通り魔事件②
陽光をはね返す白い石畳。
商都クローデンの中央通り、そのまばゆさに満ちた景観は、朝の喧騒と露店の活気に彩られていた。
焼き菓子の香り、果実の彩り、職人たちの呼び声。
誰もが今日を日常として疑わなかった――その瞬間までは。
「それ」は、唐突に浮いた。
まるで周囲の喧噪とは別世界にあるかのように、空間が捻れ、
一振りの剣が――誰の手にも触れられず、虚空に漂った。
鈍く光を反射するその細身の刀身には、刻印も銘もない。
ただひたすらに斬るためだけに存在していた。
直後、近くにいた黒ずくめの若い荷運びが、不意にその柄へ手を伸ばした。
本人の意志か、それとも刃に吸い寄せられたのかは誰にも分からない。
だが次の瞬間、その腕は迷いなく、近くの行商人の木箱へと斬撃を放った。
「剣が……勝手に動いてる……! おれじゃ……ない……!」
彼の瞳は恐怖と混乱に染まり、口元は震えていた。
にもかかわらず、腕は静かに、そして正確に次の一撃を振り上げる。
木箱が裂け、空中に果実が弾け飛ぶ。
斬撃は、鉄をも断つ鋭さを持ちながら、触れる対象を選り分けていた。
無差別のようでいて、まるで選定しているかのように。
盾を構えた衛兵が飛び込もうとした瞬間、
剣の切っ先は木製の柱を裂き、続けざまに石畳へ鏡のような斬痕を刻む。
「……斬れた!? 鉄の盾が……!」
ひとりの衛兵が驚愕の声を漏らす。
攻撃は鎧も盾も無視し、まるで命だけを見定めているようだった。
通りには悲鳴がこだまする。
果実を売っていた老婦人が腰を抜かし、幼子を抱えた母親が転びながら逃げる。
露店の帆布が裂け、商品が宙を舞い、客たちは蜘蛛の子を散らすように四散した。
だが、通り魔と化した荷運びは、誰かを追うことなく、ただ静かに選び、裂き続ける。
その姿は人間でありながら、意志のない傀儡のようでもあり――
「一般民の避難を優先しろ! 討伐隊が来るまで時間を稼げ!」
駐屯兵の隊長が怒声を飛ばす。
数名の衛兵が取り囲むが、彼らの視線の先にあるのは、剣ではなく斬撃だった。
腕を振りかぶる動作と、実際の切断との間には何の連動もない。
風すら裂くような斬線が、意図もなく放たれ、空気が泣き、石壁が裂けていく。
「……このままじゃ……!」
衛兵の一人が呟く。
通りは既に避難民で満ち、混乱と恐慌は収まる気配を見せない。
誰ともなく、空を見上げ、祈るような声が漏れる。
「――早く来てくれ……!」
その願いが届くよりも早く、次の斬撃が空を走った。
まだ何かが始まったばかりであることを、誰もが本能的に理解していた。
恐怖は、すでに剣よりも先に、この街を斬り裂いていたのだから。
報せは、王都の防衛庁舎に轟いた怒号のごとく届いた。
昼間の中心市街地で、見えざる刃が暴れ始めた――と。
《王国の盾》ブロウは、重々しい会議室の扉を怒鳴るように開け放ち、そのまま議場を背にする。
「――計画変更だ。最短で現場へ行く」
重鎧の胸板を鳴らしながら、外へと急ぐ。
止めようとした副官の声を無視し、彼は厩舎に向かい、駿馬のたてがみを鞍ごと掴んだ。
騎乗するや否や、風を切る咆哮を残して庁舎を後にする。
「ここから先は……時間との勝負だ」
魔剣の使い手が昼に姿を現したという事実は、想定の枠を越えていた。
今までの襲撃はすべて夜――それも、視認や痕跡を極力残さぬ静かなものだった。
それが、よりにもよって街の心臓部ともいえる市場の大通りに出たというのだ。
「市民の犠牲が出る前に止めねば……」
一方その頃、裏路地の屋根を跳ねる黒髪の影――アレク。
雨樋を蹴って跳び、洗濯物の吊るされた木板をかわしながら、黙然と瓦屋根を滑る。
風を読み、視界を狭め、速度を落とさずに都市の壁を駆ける。
ーー……昼間に動き始めたか。
遠目に、中心街の空気がざわめいているのが分かる。
人々の怒声と悲鳴が混じる不協和が、風に乗って耳を打つ。
ーー夜よりも昼のほうが、目撃のリスクも高い。それでも行動を移したということは……。
アレクの眼が鋭く細まる。
ーー理性を失い始めている。もはや獲物を選んでいない。……暴走と見るのが自然だ。
この段階で動き出したのは、仕留めきれるという自信ではない。
むしろ、このまま放置すれば、手遅れになるという確信。
事前の連携も、合流の打ち合わせも、もはや贅沢な工程に過ぎない。
二人は、互いの判断力を信じ切っていた。
だからこそ――ブロウは正面から馬を駆り、堂々と騎士の道を行く。
アレクは影から都市の隙間を縫い、最短距離で風のように駆ける。
《王国の盾》と、《影の追跡者》。
目指す先は同じ、市場の只中。
――合流の手間すら惜しみ、それぞれの手段で災厄を断ち切らんとしていた。
市場中央。
魔剣が飛翔し、逃げ遅れた少女に突き込む――
シュッ
少女の体が地を滑り、直後に盾の縁が閃く。
ギリギリで抱え込んだのはブロウだった。
斬撃は盾面を無視し、空中で“向きを変えて”襲いかかる。
ブロウは渾身の側転で避け、少女を背後へ放る。
「やはり避けなくてはならないのか……」
真上から魔剣が急降下――
そこへ飛来した石礫。
屋根上のアレクが投げた剣が、剣を持つ一般人の手首を切り落とす。
同時にブロウが突進、丸盾の縁で横殴りに剣を弾くと
魔剣は甲高い悲鳴を上げ、宙を漂った。
「一般人は確保した。……だが剣が!」
魔剣は真紅の飛沫をきらめかせ、
倒れ込んだ衛兵の胸板へ“突き刺さる”ように吸着。
怯えた眼が即座に凶光へ反転し、
宿主を替えた魔剣は、より速い殺気を放った。
「やはり寄生型か。――ブロウ、交代しながら分離を!」
練った作戦としては、
1.ブロウが盾で《衝突角》を作り斬撃の向きを逸らす
2.アレクが隙間から〈魔力符〉を投擲、宿主の筋力だけを麻痺
その作戦に準じて行動を起こしていく。
麻痺符が発動し、衛兵の四肢が崩れ落ちた。
剣は支えを失い再び空中へ。
すかさずブロウの籠手が宿主の胸当てを打ち割り、
衛兵だけを後方へ滑らせて無力化――
二人が安堵する間もなく、今度は空中の剣そのものが脈動した。
翡翠色の魔眼が刀身中央に開き、
倉庫街へ向けて自身を矢のように射出。
「もう寄生の媒介すら要らないのか!」
「ならば計画を前倒しだ、倉庫で仕留める!」
薄闇の倉庫。
剣は壁を跳ね、天井を擦り、空間すべてを斬線へ変える。
アレクは事前に梁へ仕込んだ短剣符を連鎖起爆し、
天井と床を繋ぐ“光の格子”を形成。
バチィッ――
斬線が格子へ触れるたび、剣は一瞬だけ静止。
そこへブロウが盾を捨てた“裸の拳”で突貫し、
剣身中央の魔眼に貫撃を叩き込む。
しかし剣は砕ける代わりに“飛沫”となって
数十枚の刃へ分裂、二人へ降りそそぐ。
「――予定外だが、行くぞ、ブロウ!」
アレクは懐から黒い魔力結晶を放り投げた。
床に着弾した瞬間、梁に仕込んだ光格子が逆位相へ反転。
無数の小刃が激しく共鳴し、互いの軌道を食い潰しながら一点へ収束する。
ガギャァァン――!
凝縮した残骸の中心に、紫黒の核がむき出しになった。
そこへブロウが全魔力を右拳に圧縮し、盾を捨てて踏み込む。
「砕盾!」
直拳が叩き込まれる――
パリン。
刀身・柄・邪核、すべてが粉雪のように崩れ落ちた。
紫光も黒煙も消え、金属灰だけが静かに降り積もる。
埃が舞う倉庫で、二人は肩で息をついた。
ブロウが苦笑まじりにつぶやく。
「防げぬ刃を“避けて誘導し、砕く”。──借りを作ったな、アレク殿……いや、“アレク”でいいか?」
「良いですよ……いや良いぞブロウ。あなたが倒れれば王国は傾く。それを防いだだけだからな」
「ふっ、そういうことにしておこう。お前が魔剣やウォーディアの件で“知り過ぎている”ことも黙認してやる。――王国に利がある限りはな」
「察しが早い……助かるよ」
互いの呼吸が整うころ、倉庫の隅で指先ほどの黒結晶がひとりでに亀裂を走らせ、
かすかな紫光を残して塵となった。
アレクが目を細める。
「核片の自壊……回収は間に合わなかったか」
ただ目的は達成できた。
時を超えた反動で魔術はなんとか元に戻ってきたがアレク本来の力を封じられたままで全て達成できるか不安はあったが、それも杞憂だった。
ーー次の目的の頃には間に合うか。
腰に吊った愛剣に手を添え、アレクは息を吐いた。
黒幕はまだ、どこかで糸を引いている。
魔剣は砕かれた。だが、それは手駒の一つに過ぎない。邪核に埋め込まれていた次元跳躍の術式、暴走の起点となった細工された祠、そして人知れず闇で流通していた禁断の魔具群……それら全てが、一人の策士の意図によるものだとしたら?
だが、それでも。
《王国の盾》は折れなかった。
誰よりも前に立ち、誰よりも強く踏みとどまり、幾重もの刃を受けながらも、王都の名と民の未来を、その両肩で支え続けた。
そしてその背後には、影の協力者がいた。
血統も階級も関係ない。ただ守るべきものを選んだ者として、アレクは己の刃を振るった。名誉も称賛も必要ではない。歴史に名を刻むことすら望まない。ただ一度限りの敗北を、塗り替えるために。
かつて――この戦いは滅亡へ連なる定められた過去だった。
《王国の盾》はここで斃れ、都市の防衛線は崩壊し、魔剣は人々を次々と蝕んでいくはずだった。
だが今、その歴史は書き換えられた。
白昼に現れた刃は、その起動ごと切り落とされ、未来の頁からはじき出された。
記録されるはずだった絶望は、記される前に消し去られたのだ。
だが――
書き換えられたということは、そこに書き手がいるということでもある。
その手が誰のものであるか。
誰がこの世界の運命の筆を握っているのか。
そしてその筆が、次にどんな惨劇や奇跡を綴るのか。
それは、まだ誰にもわからない。
ただひとつ確かなのは、
物語は終わってなどいないということだ。
――次の頁に何が記されるのか、それはまだ、誰も知らない。




