旅の始まり 〜次の目的地レンティアへ〜
王都の喧噪もひと息ついた晩夏の朝。
アルディの執務室では、決算書の山を前に主とアレクだけが残っていた。
「――こうして見ると、クローデンの水路復旧に充当した費は想定より六割ほど余剰が出ましたね」
帳簿を指でなぞりながら、アレクが何気ない調子で続ける。
「閑散期に入る前に、少し“遊興”へ回してみてはどうでしょう。例えば……コルフ卿のレンティア領などいかがです?」
アルディが眼鏡を外し、首を傾げる。
「レンティア? ずいぶん急だ。理由は?」
「領主閣下とは以前、水運税の折衝で顔を合わせました。その後も『領内に温泉付きの別荘を新築したので見に来い』と何度か書状を頂いております。今なら作柄視察の名目で訪れても不自然ではありませんよ」
「温泉、か。」
アルディは渋面をほころばせ、決算書を閉じた。
「テリアが喜びそうだ。よし、受けよう。どうせなら一家総出で骨休めとしようじゃないか」
アレクは内心で薄く息を吐く。
ーーこれで“暗殺予定日”とコルフ卿の動静を重ねられる。
翌日。応接間に執事長フォーテン、護衛長グリッド、
筆頭メイドのメイテルと副筆頭メイドのフィアラが顔をそろえる。
「一週間ほどレンティアまで往復する。同行は私とティーネ、テリア。執事はフォーテンにグリッド、ケイでメイドはメイテルとフィアラ、マイラにラファ、馬車御者にコンファと料理番にティンシアで総勢十二名。道中は護衛隊を付けず、馬車三台と荷馬一台で行く。整えてくれ」
フォーテンは即座に行程表を起こした。
グリッドは護衛配置をさらりと確認し、
「二台編成なら、遊撃が一名足りません。アレク殿、外護に回っていただけますか」
アレクは軽く頷いた。
アルディはそれを“私用の馬車を譲る”程度に受け取ったが――フォーテンとフィアラは、背後の真意を感じ取り小さく目配せした。
出発当日、黎明のクローデン東門。
「すごいすごい!馬車だぁ!楽しみだなぁ。温泉ってとれくらい広いのかなぁ??私全部の温泉制覇する!」
紺地に白鷹を染め抜いた旅装の馬車が並び、テリアが無邪気に跳ねながら温泉の話をまくしたてる。
「アレ兄も一緒に入ろうね!」
「テリア様は女湯で私は男湯です。一緒に入れませんよ」
アレクはそう言いつつ、温泉地まで行ってティーネの面倒は見たくないというのが本心だ。
「とーか言ってアレクの旦那は本当はテリア様の面倒は見たくないんじゃないかぁ??」
「アレク様に限ってそんなことないじゃないですか。ゴミですか?死んだ方が良いんじゃないですかぁ??」
横からグリッドが茶々を入れようとしたらフィアラが辛辣に突き返すのも最早日常風景といって良い。
「グリッド」
「うっ、なんだよ??」
「テリア様のことをしっかり『テリア様』って呼べて偉いな。これも数ヶ月かけたフォーテンの教育の賜物だな」
「何も偉くはありません。なかなかに覚えが悪くて困ってますよ」
「うっ、うるせーわ!」
グリッドに図星を突かれても何とも思わないが、何となく仕返しだけしておく。
ただ覚えが悪いのは事実のようで、フォーテンも困り顔だ。
「そういうものではありませんよ。グリッド様は礼節はお世辞にも良くはありませんが手先が器用なので仕事はお早く助かってます」
「そういってくれるのはメイテル様だけだよぉ〜」
メイテルがグリッドをフォローし、感極まったグリッドが抱きつこうとして、
グエッ
見事な鳩尾をくらい、悶絶する。
「おっと、足が滑りました」
ガッ
そこにフィアラが蹴りを軽く蹴りを見舞った。
「って何するんだてめえ!!」
「確かに彼もよくないですが、そこまでするのも良くないですよ。フィアラさん」
「えー、そうですかー??」
嗜めるフォーテンの声もどこ吹く風のように悪びれないフィアラ。
そんなやりとりがありつつ、旅への準備は着実に整ってゆく。
ティーネは母の穏やかな笑みを浮かべつつも、「父上、道中はくれぐれも御身を」と念を押した。
「なんだよ、ふざけんなよ」と愚痴を溢しながらグリッドが胸板を張り、フォーテンは懐に仕込んだ符と書簡綴りを確かめる。
グリッドは礼儀作法は酷すぎて評価に値しないが思いの外に手先は器用なようだ。
フィアラとメイテルは積み荷の保存食を再点検し、
アレクは最後尾の軍馬に軽く手綱を掛けた。
春暁の気配をまとった朝霧の中、馬車の軋む音が石畳を転がる。
その日、コルフ卿から温泉開”の知らせがすでに届いていた。年に一度、王国内外の客人たちが集う静養と社交の祭典。館の開放と共に湯が解禁され、辺境の地に一時の華やぎが戻る。
だが――その館に向かう霧の奥で、ひそかに刃を研ぐ影の存在を知る者は、未だアレクただ一人であった。
湯気と香草と笑顔に満ちる未来の情景が、一方で血と焔の予感を伴ってアレクの胸を押し潰す。
コルフ館で湧き立つはずの歓声と乾杯の音が、彼にはもう罠の幕開けにしか聞こえない。
陽光がようやく朝靄を裂き、馬車行列が整列ののち街道へと滑り出す。
革の車輪が土を払い、整備された白い石道を進み始めると、砂塵の向こうに一本の細く白い線が現れた――レンティアへ続く街道。
それはただの旅路に見える。しかしアレクには見えていた。あの白線の先が、王国史にとって避けえぬ分岐点となることを。
もっとも、その分岐は決して唯一ではない。
むしろあまりに多すぎる“破滅への枝”の一本に過ぎないというのが、何より辛いところだった。
人々は今、まだ気づいていない。
都市で起きた魔剣の狂乱も、鉱区の封印破砕も、その背後に同じ指が触れていたことを。
歴史が変わり得ることを知ってしまったアレクにとって、それは希望であると同時に、底なしの責務だった。
――護れる未来は一つしかない。だが、滅びる未来はいくらでもある。
彼は無言で馬車の中、革窓を指先で押し上げ、霧の向こうをじっと見つめた。
この旅が、表面上は賑やかで、祝祭に満ちたものであるほどに、裏の気配は濃い。刃は必ず潜んでいる。しかも今回は、かつて知る者ではない――もっと別の、未知の破滅が待っている。
道はまっすぐだ。だが未来は曲がりくねっている。
王国の命運がかかる旅は、今、静かにその第一歩を踏み出した。
クローデンを発って二日目。
一行は王国南東街道から分かれ、緩やかな丘陵を越えてレンティアへ抜ける森道へと入った。早朝の靄が解け、陽光が斜めから差し込むと、左右に広がる楓の梢がかすかに紅を帯びて揺れていた。まだ本格的な紅葉には早いが、季節が少しずつ巡っていることを静かに告げていた。
先頭の馬車では、アルディとティーネ母娘が柔らかな座席に身を沈めながら、移り変わる木々の彩りを眺めている。開け放たれた窓からは、澄んだ風がカーテンの房を揺らしていた。ティーネは読書を続けていたが、時折窓の外を見ては微笑み、隣でご機嫌な娘をなだめたりしていた。
テリアは御者台の脇にちょこんと座り、足をぶらぶらと揺らしている。道の両側に見える茂みや枝に視線を配りながら、「まだ狼さん出てこないの?」と首を傾げた。興味津々といった様子で身を乗り出し、いつ現れるとも知れぬ“絵本の中の冒険”に胸を膨らませている。
「狼さんは呼ぶと来ることもあるんですよ? ただ本で読んだみたいに優しい狼の方が少ないので、できれば来ない方が良いのです。申し訳ないのですが……お静かにお願いします」
隣から控えめに声をかけたグリッドは、目元を引きつらせながらも笑顔を保とうと努力していた。
「えー、つまんなーい……」
ぶーたれたように頬を膨らませたテリアに、後方から馬上のアレクが視線だけで軽く制止を促した。その冷静な眼差しには、万一に備えて常に周囲を警戒している気配が宿っていた。
「テリア、アレクさんの言う通りですよ。狼はとても獰猛で危険なんです。できれば会わないに越したことはありません」
ティーネが優しく娘をなだめたものの、テリアは振り返ってアレクを指差しながら、なおもはしゃぎ気味に問いかけた。
「えー? でもでも、出会ってもアレ兄が護ってくれるんでしょ?」
「もちろんです、テリア様。私がお護りしますし、いざとなればそちらのグリッドがその身を挺してでもお護りしてみせる、と張り切っておりますので」
アレクはこともなげに言い、差された指先の責任を横合いにそっと押し流すように、グリッドへと向けた。
「お、おいおい旦那、俺はそんなこと一言も言ってねえぞ!?」
露骨に肩を跳ね上げて叫ぶグリッドの声が森の中に響いた。その瞬間、どこからともなく軽やかな足音が近づいてくる。
「ぷぷーっ、それはとても良いですね! ついでに噛まれて死ぬともっといいです」
脇からひょいと顔を覗かせたのはフィアラ。グリッドの肩越しに小さな手を口に当てながら、わざとらしく笑って見せた。
「ふざけんな! 全然! まったく! よくねーよ!」
「とっても良いですよ? 何が良いかですって? 噛まれて死ぬところがとっても良いです!」
「てめぇが死ね!!」
「いやぁ、役立たずが死なないと意味ないじゃないですかぁ」
「なんだとこの野郎ぉ!!」
あっという間に馬車の周囲に響き渡る“平常運転”のやり取り。
まるで朗らかな劇団の舞台でも始まったかのように、傍から見れば仲睦まじい騒ぎにすら映る。
「はぁ……その元気の良さはもっと別のところで発揮してほしいところですが……」
ため息交じりに呟いたのは、馬車の側面に控えていたフォーテンだった。呆れ半分、諦観半分の表情で彼らのやり取りを眺めていたが、もはや彼自身もツッコミ役としてその位置にすっかり馴染んでいた。
「ははは、元気があることは良いことじゃないか!」
そんな光景を最後尾から眺めていたアルディが笑った。かつての重苦しい空気とは異なる、穏やかな時間がここにあった。
こうして、旅はまだ静かに続いていた。
レンティアへと向かう道の先には、また新たな嵐が潜んでいることを、誰もが知らぬままに――
昼下がり。
森の奥で鳥が一斉に弾け――乾いた枝の裂ける音が重なる。
フォーテンが馬を止め、結界符を一片かざした。
「……来ます。魔獣、《白牙》系統」
刹那、茂みを割って霧色の巨狼が踊り出る。
白銀に光る牙、筋肉質の前肢。
魔力を帯びた嗤いが風鳴りとなり、二匹、三匹と影を連ねた。
テリアもいざ冗談半分で言っていた状況になったら怯えている。
それを庇うようにティーネが抱きしめ、アルディが真剣な面持ちで魔獣を見やる中、護衛達は行動を開始した。
フォーテンは無感結界で気配を断ち、馬車外郭へ回りこむ。
アレクは外護の軍馬を跳び下り、腰に吊った長剣を抜く。
フィアラはティーネを抱えるテリアごと抱えて先頭馬車の屋根へ飛び退く。
メイテルは荷馬の綱を素早く解き、家禽籠を馬車の影へ移動。
「テリア様、目を閉じて」
フィアラが微笑み、掌に紅炎を灯す。
焔は驚くほど静かだが、近づく白牙の視界を焼き白に塗りつぶした。
燃え立つ熱に怯まず、一頭が跳躍――
だが空中でわずかに軌道を外し、フォーテンの拳が喉笛を砕く。
「……今の角度、微妙にズレた?」
アレクが呟くが、当のフォーテンは無言で二頭目の膝関節へ裏拳を叩き込む。
三頭目が馬車の後輪めがけて突進。
車軸を噛み砕くかと思われた瞬間、
タイヤ幅ひとつ分だけ獣の首が “それる”。
硬い木輪に歯を欠き、呻いた白牙へアレクの長剣が突き刺さる。
――やはり変だ。俺はフェイントを入れていない……。
アレクは内心で目を細めたが、敵に隙を与えず連撃へ移った。
荷馬の陰──
メイテルは静かに指を払うだけ。
白手袋の端が揺れるたび、魔獣の踏み込みが寸分逸れ、爪は空気を裂くだけで目的の獲物へ届かない。
護衛たちには 「偶然の踏み外し」 にしか見えない。
だが彼女の足下には、かすかな魔力の渦が円を描き、
――誰にも悟られぬよう即座に霧散した。
フィアラの炎弾が最後の一頭の前足を焼き、
フォーテンの鉄甲が後頭部を貫く。
残党はアレクの投げナイフで動脈を断たれ、瞬く間に林道は静寂へ戻った。
“白牙”五体、討伐完了。
馬車は一本の傷もなく、旅人も誰一人かすり傷さえ負っていない。
テリアはフィアラの腕の中から顔を出し、
「ねえねえ、いまの狼さん、炎でくるっとなった!」と無邪気に拍手。
先程までの怯えようは嘘のようだ。
メイテルが微笑みながら衣裳の埃を払う。
フォーテンはアレクに近寄り、声を潜める。
「……今の戦闘で彼女の力は理解できました?」
「ああ、理解できた。頼もしい限りだな」
アレクは短く答え、後ろ瞳でメイテルを見る。
彼女は荷馬の頸を撫でるだけで、何も語らない。
――最も、「味方で在る限りは」という但し書きが伴うがな。
心中でアレクはそう呟き、彼女の底知れない力に思考を巡らせた。
彼女の特異は確かに生きている。
だが「気付かせない」ように使うあたり、相当の切れ者だ。
アレクはそう胸中で評しつつ、外套を翻した。
森を抜ければ夕刻までにレンティアの関所へ着く。
その先――コルフ邸で待つ本命の刃に備え、アレクは黙々と再行動に移った。
陽が傾き、狼煙のあとにほのかな楓の香が戻る。
だが旅路の空気は、先刻よりもいっそう張り詰めていた。




