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破滅の改変者  作者: 篤
18/23

水を司る大魔獣ウォーディア単独討伐戦 リザルト

 

夕刻――空は茜から群青へと緩やかに沈みゆく。

 その静寂を破ったのは、廃鉱石場上空に立ちのぼる不自然な黒煙だった。風に乗って重く流れる煙は、山を越え、谷を渡り、まるで意思を持つかのように街へ向かって広がっていった。


 商都クローデンの外縁に位置する監視塔のひとつが、まず異変を捉えた。

 続いて、街に散らばる各地の衛兵詰所、魔力観測庁、そして練兵団の詰所が、それぞれ警鐘を鳴らす。

 ほぼ同時に、祠周辺の異常魔力反応を観測した術士班が騒然とし、行政官のもとへ緊急報が届けられた。


「水源が……襲われた?」


 曖昧な言葉に、兵士たちの顔色が変わった。

 街を潤す《無尽の水源》――すなわち祠が、外敵に襲撃された可能性があるというのだ。

 瞬く間に噂が広まり、街の空気がざわめきに包まれた。

 各所で自警団が半武装で待機し、住民は不安げに空を仰ぎ見る。


 練兵団の中隊が即時出動し、行政官も護衛を連れて現地へ向かう。

 駆ける馬の蹄音が石畳を打ち、早駆けの兵が先行偵察に走る。

 刻一刻と深まる黄昏のなか、一行は祠から北東へ伸びる丘陵を越え、異変の発信源へと急いだ。


 そして、彼らが目にしたものは――


 焼け爛れた地表。

 赤黒く焦げた大地には、かつての鉱区を思わせる整然さも、祠に通じる清浄さもなかった。

 地面はまるで巨大な火器で一斉掃射されたかのようにひび割れ、ところどころは白く灰化し、ところどころはなおもくすぶっている。

 焦土の中央には、黒く熔けたような窪地がぽっかりと穿たれ、その底からはかすかに湯気が立っていた。


 傍らには――蒸発しかけた水脈が広がっていた。

 大地を潤していたはずの水はそのほとんどが気化し、ぬめる湿地帯だけを残して引いている。

 それは、まさに“大魔獣が消えた証拠”に他ならなかった。


 そして、焼けた石と灰の中に――一人の人影。


 瓦礫にもたれかかるように、膝をつき、息を整えるように俯く青年がいた。

 その背には灰が降り積もり、衣はところどころ焦げ、膝も肘も土で黒く汚れている。

 だが、全身に纏った沈黙は、単なる疲労によるものではなかった。


 アレク。

 祠の警備記録に名を残す者ではない。市民登録にも明確な籍を持たぬ、旅人風の青年。

 彼は、あの大魔獣ウォーディアの討滅の場に、ただ一人で立っていた。


 使い果たされた魔石の破片が、彼の傍に散らばっている。

 水脈を断たれた痕跡、雷に灼かれた地面、鉱石の爆散痕、そして魔力の残滓――

 すべてが語っていた。ここで何が起きたのか。誰が止めたのか。


 言葉もなく、ただ立ち尽くす練兵たちの前で、アレクはようやくゆっくりと顔を上げる。

 目には疲労の色が浮かび、だが濁りはなかった。


 それは、死闘の終わりに訪れる、静かな余白。

 誰にも語られることのなかった戦いの果てに、ただ一人が辿り着いた場所だった。










「魔石を暴発させて水源地を損壊させた疑いにより、拘束する」


 灰塵の残る現場にて、練兵団の現場指揮官は、硬質な声音でそう通告した。

 それは事前に用意されていたかのように整った文言であり、決して情状や状況に対する柔軟性を見せるものではなかった。


 アレクは無言のまま、その宣言を受け入れた。

 反論も、抗議もない。

 ただ、静かに両腕を差し出すと、兵士たちが手際よく鎖式の拘束具をその手首に掛けた。

 魔力封じの呪符が込められた銀鎖が、カシャリと音を立てて錠を閉じる。


 抵抗の素振り一つ見せぬ青年に、兵士のひとりが一瞬、視線を泳がせる。

 だが任務は任務。

 練兵たちは視線を逸らし、規定通りの手順で連行を開始した。


 そのままアレクは、王都監察局の臨時詰所へと護送される。

 旧税関――今は使用されていない石造りの重厚な建物を再利用した施設。

 地下に降りると、冷気の染み込んだ石壁と、油燈の灯る灰色の通路が現れた。

 階下に降りるたび、温度はわずかに下がり、空気の密度が変わっていく。


 連れてこられたのは、かつて税審部の記録庫だった場所。

 今は応急の事情聴取室として改装され、厚い扉の内側に机と椅子、そして監視の兵がひとり。


 その席には、三人の高官が待ち構えていた。

 一人は治安局長。白髪交じりの厳めしい顔つきで、既に何人もの賊を裁いてきた老将。

 一人は王都監察司。細身で冷淡な瞳を持ち、どこか興味なさげに書面をめくっている。

 そしてもう一人――王家直轄の《祠封鎖隊》より派遣された特別官が、豪奢な紋付きの軍衣を纏って沈黙を守っていた。


 部屋の温度がさらに下がったように感じた。

 声を発したのは、治安局長だった。


「祠は爆散し、魔力供給は途絶えかけている。

 水量は急落、王都の巡回網にも影響が出る。

 そして現場からは雷と火炎魔石の使用痕跡が検出された。……その動機は何だ」


 アレクは表情を変えずに、ただ視線を返す。

 局長は僅かに苛立ったように筆を鳴らし、次の問いを投げた。


「目的は商業破壊か。それとも水利利権の奪取か。あるいは他国の刺客か?」


 その語気には疑念以上に、すでに結論ありきの圧が滲んでいた。

 王国の水源を破壊した人物――その一点だけを切り取り、責任を明確に押しつける姿勢。


 アレクはゆっくりと口を開く。

 その声は低く、淡々としていた。


「……封印は綻びていた。放置すれば、いずれ破られていた。

 私はそれを確認し、現地で魔獣の討滅を行った」


 それだけだった。

 冗長な説明も、弁解もない。事実のみを述べた。


 だが、その言葉に確かな裏付けを示す物的証拠は――焦土と化した鉱区しかなかった。


 兵士たちの犠牲も、魔獣の姿も、すでに熱と雷に呑まれて消え去っている。

 生き残った兵らは、封印監視にあたっていた哨兵たちのみ。

 その中に、ウォーディアを視認した者はおらず、雷と火柱を遠くに目撃したという証言だけが残っていた。


 そして何より――尋問室の空気は、終始冷え切っていた。

 アレクの言葉に対しても、官吏たちの反応は微動だにしない。

 信じているのか、無視しているのか、それすら判然としないほど、静謐な圧力が支配していた。


 石の壁が息を詰め、灯火の揺れが床に微かに影を描く。

 まるで、すべてがアレクを異物とみなしているかのように。


 ――ただ、それでも、アレクの瞳に揺らぎはなかった。

 彼は言うべきことを言い、言うべきでないことを秘め、黙して待っていた。


 その先にどのような結末が待ち構えていようと、今は動かぬ。

 それが、彼の選んだ戦場の後始末だった。












 三刻が過ぎ、夕闇が旧税関の格子窓を深い藍に染めるころ。

 通路の奥に据えられた鉄扉が軋み、重い靴音を伴って二つの影が地下へと案内された。

 揺れる油燈が石壁に長い輪郭を映し出す。衛兵が数歩先を歩き、鎖帷子の擦れる音がかすかな残響をつくった。


 先に足を踏み入れたのは、商業同盟の重鎮にして《王国経済の支柱》と謳われる男――フェテル・アラード。

 端整な口髭を整えたその風貌は威風堂々としており、深い緑の外套には黄金の糸で同盟章が縫い取りされている。

 その後に続くのは若き商会長、アルディ・リューネ。黎明色の外套を翻し、真っ直ぐな眼差しで前を見る佇まいには、青年らしい溌剌さと貴族的な気品が同居していた。


 ふたりの手には、蝋封の割印が付された書状――“臨時立入許可状”。

 事件からわずか三刻で発給されるなど前代未聞だが、それはフェテルが同盟内で築いてきた影響力と、アルディが持つ迅速な交渉手腕の賜物であった。


 監察室の扉を押し開けると、重たい空気が張り詰めている。

 石造りの室内の中央には、鎖に繋がれたまま椅子に腰かけるアレク。

 その背筋は微塵も揺らがず、蝋燭の灯が落とす影さえ静かだった。

 一方、机を挟んで座る治安局長と王都監察司、それに《祠封鎖隊》特別官は、硬い表情で資料を睨んでいる。


 フェテルは卓上へ許可状を滑らせるや、開口一番、低くしかし確信めいた声を放つ。


「お控え願いたい。――今この青年を罪人として扱うのは早計です」


 その響きには、商業同盟を束ねてきた男の迫力があった。

 治安局長が眉をひそめ、監察司が視線を上げる。

 フェテルは懐から掌ほどの結界石片を取り出し、卓に置く。深い瑠璃色の表面には、網の目状に走る水魔力の暴走紋が刻まれ、半ば炭化した内部が覗いていた。


「封印結界石の破片を急ぎ解析させました。断面には無数の内側膨張痕――外部からの破壊跡はありません」


 石片を指先で示しつつ、フェテルの声音は動じない。

 続いてアルディが帳簿――と言っても、それは帝都からの通信録と、祠番兵の当直表、監視塔の記録紙片を慎重に綴じ合わせた即席の調書だった――を静かに開く。


「さらに、祠番兵の遺体を検分した軍医の報告に拠れば、致命傷は鈍器および詠唱阻害呪による急性ショック。アレク殿の剣傷ではございません。加えて番兵と連絡が途絶えた時刻は、アレク殿が鉱区へ到達する二刻前――封印は彼の到着以前に既に破砕されていたと推察されます」


 監察司は暗色の瞳を細め、石片の断面にルーペを当てる。

 深い皺が額に刻まれ、思案の沈黙が落ちた。

 特別官は合図一つせずとも、後方の副官へ視線で命じ、術計盤を取り寄せさせる。

 その盤面には、城技術院の術士が緊急計測した祠跡の魔力図が投影されていた。


 特別官が低い声で補足を入れる。


「測定結果によれば、祠跡には“大魔力排出後の魔力枯渇域”が広がっている。その残滓中の雷属性反応は、廃鉱石場が帯びていた自然電磁場と一致する」


 フェテルはわずかに顎を引き、結語を口にした。


「すなわち――祠は何者かの細工で内側から崩壊した。

 アレク殿は暴走した魔獣を誘導し、あの鉱区で討伐した。

 周辺で検出された雷・火属性魔石の反応は、その制圧戦で生じたものに過ぎません」


 沈黙が室内を満たす。

 油燈の火が小さく揺れ、隅で鎖の鳴る音がわずかに響いた。

 治安局長は拳で咳払いをひとつすると、ようやく重い口を開く。


「…………成るほど。封印の自壊を招いた黒幕が別に存在すると?」


 誰かがゴクリと喉を鳴らした。

 特別官は盤面を閉じ、無言で局長へ視線を送る。

 監察司は帳簿をパタンと閉じ、タスク用ペンを机に置く。


 長い沈黙ののち、治安局長は重々しく肩で息を吐き、立ち上がった。

 無言のまま部下へ目配せ――銀鎖の錠が外され、鎖が床へ垂れて乾いた音を立てる。


「疑いは払拭された。アレク殿……。貴殿の働きによって、街も水路も守られた。王国を代表し、深く礼を述べたい」


 鎖を外された瞬間も、アレクの表情は変わらなかった。

 ゆっくりと立ち上がり、軽く頭を垂れる。

 その仕草は礼儀正しく、同時に非礼を許さぬ芯の強さを帯びている。


 視線を向けた先に立つフェテルへ、短く一礼。

 アルディは胸を撫で下ろし、安堵の笑みを見せた。

 フェテルは唇の端をわずかに上げ、「これで私の借りが、またひとつ増えたな」と冗談めかして囁くと、すぐに端整な仮面を被り直した。


 だが――


 その場に残る一同の背筋を、別の寒気が撫でる。

 封印を内部から崩壊させ、番兵を闇に葬り、ウォーディアを解き放った“何者か”が潜んでいる。

 黒幕は捕まりもせず、動機も目的も判然としない。

 事態を覆う闇は晴れたわけではなく、むしろ影はさらに深く伸びていた。


 尋問室の灯火が揺れ、石壁に映る人々の影が、互いの輪郭を溶かしながら揺曳する。

 その揺らぎの向こうで、王国の安寧を蝕む見えない敵の存在が、静かにほくそ笑んでいるかのようだった。








 翌朝。

 夜の帳が明けきらぬうちから、王都にて発行される王家公式報が各地の公文掲示板に貼り出された。

 それは小寒い朝の空気を裂くように、印刷所の鐘と共に街の各所へと配られていく。


 見出しは淡々としていた。

 激情も扇動も含まぬ、実務的な文調が並ぶ。


 《国歌叛逆勢力による祠封印の襲撃、および魔獣の解放》

 《これを民間人一名が臨時対応し、討伐に至った旨を確認》

 《王城は即日、補修部隊および学術調査団の派遣を決定》


 文面はそれだけだった。

 背景や経緯、戦闘の詳細は記されておらず、疑念の余地を与えぬ構成で淡々と処理されている。

 だが、街の人々にとっては、その簡潔さこそが安堵の源であった。


 「水源がもう大丈夫らしい」

 「魔獣は討たれたってさ」

 「誰かが命をかけて止めてくれたんだな」


 市井の噂は穏やかに広がっていった。

 祠に封じられていた魔獣は既に存在せず、封印も一から修復される。

 依然として水量は減少しているが、それは一時的なものであり、いずれ復旧する見込み――そう報告された。


 大きな混乱や暴動も起こらず、街は安定を保った。

 商業同盟は速やかに流通網の調整を始め、水運業者への補助金支給も決まり、庶民の生活にまで大きな動揺は広がらなかった。

 王国はその治安維持と封印再構築に全力を注いでいる――その事実だけで、人々の不安は次第に霧散していった。


 町民たちにとっては、目の前の暮らしが何よりも大切だった。

 魔獣の名など、正式に記憶している者はほとんどいない。

 それが百年前に王国を半壊させた存在であったという事実さえ、古文書の中の出来事に過ぎなかった。


 ――かくして、疑惑は氷解した。


 報道の文面が示すとおり、アレクの名は「民間人」として公に明記され、討伐者として認知された。

 拘束も取り下げられ、彼の行動は緊急対応という形で評価された。


 そうして彼は、再び“表の光”へ戻ったのだった。


 しかし――


 アレクの瞳に映るのは、感謝の拍手でも、称賛の言葉でもなかった。

 名誉や栄光に胸を張ることもない。

 人々の歓声は、彼にとって一過性の風と変わらなかった。


 この程度の災厄など、序章に過ぎない。

 あれほどの魔獣が、たった一体で終わると誰が思う。

 むしろ、すでに誰かが意図的に封印を破り、動かし、歴史の底に眠っていた力を掘り起こした。

 その事実こそが、最大の脅威である。


 アレクはひとり、朝の喧騒から外れた石橋の上で、街の様子を見下ろしていた。

 人々の笑顔。子どもたちの声。荷を運ぶ商人の活気――そのすべてが平穏の象徴でありながら、あまりに脆い均衡の上に成り立っていると、彼は知っていた。


 だからこそ、眼差しは静かに、鋭く、遠くを射抜いていた。

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