を封じ、敵に逆に足を取らせるための処置である。


 そのとき――


 旅籠の廊下に面した一枚障子が、わずかに開かれた。


 差し込む月光に身をさらさぬよう、縁をすり抜けるように現れたのはフィアラだった。炎使いの娘は何も言わず、夜気に溶け込むような静かな所作で小さく頷いた。


 風が吹き、彼女の袖口がひらりと舞う。

 その動きに呼応するように、木々の隙間にあった短剣の残光が月明かりから一瞬逸れる。


 炎使いらしい、ささやかな“光の干渉”。それは敵がもしこちらを覗いていたとしても、視線の直線をずらす補助に他ならない。


 「敵の目線を切る」ための彼女なりの支援だった。


 フォーテンは唇の端を僅かに動かしただけで礼の意を示し、再び林の中へと視線を戻す。静寂の中、葉擦れの音と虫の音だけが、空間を埋めていた。


 ――狙いは領主か。それとも……アレクか、あるいは、もっと別の“存在”か。


 その問いに答えはまだ無い。

 だが、敵が本格的に動き始めたことは明らかだった。


 ふいに、遠くの夜空で雁が声を上げた。季節外れの通過である。静けさの中に潜む違和と緊張が、一層夜を深く染めていく。


 警戒線は、一段階引き上げられた。

 誰もが眠ったはずのこの夜に、ただ三人だけが目を開け、刃を潜め、気配を読んでいた。


 やがて狼煙の残り香も消え、空の高みにかかった雲が月を覆う頃――森の闇は、さらに輪郭を失っていった。











 東雲が山稜を縁取りはじめる頃、涼気を孕んだ山風が渓谷の木立を撫で、梢がざわりと揺れた。空の淡い朱が岩肌を照らし、長く伸びる影が遊歩道に交差する。


 この朝、コルフ一行とアルディ一行を合わせた二十名あまりが、滝見台へ続く山道を登り始めた。

貴族の野点としてはやや多人数ではあるが、旗も護衛隊の整列もなく、あくまで湯治客の風情を壊さぬよう取り計らわれていた。

それがこの地の主、コルフの流儀である。


 旅装の衣擦れと草を踏む音が、静かな空間に連続しては消える。


 フォーテンは、荷を背負う役を進んで買って出ていた。その肩に担がれた袋には表向きの道具に加え、護符と短筒発煙具、応急用の拘束縄など、非常時の備えが無駄なく収められている。

彼は列を離れて少し先行し、崖上の茂みや視界外の岩場を丁寧に偵察していた。

足音を殺し、岩と同化するような身のこなしで周囲を視るその目は、夜の警戒を継続したまま曇ることがない。


 一方、フィアラは列の中央、手を引くテリアの足元を細かく観察していた。少女の無邪気な好奇心は、興味の向くまま崖へも飛び出しかねない。

フィアラは掌に宿した微かな火で砂利をわずかに熔かし、歩道の傾斜を目立たぬよう補正していく。

肉眼では分からぬほどの傾きを幾度も調整することで、テリアの歩幅は自然と安全側へと導かれる。


 「絶対に崖際へ寄せない」――その信念のもと、彼女の炎は導線のごとく穏やかに少女の軌道を整え続けていた。


 列の最後尾を行くのはメイテルだった。侍医の老年を気遣いつつ、意識の半分では後方警戒を怠らない。彼女の左手は衣の内側で常に小さく動いており、その細指が空気をなぞるたび、道端の草や岩の影が微細に形を変えていた。

通る者の視線を欺く死角の配置換えである。

森に潜む者がいたとしても、視界は一定の攪乱を受け、狙撃の精度を落とすはずだった。


 そしてアレクは、主の一人――コルフのすぐ斜め後ろを歩いていた。

かつて温泉掘削を自らの手で進めたこの領主は、年齢の割に足取りが軽く、山道を踏みしめる様は軍人のそれに近い。

アレクはその歩幅を自然に合わせながら、視線を滝見台へと伸ばした。


 谷をまたぐように架かる木橋――その支柱のひとつに、微かに違和を感じ取る。


 木肌の年輪の並びが、一箇所だけ周囲と異なっていた。

 色も、密度も、わずかに「新し過ぎる」。


ーー……支柱への細工か。爆裂符、もしくは梁の切断に連動した崩落式か。


 アレクの思考が素早く巡る。もし橋上で乱戦が誘発されれば、戦闘中に誰かが崩落し、転落死という“事故”に見せかけることもできるだろう。


 彼は歩調を崩さぬまま、わずかに身を寄せてティーネへ小声で耳打ちした。


 「テリア様を、あまり崖に近づけない方が安全です」


 ティーネは瞬時に頷き、少女の手をしっかりと引いて列の内側へ移す。目配せひとつで通じるのは、これまでに幾度か非常を共にしてきたからだ。


 「……ありがとう。気をつけます」


 言葉は短くとも、その声には確かな覚悟がにじんでいた。


 守るべき対象――テリア――は、列の中でも最も視界の開けた位置へと誘導された。守護者たちの視野が重なり、万一の際にも即座に対処できるよう配置が整う。


 朝陽が徐々に濃くなり、滝の音が風に混じって近づいてきた。水飛沫の匂いが、気配の裏に何かを隠しているようにも思えた。


 だが、まだ仕掛けは動かぬ。


 音もなく潜み、時を見計らっている“何か”の存在を確かに感じながら、アレクは手のひらで腰の剣にそっと触れた。


 ――こちらも準備はできている。次の一歩が合図だ。


 列の先で、コルフが小さく笑って立ち止まる。滝見台まで、あと百歩。









 滝見台は目前に迫っていた。


 空の色はようやく青みを帯び、山稜の稜線に沿って淡い光が差し込み始める。

だが、その穏やかな明るさとは裏腹に、渓谷の空気は次第に鋭さを増し、朝靄の隙間を縫って肌を刺すような逆風が流れ込んできた。

風は草を逆撫でし、まるで「これ以上進むな」と忠告するかのようだった。


 そのとき、列をやや先行していたフォーテンが、喉の奥で短く鋭い指笛を鳴らす。


 ピィ――。


 それに応じるように、崖上の茂みからフィアラの指先で炎が瞬いた。

火花は決して大きくはなかったが、風の中でそれだけが異様に際立って見える。

周囲の空気が一瞬だけ熱を帯び、風の流れが揺らぐ。彼女は崖の影から様子をうかがい、背後の落石路を睨んでいる。


 《暗殺斬りの初手》――すなわち、標的の足を止め、混乱に乗じて一人を確実に仕留める、剣客暗殺者たちが好む開幕術。

その気配が周囲に染み込んでいた。

誰かの指が弓に触れ、誰かの喉が息を殺し、誰かの視線が一点に集中する――そんな見えざる気配の連鎖が、空気を張り詰めていく。


 アレクはその流れを誰より早く察していた。


 懐の符刀にそっと触れる。符で封じた細身の短剣。放てば閃光と風が走り、間合いを制圧するには十分な初手。だが今回は迎撃ではなく先手が要る。


 「……予定を一つ、上書きだ。――奇襲を受ける前にこちらから仕掛ける」


 声は低く、だが芯を帯びていた。


 この静寂を破るのは敵ではない。こちらが先に動く。


 その時だった――


 山稜から射した陽光が、滝の水飛沫を黄金色に染め上げた。水粒が光を受けて空中できらめき、まるで天から祝福の雨が降るかのような一瞬。


 だが、真にそれを「合図」と読み取ったのはごく僅かだった。


 ギィ……


 木橋の一本――新しい支柱がわずかに軋み、低く唸るような音を立てた。橋床の下に響くその音は、聞き逃すには不気味すぎる重みを帯びていた。


 アレクの目が鋭く細められる。


 ーー……橋を殺すつもりか。


 狙い澄ました罠はすでに発動直前だった。時間にして、あと一拍。もはや偶然に見せかける猶予すら、敵は惜しまないようだった。


 渓流の轟音が全てを覆い隠す中で、影の護衛たちは無言のまま一斉に位置をずらす。


 フォーテンは背嚢を脱ぎ捨て、腰の柄へ指を添えた。フィアラの瞳にはすでに炎が灯り、風向きを計るように呼吸を整える。

メイテルは草陰を抜け、侍医のすぐ背後に回り込んでいた。

誰も指示を出さない。だが誰もが理解していた――次の瞬間に起きるものを。


 隊列の中心にいたアルディはまだ事態に気づかず、傍らのコルフと静かに会話を交わしていた。ティーネはすでにテリアを自分の背に回して庇っている。


 そしてアレクは、木橋の前に立ち、剣の柄をわずかに押し上げていた。


 誰も知らぬところで、歴史の分岐点はすでに“鳴動”を始めていた。

ギリギリと音を立てて軋むその境界線は、誰かの命を代価として書き換えられようとしている。


 だが今回は違う。


 これは決められた死ではない。


 ――これは、アレクたちが「奪い返す生」の瞬間だった。




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