通り魔事件 ①
夜が更けはじめたクローデンの石畳には、徐々に冷たい気配が満ちていた。
王都の南端に位置するこの街は、長らく平穏と繁栄の象徴とされてきたが、今宵ばかりは様子が違った。
宵闇に灯る路地のランタンは、揺らぐ炎をたたえて石壁を照らしていたが、その影は妙に長く、形をなさず、まるで意思を持つかのように揺れていた。
その夜、最初に悲鳴が上がったのは港区の外れだった。
水辺に近いその一角は、昼は荷揚げで賑わうが、夜には人通りも減り、静まりかえる。
叫び声を聞いて駆けつけた見回りの衛兵が見たのは、倒れ伏した中年商人の姿だった。
胸元には、一直線に走る鋭い裂傷。だが不思議なことに、衣の裂け目は浅く、皮膚と肉だけが断ち切られていた。
しかも斬られた当人は、誰に襲われたのかも、どこから切られたのかも覚えていなかったという。
「気づいたときには、ただ――冷たいものが横を通ったような……」
彼はそう言い残し、目を閉じた。意識は深く沈み、しばらく戻らなかった。
現場には血の跡も、斬撃の余波も残されていなかった。
瓦礫も騒ぎも起きず、まるで“何もなかった”かのように静寂が支配していた。
だが、それがかえって衛兵たちを底知れぬ不安に誘った。
「この街で何かがおかしい」――そんな直感が、誰の胸にもこびりついて離れなかった。
それからほどなくして、今度は織物職人の家の前で、第二の被害者が発見される。
男は玄関先に倒れており、やはり胸元に裂傷。
周囲に争った形跡はなく、玄関扉には何の損傷もない。
ただ一つ、家の壁に沿って走る低い風切り音が、どこか異様な空気を漂わせていた。
被害者が口にした言葉は、先ほどの商人と酷似していた。
「一瞬、冷たい光が……横切った……気がした……」
だがその直後、彼もまた昏倒した。
医師たちが診察にあたったが、傷口には焼けも痛みもなく、神経さえ麻痺したような状態で、目を醒ましたあとも記憶は曖昧なままだった。
唯一、治療に当たった医師がぽつりと漏らした言葉だけが残る。
「これは……斬ったのではない。何かが、肉と骨を“選り分けて裂いた”ようだ」
そう言って、震える手でメスを置いた。
深夜零時を過ぎたころ、街路樹の並ぶ中央大通りで異変が起きる。
冷え込んだ石畳を歩いていた衛兵が、ふと耳に違和感を覚えた。
どこかで――風鈴のような、透き通る音が鳴っている。
金属同士が微かに触れ合うような高音。
しかし、その音を追って耳を澄ませば澄ますほど、鼓膜の奥が軋み、不快なざらつきがじわじわと広がっていく。
それはまるで、音ではなく「神経に直接触れる刃」のようだった。
その直後――
大通りの石壁に、一直線の裂け目が走った。
斜めに、鋭く、美しいほどに滑らかな斬痕。
石片が音もなく崩れ落ち、砕けた破片が夜風にさらわれていった。
だが、その斬撃を振るった者の姿は、誰一人として目撃していなかった。
――影も、気配も、足音すら残さず。
ただ、裂け目だけをこの世界に刻んで去っていく。
それはまるで、風が通り過ぎただけのような、あまりにも静かな殺意。
だが確かに、そこには意志があった。
誰かが選んで、誰かを傷つけているという事実だけが、否応なしに街を侵食していく。
以来、夜ごとに場所を変え、標的を選ばず、ただ裂け目だけを残して姿を消す。
獲物は商人、職人、衛兵と多岐にわたり、そこに一貫した動機は見出せなかった。
唯一通底するのは、見えないという恐怖のみ。
やがて、港の酒場や裏通りの賭場、路地の屋台まで――
誰ともなく噂が広がり始めた。
「見えざる殺人者が、夜の街を徘徊している」
誰もその姿を見ていない。
だが、その通ったあとは確かに存在する。
薄く裂かれた壁、切り落とされた紙幣の端、音もなく倒れた人々。
すべてが、その何かの存在を否応なく物語っていた。
ウォーディア討伐の報を受けて、街にようやく安堵が広がり始めた矢先だった。
ほっと胸をなでおろした民たちに、新たな不安が忍び寄る。
それは、凍える夜風の隙間から囁かれていた。
「――次の災厄はもう、扉の向こうで刃を磨いているのだ」と。
王都から正式な事件概要が届くよりも早く──
商都クローデンの丘陵に建つ領主館では、すでに深夜の灯が消えぬまま慌ただしい応接が進んでいた。
古い石造りの回廊を抜け、重厚なオーク扉が開かれる。
そこへ足を踏み入れたのは、《王国の盾》の二つ名で知られる近衛騎士・ブロウと、王室治安院所属の高官。
ブロウは鍛え抜かれた体躯に紋入りの胸甲をまとい、腰に制式長剣を佩く。高官は深い藍の礼服に巻物と封蝋を携え、書記官を伴っていた。
迎えたのは、この街の若き領主、アルディ・リューネ。
彼は夜会用の外套を急ぎ羽織り、大理石の床に杖を鳴らして一礼した。
そしてすぐに、もう一人の来客を同席させる。
黒髪の青年――アレク。
肩口まで伸びた艶のない髪を無造作に束ね、質素な上衣の下に革鎧をしのばせている。
書面上の肩書きは「領主付き護衛兼顧問」。
それでもアルディは軽く咳払いすると、わざわざ正式な場で紹介を続けた。
「諸卿におかれましてはご多忙の折、拙邸へようこそ。
捜査は無論、王国の専権と存じます。されど彼は私が全幅の信頼を置く調査士。
ギルド網を束ね、ブロウ殿の後方支援に当てたい所存です」
ブロウの隣で治安院の官吏が露骨に眉をひそめる。
民間人の介入は不要――その無言の圧力が室内を満たした。
だが、その瞬間を割って、ブロウ本人が顎を僅かに引き、肯定の意を示すと空気が反転した。
「……承認しよう。ただし条件がある」
高官が声を硬くして列挙する。
――ひとつ、アレクは公式指揮系統に入らないこと。
――ひとつ、押収資産の一部を〈復興財源〉としてクローデンへ譲渡すること。
端的で非情な条件だったが、アルディは即座に首肯し、アレクも無言でうなずく。
銀盆に乗せられた羽根ペンが走り、合意文がその場で交わされた。
鎖骨まで垂れた黒髪の青年が静かに頭を垂れる傍らで、ブロウはその横顔を斜めに視界へ納めた。
胸甲の下に息づく自負が、微かな熱を帯びる。
──ウォーディアを独力で討ち取った男か……。
無二の盾を誇る騎士にとって、それは自らの存在意義を揺さぶるほどの衝撃だった。
称賛と嫉心、そして久方ぶりに湧き上がる競心。
複雑な炎を喉奥に飲み下すと、彼は盾装飾を軽く叩き、言葉にした。
「影の援護は助かる。だが正面は俺が通す。王国の盾の名に懸けてな」
「それで充分。私は影の通路を閉じるだけです」
アレクの声は穏やかだったが、その瞳の奥で鈍い闘志が瞬く。
一瞬、二人の視線がぶつかり、目に見えぬ火花が散った。
卓上には、衛兵が走り書きした粗いスケッチ地図と、被害記録を重ねた紙束が広げられている。
襲撃地点は港区から職人区、そして中央大通りへとジグザグに転移。
しかし護衛線の再配置を逆手に取り、《盾》を中央へ誘導する軌跡でもあった。
ブロウは顎に手を当て、指で南市場を示す。
「俺を試しに来ている。次は南市場だろう」
「同感。魔剣の使い手は貴方との正面衝突が本懐でしょう。なら、正面は任せる。私は退路を水上で塞ぎます」
アレクが示したのは闇取引の台帳。
そこには《防御破りの魔具》と呼ばれる試作品の売買履歴が記されていた。
出所は王家登録簿に存在せず、封印研究の禁忌を越えた裏流通品。
アレクはアルディの資金を用い、港湾ギルドの手で小型船を押さえ、運河を利用した逃走経路を封鎖する算段を示す。
ブロウは愛用の盾紋をそっと撫で、隣で指差す青年の横顔を一度見遣る。
深い蒼の瞳に火を灯し、
ーー……今度は俺が奴の一歩先を取ってみせる。
胸奥で秘やかな炎をくゆらせながら、二人は夜明け前の作戦卓に肩を並べた。
月光を吸う窓と、油燈のかすかな滲光が、二重の影を壁に映す。
それは、正面と影──二重の刃として街を守る者たちの宣誓であった。
本来の歴史では──
防御破りの魔剣が、真正面から《王国の盾》の胸板を穿ち、
その不滅と謳われた巨躯が、クローデンの夜に崩れ落ちる。
無敵の防壁が敗れ、混乱の渦が商都を呑み込み、
正義の象徴は血に染まり、その名誉は静かに潰える。
それが、記録されるはずの正史だった。
だが今、夜明け前の作戦卓にて――
一枚の地図の上に、もう一つの布陣が描かれた。
盾は正面から進撃し、剣戟を受け止める。
その背後を、影が包囲し、退路と伏線を断つ。
迎え撃つのではない。導き、誘い込み、仕留める。
かつての敗北をなぞるためではなく、それを凌駕するために。
歴史に記された敗走の軌跡を、
この夜に書き換えるために――
「……この未来は、俺が書き換える」
アレクの声は、ひどく静かだった。
だが、静けさの奥には決意が宿る。
熱くはない。
けれども、冷たく研がれた刃のような鋭さがあった。
すべてを見通すように地図の一点を指し示し、
すべてを終わらせるためにそこへ導こうとする。
過去を知る者だからこそ、それを超える構えを取れる。
書き換えようとする者の背負うものは、重い。
だが、その覚悟に迷いはなかった。
まだ何者も知らぬ改稿後の未来が、
いまここに、静かに芽吹こうとしている。
これはまだ歴史書には載っていない。
どの記録にも記されていない、
剣と盾と、影の策謀が紡ぎ出す――
未だ白紙の、異なる夜の物語である。




