水を司る大魔獣ウォーディア単独討伐戦②
水を司る大魔獣、ウォーディア。
その巨体が今、かつてないほどの激昂に包まれていた。
怒りの矛先はただ一つ。
己を傷つけ、何度も進路を阻んだ、たった一人の人間──アレク。
封印の束縛からようやく解き放たれ、魔力の食料を求めて地上に這い出したその瞬間、横合いから突如として浴びせられたのは雷撃だった。
絶大な吸収能力をもってしても分解できぬ、唯一の弱点。
強烈な閃光と共に全身を駆け抜けた激痛は、長き眠りの直後にはあまりに苛烈すぎた。
初撃で明確な痛打を受けた時点で、ウォーディアの警戒心は一時的に膨らんだ。
しかし、攻撃を放ったのがたった一人の人間に過ぎぬと知れた途端、その一抹の不安は笑止にすり替わる。
ウォーディアにとって、人間など取るに足らぬ存在である。
脅威となるのは群れであり、数であり、封印のような術式だけだ。
単独の個体など、いかに工夫を凝らしていようと小虫の域を出ない。
――だが、それでも、やられっぱなしでは癪だった。
激しく蠢いた触手を一斉に放ち、攻撃主であるアレクを確実に仕留めたはずだった。水の暴風が全方位を薙ぎ、霧と衝撃で覆い尽くすような一撃。生き残れるはずがない。
そう高を括り、ウォーディアはゆっくりと体を巡らせて街へと進路を向け直す。
その時――僅かな違和に気づく。
吸収したはずの魔力が、あまりに微量だったのだ。
(……奪えた魔力が、これだけ……?)
その訝しみが頭をよぎった、ほんの一拍後。
再び浴びせられる雷撃。
鋭い閃光が視界を焼き、電流が肉を裂く。
痛覚に火が灯り、思考を上書きするように憤怒が爆発する。
──取るに足らぬ人間のくせに、なぜここまで邪魔立てを!
怒りはもはや理性を超えた。
街などどうでもよい。あの小虫を、まず踏み潰さねば気が済まない。
だが追いすがっても、アレクは巧みに魔石を操り、雷撃と回避でウォーディアの攻撃をいなし続けた。
そのたびに触手が砕かれ、鋭い痛みが肉を走る。
怒りが頂点に達しつつある中で、ウォーディアは石ころが転がる広い石場へと踏み込んでいた。
そこは、かつて栄華を誇った鉱山跡地――廃鉱石場。
だが、場所が変わろうとも、為すべきことは変わらない。
全身から魔力感知を広げたウォーディアは、周囲の空気がわずかに震えていることに気づいた。
足元に転がる岩石の表面が、赤く、熔けるように熱を帯び始めていたのだ。
(……何だ?)
立ち上る熱気は尋常ではない。
だが、水の巨体を持つウォーディアにとって、通常の炎や高熱は脅威にはなり得ない。
それは数多の都市を蹂躙した経験からも明らかだった。
加えて今は、雷撃の直後による反動で一時的に魔力吸収能力が鈍っているが、それも束の間で回復する。
この場に満ちた魔石の魔力も、吸収が戻ればすべて己の糧となるはずだった。
それなのに、あの人間――アレクはなおも熱罠を張り、さらには最後の雷の魔石を投げ込んできた。
しかし、その軌道は奇妙だった。
狙うべき本体ではなく、熱で赤く染まった地面の中央。
魔石は勢いを欠き、ほぼ真下に落ちた。
(……なぜ本体を狙わぬ。何を──)
疑念が答えに辿り着く前。
その小さな魔石が、鉱石場全体に張り巡らされた熱と魔力の伏線を、一斉に誘発した。
引き金となったのは、蓄積された巨大な電位差。
落ちた魔石が火花を散らすと同時に、場内の魔石が連鎖的に放電を始める。
紅く熔けた地床を奔るのは、灼熱と電撃の複合奔流。
雷が熱を呼び、熱が雷を増幅し、まるで竜巻のようにウォーディアの巨体を包囲する。
吸収能力はなおも回復途上、再起動するにはあと数秒が必要――
だが、その数秒が致命だった。
全方位から襲い来る熾烈な分解電流。
通常の雷撃とは一線を画す、地場全体を焼く連鎖の奔流が、外殻を砕き、内部組織を断ち、思考そのものを灼き切った。
最後にウォーディアの脳裏をよぎったのは、理解ではなかった。
ただの混乱と、怒りの残滓――
それさえも、熱雷の波に呑まれ、蒸発していった。
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アレクは、最後の雷の魔石を投じると、もはや振り返ることなく、その場を後にした。
全身の細胞が警鐘を鳴らしていた。
あれが“引き金”だ。引火の連鎖が始まる。もはや時間の猶予は、ほんの刹那しかない。
言葉を発する余裕などなかった。
ただ靴裏で岩片を蹴り、荒れ果てた廃鉱石場を全速力で駆け抜ける。
足場は不安定で、転倒すれば命取りになる状況だったが、アレクの動きに迷いはなかった。
踏破経路は事前に頭へ叩き込んでいる。爆心地を背に走る、綿密に計算された“脱出の線”。
直後――
地鳴りが空気を圧縮し、次いで目も焼くような白雷が視界を染め上げた。
瞬間、爆風が背を蹴りつけ、肉体ごと宙へさらわれる。大気が弾ける音と共に、身体が一瞬ふわりと浮いたかと思うと、無造作に地へ叩きつけられた。
岩肌を転げ、細かい礫が頬をかすめる。
服の一部は裂け、土塊と汗にまみれる。だが外傷は軽微――爆心を逸れた狙い通りの結果だった。
アレクは土を払う暇もなく身を起こすと、鈍く痛む体を叱咤して再び走り出す。
まだ終わってはいない。第一波は雷、第二波が本命だ。
そして、予測通りに来た。
わずか数秒後――
轟、と世界が揺れた。
第二波。今度は炎の爆発。
炎熱が地表を融解させ、爆発の奔流が全域を白熱地帯へと変える。
石が爆ぜ、金属が叫び、風が吠えた。
すべてが融けて消える、圧倒的な火の圧力。
火柱が天を衝き、煙が渦を巻きながら空へ昇っていく。
やがて轟音が遠のき、黒煙が静かに薄れゆく。
そしてそこには――
大魔獣ウォーディアの影は、もう存在しなかった。
一帯を呑み込んだ閃熱の中に、その巨体の形跡は見当たらない。
泡のように消えたわけではない。確かに、物理的に消し飛ばされたのだ。
あの不滅と思われた水の巨影が、いま、静かに終わりを迎えた。
アレクは距離を取りながらも、焼け野の中央を見渡し、思考を巡らせた。
――何が、起きた?
確かに使用したのは、雷の魔石と火の魔石。
それだけで、なぜここまでの破壊力が出たのか。
頭の片隅に疑問が過ったが、答えはすぐに足元に転がっていた。
鉱区一面に散らばる大小の岩石。
そのいずれもが、黒く濡れたような光を帯びている。
それはただの石ではなかった。
――ゲルマニウム鉱石。半導体特性を持ち、熱と電気の刺激に敏感に反応する物質。
アレクは戦闘前にそれを発見していた。
この地に眠る鉱石が、ある条件下で電磁場を形成しやすいことを。
あとは計算だった。
まず火石で、鉱石に均等な熱を溜め込ませる。
熱を逃がさぬよう、場全体を溶けかけの鍋のように整え、閾値ぎりぎりまで温度を保たせる。
そしてそこに、雷の魔石を投じる。
巨大な電位差が生まれ、ゲルマニウム鉱石は全域で電流を誘発。
雷は落ち、熱は増幅され、電場が形成された空間は落雷装置へと化した。
火石に溜まった熱量も連鎖的に爆ぜ、全域が文字通り「炎雷の結界」と化す。
そのすべてを、魔力吸収が封じられた直後のウォーディアへ叩き込む――
これが、アレクの描いた一手。
いや唯一絶対の討伐策だった。
物理は通じず、触れれば魔力を吸われ、取り込まれる。
真正面からの戦闘など、そもそも成立しない。
ゆえに――誘導し、罠に嵌め、全体ごと焼き尽くすしかなかった。
魔石の仕込みも、発動のタイミングも、脱出の足も、どれか一つでも誤れば即死。
そのすべてが一発勝負の綱渡りだった。
それでも――
成功した。
「……これで、ようやく一段落か」
アレクは焼け焦げた大地を見渡し、低く吐息をこぼした。
目に映るのは、熱気の残る焦土。
そこに確かに存在した、百年前の封印さえも破った天災級の魔獣。
かつて王国を半壊させ、伝説の災厄として語られた存在が、いま、ひとりの手で討ち果たされた。
たとえ、魔獣の魔力が封印の長期化によって大きく削がれていたとしても――
たとえ、自身の異能が未だ封じられた状態であったとしても――
アレクの表情に、誇りはなかった。
勝利に酔うこともない。
ただ、冷ややかな視線が、遥か遠くを見据えている。
――これは、始まりに過ぎない。
この世に潜む災厄は、ウォーディア一体ではない。
その同等、あるいはそれ以上の存在が、まだ姿を見せぬまま、闇に潜んでいるはずだ。
すでに滅びの因子は複数の地に根を張り、歴史の綻びを狙って牙を研いでいる。
それでも――アレクは知っている。
今、確かに狼煙は上がったのだ。
誰も知らぬところで、運命を覆す烽火が打ち上がった。
静かに、しかし確かに。
破滅の未来を、塗り替えるための、最初の火が。