覚醒〜最初の障害〜
遠い遠い、幾許もの時空を、意識が遡ってゆく——
「時空」とは現実世界に生ける者達全てが過ごす「時」の集合体であり、その規模は銀河と比類し得る途方も無く広範なものである。
説明を加えるなら、一つの方向に定まった流れを持つ、大河でもあった。
激流といっても差し支えない。
それどころか「激流」といった表現も生温いと思わせるような途轍もなく激しい流れだった。
もしもそれらに呑まれれば自我の全てを失い、意識は永遠に闇へと葬られていただろう。
しかし術式のおかげか鍛え抜かれた精神力のおかげかあるいは両方か、強烈な流れに逆らい時空を遡っていく。
——一日…………二日…………三日…………四日…………五日…………六日…………七日…………。
無感情に遡っていき、時を数えていく。
一日を超える時間は彼の感覚にして十分ほど。
尋常でない早さで進めている方だが、それでも目的とする年代を考えれば気の遠くなる程の作業だった。だが不思議というべきか。
これだけの途方も無い作業も実直に進めていけば、殊の外早く終わるものである。
幾多の時空を……幾つもの「一日」を一つ一つ超えていき、ようやく目的の「時」に辿り着く。
——……ここ。
最後に一言、無感情に、機械的に呟き、無意識のままに目的の「時」の狭間へと身を委ねる。
時空間の激流に包み込まれながら、深く深く堕ちていく——
そして意識は時空を超え、再び覚醒したのだった。
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「…………」
その男——アレクは、強烈な眠気に抗い、うっすらと重たい瞼を押し開けた。混濁する頭を右手で抑え、倦怠感に苛まれながらもゆっくりと身体を起こし、半覚醒状態の虚ろな瞳で周囲を見回す。
そこは建物と建物の間にある狭間の空間だった。まだ昼過ぎなのだろう。燦々と太陽が照っているというのに、辺りは薄暗く、ぼんやりとしていた。
所々にゴミが散乱しており、生ゴミが放つ特有の臭いが鼻を突く。それに反して、耳には通りを歩く者たちの喧騒と思われる音が聞こえてきた。
「……ここは……俺は何を……」
ともすればどこか遠くから聞こえてくる喧騒と同程度の小さな声でアレクが呟く。
だが——
「ッッッ!!!」
半覚醒状態のまま数秒後、その答えが記憶の奥底から意識を揺さぶる衝撃となって襲いかかってきた。
あの時、あの場所で、あの時間、あの瞬間に何があったのかという記憶が、だ。
頭から離しかけた右手を引き戻し、先ほど以上に強く抑え、歯を噛み切るのではないかと思わせるほどの勢いでくいしばった。過呼吸とでもいうのか、息も荒くなり、玉のような汗が浮き出ては額を伝う。このまま続けば、アレクは記憶にすり潰され、過呼吸で倒れてしまうだろう。
だが、不意に頭を押さえていた右手を重力に委ねて下ろし、歯軋りをやめ、呼吸も徐々に落ち着きを取り戻した。目的を思い出したからだ。何よりも上におくべき大願を、思い出したから。
慌てた手つきで腰回りにある二つの鞘に収められた剣と、装備したピアスや指輪などの装飾品が一つも失われていないか確認する。
最後に心臓に手を当て、肉体に何か問題がないかを探る。その確認作業を終えたことで、ようやく完全に落ち着きを取り戻した。
その上で、時空を超える前に一度固く誓った覚悟を再度、強固なものへと変える。ゆっくりと力強く大地を踏みしめて立ち上がり、アレクはどこからか聞こえてくる喧騒の音源へと歩き出した。
目覚めた路地裏という影の世界から、表通りの光の当たる世界へと。しかしアレクはわかっていた。たとえ光の当たる世界に立ったとしても、決して降り注ぐ光を浴びることはできず、光を浴びる必要もないのだと。
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表通りは人混みで溢れかえっている——わけではなかった。いや、人混みで溢れかえるどころか、その正反対といってもよいくらいに人の行き来が疎らだった。
街全体も活気に溢れているようには見えず、道行く人々の表情も明るいものとは言えなかった。さらに、街に建つ建物はどれも灰色で無骨な石造りであり、どんよりとした街の雰囲気を助長しているように思えた。
そんな光景を見て、アレクが最初に抱いた感慨は驚きだった。感情の起伏をそれほど表に出さない彼だが、今回は軽く目を見張り、周囲を見渡してその驚きを露わにしていた。それも街の暗い雰囲気や石造りの建物に対してではなく——。
——本で読んで知識として得てはいたが、まさか本当に結界に守られていないにも関わらず、民が怯えずに平然と暮らしているとは思わなかった。
アレクはこの「街」という概念そのものに驚いていた。人類が衰退し、滅びが世界を覆っていた時代と比較すれば、これは有り得ない光景だった。
信じられなかった。食料に困った様子もない。疲れ果てた様子もない。命を諦めた目をした者が誰一人としていない。この光景は、どれだけの金を積み、労力を費やし、命を犠牲にしても取り戻せなかった幻想が目の前に存在していた——『この世界』にはあった。
これは酷く大きな衝撃で、あまりに大きなカルチャーショックであった。それほどの衝撃を受けたが、ややして立ち直る。何故なら、全てを犠牲にしてでも優先すべき目的があるからだ。
このような感慨に浸っている時間などなかった。時間は『有限』であることを、何よりも理解している。そして目的を達成するために、今すぐにでも為さねばならぬことは——
「ズレて、いなければいいが」
願いを込めて、アレクはそう呟く。どれほど綺麗でも、美しくても、理想的でも、『手遅れ』であれば無意味だ。
それ故に、今まずするべきことは、この街、そして今の時間が目的の場所と時間であるかどうかを確認することだ。この街が目的の街なのか、それとも違うのか判断がつかなかった。
使命を果たすために必要な情報は完璧に頭に叩き込んでいる。まず何よりも大切なのが『時間』だ。計画通りに行くか否かは、すべて到達した時間によって異なる。
とはいえ、目的の時間から大幅にズレていることはないはずだ。ある程度の時間を読み取る能力を備えていることから、それがわかる。
その感覚的には、目的の時間であることは間違いない。そして次に「使命を果たす上で必要となり得る情報」の一つとして、この時代の王国の全体図があった。
破滅した世界にも、この時代の王国の全体図は僅かに残っていた。しかし残されていたのは地図だけで、街並みや雰囲気を判断材料として街の名を特定するのは難しかった。
残念ながら、すべての街の細かな地図が残っていたわけではない。だから、詳しい道案内をするのは厳しい。しかし、街の名前を聞けばアレクは王国のどの位置にいるかをすぐに把握できる。
故に、最初にこの街の名前の情報を収集する必要がある。そこで、まず路地裏にいても聞こえていた喧騒を手掛かりとすることにした。一人一人に話しかけても良いが、最初はなるべく目立たないようにしたい。
今の服装はこの時代に合わせてあるが、周囲にはそれに気づく不審点があるかもしれない。もちろん、話しかけただけでどうこうなるわけではないが、気になるところだ。どうせなら人混みの中で聞いた方が、印象に残りにくい。
そう考え、一歩、また一歩と路地裏を抜けると、眩い光景が目に飛び込んできた。石造りの建物が両側に立ち並ぶ大通りだ。その先には広場があり、黒山の人だかりができていた。耳に届くのは活気に満ちた喧騒、遠くで奏でられる陽気な音楽、そしてどこからか聞こえる笑い声――まるで祭りでも始まっているかのようだった。
アレクは立ち止まり、周囲の様子を注意深く観察した。行き交う人々の服装や言葉遣いは見慣れないものばかりだった。やがて、大勢が一箇所に集まっているのに気づいた。目を凝らすと、広場の即席の木の舞台を中心に、旅芸人の一座が華やかな演目を繰り広げていた。色鮮やかな衣装に身を包んだ芸人たちが音楽に合わせて舞い踊り、軽業や曲芸を次々に披露していた。子供から大人まで、集まった人々は皆、目を輝かせ、笑い声と歓声が絶えなかった。
一座の演目に見入っていたそのとき、座長らしき初老の男が一歩前に進み出て、声高らかに叫んだ。「さあ、ラゼンの皆さん! 本日の旅芸人一座の芸をどうぞお楽しみください!」その言葉が耳に入った瞬間、私ははっと息を呑んだ。ラゼン――男は確かにそう言ったのだ。
胸が高鳴った。ラゼン。聞き覚えのある名だ。私 アレクの知る限り、それは遠い地にある街の名だったはずだ。
ーーなぜここでその名が聞こえる?まさかここが本当にラゼンだというのか?
あり得ない……そう思う一方で、目の前に広がる光景は紛れもない現実だ。アレクは信じがたい思いで周囲を見渡した。
頭の中で記憶を掘り起こし、目の前の状況と照らし合わせた。やがて、理解がじわじわと迫り、血の気が引くのを感じた。アレクは想定していた時代から遠く隔たった場所に来てしまったのではないか。
周囲の風俗も、この街の活気も、私の知る時代とは明らかに異なっている。時間と場所の齟齬に気づいた瞬間、言い知れぬ焦燥が胸の内で膨れ上がった。
しかし、茫然としている暇はない。アレクは強く拳を握りしめ、一度大きく息を吸い込むと、乱れそうになる心を鎮めるようにゆっくりと吐き出した。
そして、自らに「焦るな。まずは状況を知るんだ。今は一つでも多くの手がかりを掴むしかない」と言い聞かせた。
アレクはすぐに周囲から情報を集め、このラゼンという街が正確にいつの時分なのか、何が起きているのかを確かめようと決意した。幸い、人々は皆活気づいており、雑踏に紛れれば余計な注目を引くこともないだろう。アレクは再び顔を上げ、その雑踏の中へ静かに踏み出した。
「ラゼン」は、王国の首都から東方に位置する辺境の街である。その活気のなさは、周囲の人々によって納得されることであろう。しかし実際には、王国の首都からの距離は直線で考えればそれほど離れていない。馬車を使えば二日ほどで到着する。
——では、なぜラゼンが「辺境の街」と呼ばれるのか?
それは、ラゼンと首都との間に「迷いの森」と称される広大な森が広がっているからである。
先ほど「直線距離をなぞっていければ」と述べたのも、この「迷いの森」の存在が理由である。「迷いの森」は複雑に入り組んだ広大な森で、前述のように迷わず正しいルートを選べれば二日ほどで抜けられるだろう。
だが問題は、この森が通常の森ではないという点にある。一度迷ってしまえば、正しい道に戻るのは困難であり、迷ったままでは死ぬまで彷徨い続ける運命が待っているのだ。また、理由は不明だが、何度伐採しても異常なスピードで再生するため、現状では放置せざるを得ない。
せめてもの救いは、大して危険な魔獣が生息していないことだが、それでも危険な森であることに違いはない。迂回路も存在するが、その場合、四つの街を越えなければならず、最短でも七日以上かかってしまう。荷物を整える時間を考慮すれば、より余裕が必要となる。
これがラゼンが「辺境の地」と称される所以である。そして目指す街は「迷いの森」を越えた先にある。常識的に考えれば、「迷いの森」を迂回するルートを選ぶのが安全策であり、最善の選択であろう。
だが、アレクが選んだのは——
「『迷いの森』を抜ける、その方策を立てなければならない」
如何にして「迷いの森」を抜けるのか、それが彼の課題だった。なぜ「迷いの森」を抜ける選択をしたのか?
その答えは至極単純、時間がないからだった。旅芸人の一座の座長から街の名を聞いた後、「迷いの森」の存在について思考を巡らせ、その時代と、ある事件が発生するまでの残り時間を急いで計算した。
転移される先の座標が誤っていた時点で、転移先の時代にも誤差が生じる。また、「迷いの森」を抜けるか否かは、残された時間次第だ。
もし、次の目的に手遅れの時間が迫っているなら、遺憾ではあるが第一の目的を放棄し、次の第二の目的へと万全を期して挑むべきであろう。しかし、幸いなことに第一の目的と第二の目的の間には、しばしの猶予があった。
第一の目的を放棄すれば、第二の目的以降に誤差以上の狂いが生じ、計画の難易度は著しく上がるだろう。それでも、今の時間から逆算してどう足掻いても間に合わない場合には、ハンデを受け入れて安全策を選び、目的の街に向かうべきである。
だが、逆に言えば、足掻けば間に合う時間があるなら、危険を冒してでも第一の目的を果たすべきである。
——つまり、残された時間は「足掻けば間に合う時間」だった。
街に活気がないことから察するに、この街に暮らす者たちは生活の厳しい人々が多く、皆すぐ手の届く範囲のことで手一杯なのかもしれない。
おかげで、情報を聞き出すのは簡単だった。
この時代の貨幣は、少しばかり用意していた。少し握らせ、内密を条件に様々な話をしてもらった。
「まぁ、偽札ではあるがな」
そうだ、用意した貨幣はもちろん偽札だ。破滅した世界でこの時代の貨幣が残っている方がおかしい。それに、あからさまな偽札など使うわけにはいかない。
緻密な箇所まで似せて作った偽札なら、貨幣の移動に敏感な王都であればともかく、辺境の街ラゼンならよほどのことがない限り看破されることはないだろう。
仮に看破されたとしても、ある程度時間が経過すれば大丈夫なはずである。そして、万が一真実を知れた時には、既に目的地に向かっている頃合いだろう。
その後、再びこの街ラゼンの土を踏むのはおそらく一年以上先になるだろう。しかし、偽札で釣ったからと言って、完全に信用できる情報が得られるとは限らない。それでも、民から情報を聞き出すことが全くの骨折り損とは言えなかった。お金を握らせて信頼度を上げたことも良かったのかもしれない。
「おかげで色々と思い出して、『迷いの森』を抜け出す方法を考え出せたのだから」
そう、思い出したのである。転移するために空間超越術式に設定した年日の前後に起きた事件を聞き出す過程で、民の口から出なかった情報と、先ほど聞いた旅芸人の一座の名前が合わさったのだ。
さらに、この後にある旅芸人の一座が歴史上どのような末路を迎えたのか、その月日についても知っておく必要があった。