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破滅の改変者  作者: 篤
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封印の解放

 

  商業都市クローデンの外れ、街の喧騒も届かぬ緩やかな丘の中腹に、黒々とした岩肌を抱く要塞めいた巨祠が、まるで時代から取り残されたかのようにひっそりと鎮座している。


 その周囲に草木はあるが、動物の影はほとんど見当たらない。鳥の鳴き声さえ、祠の境界を越えることはない。まるで生き物たちが本能的に忌避しているように――いや、実際にそうなのだ。これを辺境ゆえの静寂と捉えるのは誤りである。むしろ、原因は明白だった。


 祠そのものが、見る者、触れる者、近づこうとするすべてを拒むような、背筋を凍えさせる異様な威圧を放っていた。肌に粘りつくような寒気、耳奥を軋ませるかすかな重圧、そして魂の奥底を揺さぶるような得体の知れぬ気配。それらが織りなすのは、常軌を逸した“邪意”である。


 それは、意識を持つ者を圧し潰し、蹂躙し、取り込もうとするかのような暴力的な気配であり、ただそこに立っているだけで、まるで底なしの水底に沈められていくような錯覚すら呼び起こす。理性が悲鳴を上げ、本能が逃げ出せと警鐘を鳴らすのも当然であった。


 その異常空間を監視・封鎖するため、祠の内部には常に三十名の兵士が交代で詰めている。いずれも王国軍に属し、紋章入りの制服に身を包んだ正規兵である。三交代制が敷かれており、延べ人数では九十余名が日々、任務にあたっている。


 本来であれば、費用や効率性だけを考えれば二交代で事足りる配置である。だが、この祠の特異性を踏まえれば、現状の体制はむしろ最低限と言える。なぜなら、過去にはこの地で精神に異常を来した兵が複数発生しており、中には理性を保てぬまま発狂に至った者さえいたからだ。


 異常を感知するための術式――すなわち、侵入者の気配や魔法行使、精神干渉などを検知する《感知結界》も常時展開されているが、それでも十分とは言い切れない。精神的な負荷が常に兵たちの心身を蝕んでおり、長時間の勤務は確実に彼らを消耗させる。ゆえに、持ち場の交代は頻繁に行われ、兵数もある程度の水準を維持せねばならなかった。


 そして、祠の最奥部――中心部に据えられているのが、王国が誇る歴代随一の結界術師が、百年前に自らの命と引き換えに施したとされる巨大な封印陣である。


 その封印によって閉じ込められている存在は、かつて一帯を荒らした伝説の大魔獣。その正体は明かされていないが、天災に匹敵するほどの災厄として語り継がれてきた。王国が辛うじて把握しているのは、「それが桁違いの水を操る」というただ一点のみであり、そのほかの外見や能力に関する記録は、長い時の流れとともに失われてしまった。


 とはいえ、祠の奥底から絶えず湧き出る水の量と、それに付随するかのような底知れぬ威圧感が、ただの伝承で終わらせるにはあまりに真に迫っていた。むしろ、現実に今も「それ」が存在し、封印されていると考える方が自然であった。


 だが、王国はその現実を軽視した。


 祠のことを〈無尽の水源〉と呼び、封印が不滅であるという前提のもとに、その存在を資源の一部として扱うようになっていったのである。二十年前には、警備兵の数を四十から三十へと削減し、全体の配置も総勢百二十から九十へと減らされた。しかも配属される兵士の多くは、経験の浅い若者や、実戦の場をあまり踏んでいない者ばかりとなる。


 封印を「完全なるもの」と信じた結果が、油断であり、慢心であり、そして怠慢であった。


 だが、いかに精妙を極めた術式であっても、時の流れの中で綻びを見せぬ保障などどこにもない。永遠など、どこにも存在しないのだ。


 やがて、その封印に微細なひび割れが生まれた。


 王国はそれに気づかなかった。あるいは、気づこうとしなかったのかもしれない。だが、封印の綻びを誰よりも早く察知した者たちがいた。彼らは偶然ではなく、明確な意図をもってこの地に接近し、封印を解き放ち、惨禍を呼ばんと画策していた。


 もし、警備が厳重に敷かれていたなら、あるいはそれを阻止できたかもしれない。だが、現実にはそうはならなかった。兵力の削減、若手への交代、そして何よりも祠そのものへの信頼と依存。それらが積み重なり、襲撃者たちの計画を容易なものとしてしまったのである。


 選択肢は複雑に分岐しているようで、結局は一つの道へと収束していく。逃れられぬ、破滅への道。


 ――封印は、破られた。


 そして、「それ」は、目覚めた。


 魔獣は、祠の奥底から放たれ、その存在そのものが災厄と化す。


 襲撃は、ためらうことなく、猶予もなく始まっていた。


 すべてが不可逆へと傾きはじめる中――

 運命の歯車が、音もなく、しかし容赦なく回り始める。















「しかしまあ、薄気味悪い所だよな。何度目か知らねえが、俺たちこんな祠を何で守ってんだ?」


「またそれか。意味を求めだしたらキリがないって言ったろ? ここで立ってるだけで衣食住と給料付き。ありがたく思えよ」


 水の大魔獣を封じる祠――入口から十五メートル奥、昼番に就く若兵が二名。どちらも二十代半ば。

 外は快晴でも、祠の内部は常に薄暗く、肌を刺す冷気が漂う。地下に降りた錯覚すら覚える異界だ。


 見張りとは名ばかりで、実際は八時間“いる”だけ。朝昼夜の三交代に加え、王都から代替要員も来る。怠惰な空気が蔓延していた。


「きょうも平和だし──昨日夜更かしで眠い。ちょっと寝るわ」


「俺も……って、おい。交代伝達どうすんだ」


「寝てても入口番のケイが起こすだろ。大丈夫だって」


 二人は段差に腰を落とし、うつむく。

 一分後──


「……無理っ! やっぱり眠れねぇ!」


「だろうな」

 祠の圧が強すぎて、誰一人眠れた試しがないのだ。


「封印されてる大魔獣さん、存在感きつ過ぎだろ。ほんとに封印効いてんのか?」


「緩めてほしいよなぁ」


 他の兵は注意もしない。どうせ寝落ちは不可能と悟っているからだ。


 その時、最初に愚痴をこぼした兵が背後の気配に肩を跳ねさせた。振り返ると入口番のケイが立っている。


「脅かすなよケイ。まだ交代じゃ──」


 ゴシュッ。


 肉を貫く異音。腹部に走る焼けるような痛み。

 視線を落とすと、刃の先から落ちる液体――自分の血。


 彼が崩れ落ちると、残った兵は呆然と立ち尽くした。

 ケイは血溜まりを踏み越え、凶刃を握り直す。


「な、何でだよケイ! やめ──うわぁぁぁ!」


 後ずさる兵は、背後の同僚にぶつかって尻餅をついた。


「立ってる場合か! 逃げ──」


 グサリ。


 胸骨を割る鈍音。二人目も前から心臓を貫かれ、赤黒い液を撒き散らしながら倒れる。


「……な、ぜ……」


 問いは声にならず消えた。

 感知結界も、精神操作検知も、いっさい作動しない。理由を悟る前に意識は闇へ沈む。


「さぁさぁさぁ! 大魔獣様の封印を解く時が来たぜぇ! 第一幕・ウォーディア復活、開演だッ!」


 異様な昂揚を帯びた絶叫が、祠の奥へ木霊した。


 ──見張りは瞬く間に“処理”され、封印陣が破られる。

 奔流のごとき水が祠を突き破り、建屋を丸ごと吹き飛ばした。


 粉塵の奥から姿を現す、全身を水で構成した巨大塊。拡縮を繰り返しながらも余裕で四十メートルを超える、

 水の大魔獣――ウォーディア。







 ****************************










   卵のように丸みを帯びた、巨大な水塊。その不気味な球体の表面からは、どこまでも異様な数の触手がのたうち、地を這い、空を裂いていた。ねじれ、絡み合い、自在に動くそれらの中から、とりわけ異彩を放つのは、五本――幅にして数メートルはあろうかという“竜の首”である。


 それは触手の延長にあるようで、どこか別の生き物のようにも見える、異形の構造を持っていた。竜首は高く持ち上がり、唸るように空気を震わせ、仮初の命を持ったかのように周囲を警戒し、威圧し、睥睨する。


 触手自体も一本ずつ太さが異なり、数メートルを超えるものから、人の指先ほどの細いものまで実に様々だった。数にして数百、あるいは千に届くのではと思わせるほど、うごめく様はまるで悪夢の塊である。


 見る者の精神を蝕むのはその異様な姿だけではない。真に厄介なのは、この怪物が有する“特性”にあった。


 まずはその足元を見れば一目瞭然だ。巨体が接した地面は、すでに本来の形状を保っていない。固いはずの地面は融けて崩れ、泥状に変質してぬめりを帯びている。色は濁り、異臭すら漂いはじめていた。


 さらに周囲に立ち並んでいた木々――かつて生命に満ちていた樹木の数々は、一本残らず、例外なく枯死している。葉は落ち、幹はしなび、根からは水分が奪われて空洞と化していた。まるで何かに、命の芯ごと吸い取られたかのように。


 それらすべての元凶が、この異形の存在。名を「ウォーディア」という。


 《水》を司る大魔獣ウォーディアは、ただの魔力生命体などではない。そこには明確な敵意と欲望がある。すなわち、あらゆる生命から“精気”を吸収し、それを魔力へと転化し、自身の力へと変えていく性質を持っているのだ。


 人がその身に呑まれれば、瞬く間に体内から命を吸い上げられ、魂ごと剥ぎ取られ、ただの“水の一部”に変えられてしまう。意思も記憶も、何もかもが消失し、水塊の一部として存在し続けるだけとなる。しかもその性質は悪食であり、一度でも動き出せば、周囲の生命がすべて枯渇するまで止まらない。飢えというより、渇きに近い。


 かつて、いくつもの都市がこの魔獣に呑まれ、消滅したという記録が残されている。誰もが眉唾と信じていたが、今、その悪夢が現実となって蘇ろうとしていた。


 そして、この封印を守る役目を――たった三十名にも満たぬ兵、しかも実戦経験の浅い若き新兵たちに任せていたという事実。これはもはや狂気の沙汰と呼ぶほかない。


 天災と並び称される『大魔獣』という呼び名は、決して誇張でも比喩でもなかった。


 今や封印は完全に破れ、ウォーディアは解き放たれた。その瞬間から、大惨事はもはや避けられないものとなったのである。


 クローデンの住民たちもすでに、肌を刺すような異様な圧力に、言いようのない不安と戦慄を感じ取っていたはずだ。彼らの多くは、その正体が何であるかを知らない。しかし、理解などなくとも、迫りくる“何か”の気配に魂が警告を発している。


 王国の練兵団が動き出したところで、それは救いにはならない。むしろ、それは目の前の化け物に“糧”を提供するに等しい行為となる。数の多寡など、ウォーディアにとって意味をなさない。


 やがて彼らが、恐怖の正体を知り、その名を口にできる頃には、すでに手遅れとなっている。町は壊滅し、地図からその名を消し、“死都”として語られることになる。


 後に史書は記すだろう。王国騎士団が総力を挙げ、なんとか再封印に成功したことを。しかし、その到着までのわずかな時間を稼ぐために、クローデンという都市が丸ごと犠牲となったことも、同じく語り継がれるだろう。


 商都の喪失。それはただの一都市の崩壊ではない。王国の経済を支える要であるこの地の滅亡は、そのまま国家全体の衰退、ひいては人類文明そのものの終焉の嚆矢となりかねない。


 周囲にある命をすべて吸い尽くしたウォーディアは、なおも飽き足らず、さらなる糧を求めて動き出す。


 その動きは、巨体に似合わず滑らかで、まるで粘性を持った水塊が地を滑走しているかのようだ。ぱっと見には鈍重に見えて、その実、滑るように俊敏に移動する。今は覚醒直後のため緩慢ではあるが、まもなく完全に目覚めれば、その動きは都市を蹂躙するのに十分な速さとなるだろう。


 ――まさにそのとき。


 突如、横合いから放たれたのは、魔力を内包した高純度の魔石だった。放物線を描いて飛来したそれは、寸分違わず、ウォーディアの表面に接触し、触れた瞬間、内に蓄えたエネルギーを一気に解放する。


 爆ぜる白光。閃光と共に発せられたのは、音すら裂くほどの強烈な電撃であった。


 ウォーディアの巨体が呻き、空気が震えた。水塊に痛撃を与えられる唯一の力――それが“電撃”である。


 ウォーディアは、魔力や精気を吸収し、還元する能力を持つが、唯一この電撃だけは、魔力へと変換することができない。電撃は水を構成ごと破壊する。構造を断ち、統一を壊す。


 この弱点を知り、かつ封印が破られる瞬間を予測して、間髪を入れず攻撃を差し込める者――それは、ただの偶然ではなく、すべてを見越した者のみがなし得る業であった。


 すなわち、そこに立つ“彼”は、あらゆる事象を承知の上で、すでにこの地に立っていた。


 触手と竜首が一斉に旋回し、攻撃方向を変える。すべての視線と意識が、一点へと集中する。そこに立つのは、黒髪に黒瞳を持ち、齢二十そこそこの一人の青年に過ぎなかった。


 彼の周囲に援軍らしき気配はない。肩で息をすることもなく、異能の発現も確認できない。ただ、手に持つのは雷の魔石――それだけである。


 物理攻撃は無意味。魔石の一撃も、決定打には程遠い。常識的に見れば、それは命を捨てに行くような愚行にしか見えない。


 だが、青年――アレクは、巨影を見据えたまま、確固たる意志を宿した眼で静かに宣した。


「町へは行かせない。お前の相手は俺だ」


 


 


 


 


 

 




 


 

 


 


 

 


 


 


 







 


 


 


 


 


 












 


 


 

 

 

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