水を司る大魔獣ウォーディア単独討伐戦①
「街へは行かせない。……相手は――俺だ」
その言葉は、驚くほど低く、淡々と発せられた。叫ぶような声ではない。怒号でも、咆哮でもない。むしろ耳元で囁かれるような、抑えた声量だった。
だが、それでいて、その声音はなぜか空気を震わせた。大気を割るようにして、はっきりと響いた。誰もが息を呑むような重さと、確かな意志を孕んでいた。
それは人の声でありながら、人の範疇にとどまらない強度を帯びていた。封印を破り、顕現したばかりの水の大魔獣――《ウォーディア》。その圧倒的な巨体を前にしても、アレクの短い宣言は確かに届いた。
触手の一本がぴくりと動く。竜首の一つが、発声源を探るように頭をもたげ、空気の振動をなぞるかのように耳を澄ませた。そこに、微かな興味が生まれていた。
黒髪黒瞳の青年――アレクは、微動だにしない。その姿勢には、一切の動揺も、ためらいも見られなかった。彼は、すべてを知った上で、この場に立っている。
この瞬間を、待ち構えていたのだ。
アレクは、封印の綻びを誰よりも早く察し、その崩壊の刻限を緻密に予測していた。幾重にも張られていた術式の劣化、結界の不調和、僅かに変化する魔力の流れ。そのすべてを見抜いたうえで、彼は《クローデン》ではなく、あえてこの祠に先回りしていたのである。
そして、怪物が街へ向かって最初の一歩を踏み出そうとした――まさにその刹那。
アレクは、ゆっくりと懐から一つの中袋を取り出した。革製のその袋は、重厚な紐で封がされており、わずかに魔力が滲んでいるのが見てとれる。
それは、アレクが信頼を置く数少ない人物――フォーテンから預かった特別な品だった。
袋の封を解くと、中から現れたのは、淡い光を帯びた透明な結晶。研ぎ澄まされたように尖ったそれは、雷属性の高純度魔石。揺れる水面のような反射光が、一瞬、アレクの瞳を照らす。
彼は無言のまま、それを右手に構えると、一切の逡巡なく、ウォーディアの巨体へ向かって正確に投擲した。
魔石は空気を裂きながら放物線を描き、魔獣の表皮――水塊の境界へ触れた、その瞬間。
封じられていた魔力が炸裂し、目を焼くほどの閃光があたりを覆い尽くした。
白光の爆ぜる閃撃。高熱と振動。雷光が水を裂き、魔獣の巨体を揺らす。ウォーディアが生じさせる全吸収能力をもってしても、電撃だけは変換できない。その一撃は、間違いなく痛みを与えた。
アレクの動きには、迷いがなかった。それはすべてが計画の内であり、すべてが想定の範疇だったことを示していた。
「街へは行かせない。――相手は俺だ」
刻むように低く絞り出されたその宣言は、空気を震わせ、封印を破って姿を現した水の大魔獣へと真っ直ぐ届いた。周囲の森を支配するのは、枯死と泥濘が混じり合った腐臭と、巨体から漏れ出す魔力の重圧。そんな環境の中でなお、アレクの言葉は鋼のごとき意志を帯び、怪物の触手と竜首を束ねて彼ひとりへ惹きつける。
文献でしか知らなかった弱点――電撃。
半信半疑で投げた雷の魔石からほとばしる稲光は、幾重にも重なった水膜を裂き、ウォーディアの表層に白い裂傷を刻んだ。確かに効く。擦過傷に過ぎずとも、確かな痛打になる。もっとも、この情報源となった王国記録は意図的に改竄されている可能性があり、アレクは最後まで疑念を捨てきれなかった。だが実証は済んだ――胸の奥で安堵が小さく灯る。
決定打には遠い。それでも意識を自分へ釘付けにできた収穫は大きい。
ウォーディアは地面を泥へ溶かし、枯木を量産しながら、どろりとした巨体を滑らせて迫る。動くたびに体積が膨張を続け、圧力は災害そのものへと変貌していく。アレクは本能的な恐怖を奥歯で噛み潰し、踵を返して走り出した。
――ゴギャアアアアッ!
大地を震わせる咆哮が背後を追う。全力で走れば振り切る自信はあった。それでもアレクはあえてスピードを抑え、一定距離を維持したまま泥を蹴った。体力の温存、そして“別の狙い”のためだ。
まもなく怪物は追跡を断念し、首を巡らせて街へ向き直ろうとする。その挙動を読み切ったアレクは即座に反転し、二つ目の雷の魔石を投擲した。
――眩閃。
封印崩壊後、二度目の閃光と苦悶の絶叫。腕で光を遮りつつ、アレクは細めた眼を怪物へ向けた。
「言ったはずだ。お前の相手は俺だ」
独り言に近い呟き――しかしウォーディアは確かに反応した。無数の触手がうねり、濁流のように押し寄せる。アレクは退かない。腰をぐっと落とし、身体を極限まで低く構えて全神経を水の暴力へ向けた。
ウォーディアには打撃がまるで通じず、触れれば魔力を吸われて肉体の一部へ取り込まれる。無謀と言えば無謀だ。しかし距離を開ければ怪物は街を蹂躙する。引く選択肢などない。
腰の中袋から雷の魔石を三つ、四つと抜き、命中コースの触手めがけて矢継ぎ早に放る。空中で弾ける白雷が敵肢を蒸散させ、眼球を焼くほどの閃光が視界を奪う。アレクは光を捨て、研ぎ澄まされた直感に身体を委ねた――
半身で滑り込み、地を蹴って右へ転がり、さらに一転。最後の一本をステップでかわし切れず、衝撃に横薙ぎに飛ばされたが、直撃は免れた。浴びた水飛沫により魔力が僅かに吸われる痺れが走る。
ウォーディアの攻撃は、水滴ひと粒でさえ脅威。魔力は異能の源であり同時に生命力そのものだ。一定量を奪われれば肉体は動かなくなる。対策として魔力回復の魔石を二個だけ持ち込んでいたが、一つは今消費した。残るは一個――触手掃射をあと二度凌がねば窮地は確実。
だが敵は思考に難がある。動きを操れば、その鈍重さこそが弱点となる。触手掃射で仕留めたと早合点し、街へ向き直った瞬間、アレクは躊躇なく雷石を本体へ叩き込み、激痛と閃光で巨影を引き戻す。
ギョッとした巨体が再び旋回し、暴れ牛のごとく突進を始めた。速度は増したが、距離維持は造作ない。痺れを切らした触手数本を魔石二発で迎撃し、残りは跳躍と転身でいなし、飛沫を被らないよう最短軌道を選ぶ。さらに一発を本体へ――水塊の核心を狙い、稲光を穿たせた。
ヴォオオオオオ……!
轟咆とともに追跡速度が跳ね上がる。アレクは迫られれば雷石を一個ずつ投じ、怯ませては走る。枯れゆく木々、閃光と水飛沫が交差し、咆哮が大気を切り裂く。魔石を乱射すれば弾が尽きる。惜しめば取り込まれる。針一本が命運を分けるような綱渡り――だが一定の間合いを保っている時点で、彼の真意は滲み出ていた。
――誘導だ。
祠から十分あまり。短いはずの時間が永遠に感じられる。途中で受けた飛沫のせいで最後の魔力回復石も空となり、背筋が焦燥の熱で灼ける。それでも、遂に視界の先に目的地が姿を現した。
かつて隆盛を誇り、今は忘却の彼方に沈んだ廃鉱石場――
断層だらけの岩盤が露出し、深い竪坑が闇を隠す荒涼の地。そここそが、アレクが綿密に編み上げた“ウォーディアを仕留める唯一絶対の檻”であった。
「やっと……か」
絞り出した声には、安堵と決意が複雑に溶け合う。追われる獲物の眼は、いまや狩人のそれに変貌していた。背後で地鳴りが迫る。足を止めるつもりはない。アレクは最後の雷石を握り直すと、廃鉱の淵へ向けて深く呼気を吐いた――この一撃で、嵐を呼ぶ。