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破滅の改変者  作者: 篤
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帰還

 渓谷を覆っていた乳白色の霧が朝日によって完全に払われ、世界が本来の色彩を取り戻す頃――アレクたち一行を乗せた馬車列は、クローデンへの帰路をひた走っていた。


 行きの道中で満ちていた、喉元に刃を突きつけられたような重苦しい緊張感とは異なり、帰りの車内には独特の空気が漂っていた。それは危機を脱した安堵感というよりは、これから明かされる真実、その重みを受け止めるための覚悟が生み出す、張り詰めた静寂だった。


 だが、そんな大人の事情など知る由もない無邪気な声が、沈黙を破る。


「ねぇママぁ、まだお家つかないのー?」


 アルディの膝の上で、幼い娘のテリアが退屈そうに足をぶらつかせていた。

 ティーネが、娘の柔らかい髪を愛おしそうに撫でながら微笑む。


「もうすぐですよ、テリア。ほら、あそこの丘を越えれば、いつもの赤い屋根が見えてきますからね」


「ほんと? やったぁ! ……あーあ、怖かったなぁ。お外でドンパチしてた時、フィアラがいてくれてよかったぁ」


 その言葉に反応したのは、御者台の後ろから顔を覗かせた副筆頭メイドのフィアラだった。窓枠に肘をかけ、先刻までの戦闘などなかったかのような、とびきり明るい笑顔を向ける。


「お任せください、テリア様! 私の目の黒い内は、虫一匹たりともお嬢様には触れさせませんよ! ……もっとも、後ろの荷台で腰を抜かしていた『粗大ゴミ』は、囮にでもなってくれれば御の字でしたけれど」


 フィアラが流れるような敬語で毒を吐くと、後続の荷馬車の御者台から、使用人のグリッドが情けない声を上げた。


「お、おいっ! 聞こえてんぞ毒舌メイド! 誰が粗大ゴミだ! 俺だって必死に手綱捌いてたんだぞ!」


「あら、手綱を? 私の目には、荷物の陰でガタガタ震えて『ひぃぃ、おっかねぇ! 誰か助けてくれぇ!』と泣き叫んでいただけに見えましたが。恐怖で記憶が改竄されたのかなぁ。お可哀想に」


「うっせぇ! 俺は戦闘要員じゃねぇんだよ! ただの使用人だぞ!? あんな化け物みたいな暗殺者相手に戦えるわけねーだろ! 命があっただけ儲けもんだわ!」


「その図太さと声の大きさだけは、一丁前ですね。……アレクさん、この給料泥棒、帰ったらクビにしません?」


 フィアラはアレクの方へ向き直ると、小首を傾げて可愛らしく同意を求めてくる。

 グリッドも「アレクの旦那、何か言ってくれよ!」と救いを求めてくるが、アレクは軽く肩をすくめるだけで取り合わない。

 この二人のやり取りは、もはや日常茶飯事だ。関わるとろくなことにならない。


「無駄口を叩いている暇がおありなら、前を向きなさいグリッド。その覚束ない手綱捌きで荷崩れでも起こしましたら、損害分は貴方の給金から天引きさせていただきますよ」


 先頭の馬車で手綱を握る執事長のフォーテンが、静かな、しかし有無を言わせぬ丁寧な口調で釘を刺す。その一言でグリッドは「へ、へい! 勘弁してくださいよフォーテンさん……」と小さくなり、フィアラは涼しい顔で「仰る通りですねぇ〜」とにこやかに肯定した。


 そんな賑やかなやり取りをBGMに、雇い主であるアルディは深い疲労を滲ませ、腕を組んだまま目を閉じていた。

 アレクはその彫りの深い横顔を一瞥してから、隣に座るメイテルへと向き直った。


 彼女は窓のふちに肘をつき、流れる景色を眺めていた。

 つい先刻まで、血と魔力が交錯する死闘の只中にいたというのに、その横顔には恐怖の余韻も、生き延びたという安堵の溜息さえも見当たらない。

 ただ、いつもと変わらない柔和な微笑みを湛えている。

 その微笑みはあまりに完璧で、かつ静謐だった。まるで、あの修羅場さえも穏やかな日常のひとコマであったかのように、彼女の感情はさざ波ひとつ立てずに澄み渡っている。


「……約束通り、屋敷に着いたら全てを話す」


 ふいに発したアレクの低い声が、馬車の車輪が砂利を噛むリズムに重なった。

 メイテルはゆっくりと、まるでスローモーションのように視線をアレクへ移した。その瞳の奥は、何を考えているのか読み取れないほど深く、そして澄んでいる。


「俺が何をしようとしているのか……その先についてを」


 言い淀むことなく告げたアレクに対し、メイテルは、その常に絶やさぬ微笑みのまま深く頷いた。

 それは単なる肯定とも、すべてを受け入れる受容とも取れた。だがアレクには、彼女がアレクの告白を待っていたというよりも、それが語られる必然を最初から知っていたかのような、人智を超えた落ち着きを感じさせた。


「……はい。楽しみにしておりますわ」


 その声は、春の風のように柔らかく、けれど決して掴むことのできない響きを持っていた。


 道中はその後、拍子抜けするほどスムーズだった。

 数時間前まで命のやり取りをしていたことが嘘のように、街道は平和そのものだった。時折すれ違う荷馬車、風に揺れる木々。世界は何食わぬ顔をして、傷ついた彼らを迎え入れた。


 クローデンの馴染み深い街並みが見え、アルディの屋敷の巨大な鉄門をくぐったのは、太陽が中天を過ぎた頃だった。


「お帰りなさいませ、旦那様! 奥様!」


 馬車が止まると同時に、出迎えた使用人たちの明るい声が響く。


「わーい! ついたー!」


 馬車が完全に止まるのを待ちきれず、テリアがタラップから飛び降りる。

 それを待ち構えていたフィアラが軽やかに受け止め、地面へと下ろした。


「おっと、危ないですよテリア様」


「フィアラ、お菓子! 約束!」


「はいはい、まずは着替えて手を洗ってからです。ではでは、キッチンへ参りましょうか!」


 フィアラはテリアの手を引いて歩き出す。その後ろから、大きなトランクを背負わされてよろめくグリッドが声をかけた。


「お、おいフィアラ! 手伝えよ! これ重いんだぞ!」


「…………」


 フィアラは振り返りもしない。まるでそこに空気しか存在しないかのような、見事な無視だ。


「無視すんなよ! これめっちゃ重いんだって!」


「あらテリア様、何か羽虫の羽音が聞こえませんか? ブンブンと耳障りな」


「えー? なんにも聞こえないよ?」


「そうですか。では私の空耳ですね。さあ行きましょう!」


「くそっ! 覚えてろよあの女!」


 グリッドが悪態をつきながらも、よろよろと荷物を運んでいく。

 フォーテンは懐から懐中時計を取り出し、呆れた視線をグリッドに向けつつも、無駄のない動きで使用人たちに指示を飛ばし始めた。

 屋敷は一瞬にして、いつもの活気を取り戻していく。


 その喧噪の中、馬車を降りたメイテルは、ふっとその場の空気に溶け込むように居住まいを正した。


「私は洗い場の方へ戻ります。留守中の仕事が溜まっていると思いますので」


「ああ。また後でな」


「はい。……後ほどのお話を、心待ちにしております」


 メイテルは深々と一礼すると、足音も立てずに使用人区画の方へと去っていった。

 その背中は、どんな劇的な出来事の後であっても、淡々と己の役割に戻っていく――そんな揺らぐことのない一定のリズムを感じさせた。


 それを見送る間もなく、アルディが重い溜息をつきながら凝り固まった肩を回す。


「お父さん、お疲れでしょう? 少し休まれては?」


 ティーネが心配そうに父親の顔を覗き込む。アルディは娘の肩に優しく手を置き、首を横に振った。


「ありがとう、ティーネ。だが、留守中の報告だけは目を通しておきたいんだ。すぐに終わらせるよ」


「……分かりました。お茶を淹れておきますね。アレクさんも、父のこと、お願いします」


「ええ、任せてくださいお嬢様」


 アレクが短く答えると、アルディは再び表情を引き締めた。


「よし、行くか。……アレク、悪いが執務室まで付いてきてくれ。今回の件、報告書の作成に君の視点が必要だ」


「はい、お供いたします」


 アレクは気持ちを切り替え、護衛としての顔に戻り主人の背中を追った。

 留守中に屋敷に何かを仕掛けられた可能性もある。

 用心するに越したことはない。

 廊下からは、テリアのはしゃぐ声と、それをたしなめるフィアラの明るい声、そして荷物の重さに悲鳴を上げるグリッドの情けない声が微かに聞こえてくる。


 平和だ。あまりにも平和すぎる。

 アレクは微かな違和感を覚えながら、重厚なオーク材の扉を開けて執務室に入った。

 そこには留守中に溜まった書類の塔と、未開封の郵便物の山が、主人の帰りを静かに待ち構えていた。


「……まずはこれを片付けないとな」


 アルディは苦笑しながら、上質な革張りの椅子にどさりと沈み込む。アレクはその斜め後方に立ち、習慣的に部屋全体に視線を配った。

 窓から差し込む午後の日差しが、舞う埃をキラキラと照らし出している。

 ここには殺気も、毒矢も、爆薬の焦げ付く臭いもない。あるのはインクと古紙の匂い、そして使用人が淹れてくれたばかりの紅茶の香りだけのはずだった。


 コンコン、と控えめなノックの音が静寂を破る。


「失礼いたします、旦那様。書斎に届いておりました小包をお持ちしました」


 入ってきたのは、まだ雇われて日の浅い若いメイドだった。緊張した面持ちでお盆の代わりに抱えているのは、一抱えほどの大きさの木箱だ。

 装飾のない、無骨な白木の箱。差出人の名は逆光で見えないが、特に変わった様子はない。


「ああ、そこの机に置いてくれ」


 アルディが書類から目を離さずに指示を出し、メイドが「はい」と素直に頷く。

 彼女が小さな歩幅でデスクへ歩み寄り、アルディの目の前へ箱を降ろそうとした――その時だ。


 違和感。

 魔獣が跋扈する世界を生き、数多の死線を潜り抜けてきたアレクの第六感が、脳髄を直接鷲掴みにされたかのように警鐘を鳴らす。

 全身の産毛が逆立つような悪寒。


 その箱からは、「音」がしなかった。

 メイドが歩く振動に合わせて、中で何かが転がる音も、擦れる音も一切しない。あまりにも重心が安定しすぎている。あるいは、中身が隙間なく充填されているのか。

 そして何より、箱の継ぎ目から漏れ出る微かな、しかし鼻をつく刺激臭――。


 記憶がフラッシュバックする。

 それは先刻、渓谷の戦いで嗅いだばかりの、あの忌まわしい「魔力誘導粉」の残り香に酷似していた。


「待て」


 アレクの声が鋭く裂帛の気合となって響いた。

 メイドが驚いて足を止める。「え?」と小首を傾げた時には、彼女は既にアルディの至近距離に踏み込んでいた。


 箱の表面に刻まれた不可視の術式が、アレクの声紋――あるいは特定の魔力波長に反応したかのように、ドクン、と赤黒く脈動を始めた。


 ――ブゥン。


 空気が歪むような低周波の唸り。鼓膜が圧迫される。

 箱の蓋が内側からの圧力で軋み、板の隙間から強烈な光が漏れ出す。

 それはただの火薬の爆発ではない。圧縮された高密度の魔力が臨界点を超え、解き放たれる直前に見せる崩壊の輝きだった。


「ッ――離れろ!!」


 アレクは叫ぶと同時に床を蹴った。

 だが、距離がある。数メートルが永遠のように遠い。

 若いメイドは目前の現象が理解できず、光り輝く箱を呆然と抱きしめたまま立ち尽くしている。その目の前には、無防備なアルディが目を見開いて座っている。

 この距離で起爆すれば、二人とも肉片も残らない

 屋敷の半分が消し飛び、瓦礫の山となるだろう。


 アレクが手を伸ばす。

 必死に伸ばした指先が空を切る。

 世界がスローモーションのように引き伸ばされ、音と色が剥落していく中、箱の輝きだけが白一色に染まり、視界の全てを塗りつぶそうとしていた。


 破滅の光が、網膜を焼き尽くす――


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