次への障害③ 最終戦
フォーテンの宣戦布告を受け、アレクは無音の呼気とともに地を蹴った。二振りの刃が剣気を纏い、常人の視覚を置き去りにして突き進む――
しかし、フォーテンはそれより一瞬早く懐から小瓶を抜き、投擲した。
(右肩を負傷している以上、接近戦を嫌ったか)
アレクは即座に踏み込みを止め、飛来物を見極めようとする。
ボシュッ。
瓶は空中で破裂し、濃い煙幕を撒き散らした。途端に視界が奪われる。
その闇に紛れるように、フォーテンの声が響いた。
「――今度は、私の間合いで戦わせていただきます」
正体の知れぬ戦術。だが、ただの煙では終わるまい。
(苦戦は必至か)――アレクの背筋に微かな予感が走った。
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――フォーテンは、もとは王国中枢に仕える名門の子息であった。
生来の聡明さと名家の英才教育により、十二歳で宮廷に出仕、十八歳にして要人付きの近侍へ――異例の出世である。
だが折悪しく、その頃の王都は権力闘争の坩堝に沈んでいた。同僚は暗殺と粛清で粛々と消え、今日を生き延びても明日は知れぬ。主人に媚び、他勢力を牽制し、次の嵐に備えるだけの毎日。休息も慈愛もない三年間は、若き執事の心を荒ませた。
家族は金勘定ばかりに明け暮れ、彼の疲弊を省みない。
二十一歳の朝、ついにフォーテンはあらゆるもの――地位も名も家も――を棄てて王都を逃げ出した。
あてどない放浪の果てに倒れ伏し、彼を拾い上げたのが地方大商アルディである。
「大変だったね。だがもう大丈夫だ。ここで休み、働きなさい」
温かな言葉に、フォーテンは生まれて初めて“人の温度”を知った。
名も過去も捨て、新たに「フォーテン」と名乗った彼は、恩返しの思いで屋敷に尽くした。
一年後には執事長となり、以後も襲撃に怯えることなく、裏仕事に手を染める必要もない“陽だまり”の日々を支えてきた。
「恩などとうの昔に返してもらったよ。むしろ私の方こそ、君に救われている。」
アルディがそう笑った時、フォーテンは決意を新たにした。
――命を賭してこの主と、その一族の栄華を守り抜く、と。
ゆえにこそ、すべてを穢す侵略者――アレク――だけは、たとえ自らが何を失おうとも討ち果たす。
それが彼の、唯一にして絶対の矜持であった。
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ギン、ガギン――。
刃と鉄拳、相反する質量が硬質な火花を散らして衝突する。
フォーテンの籠手は肘下を鋼で覆い、掌には鉤爪。拳ごと斬り裂かれる危険は低く、逆に刃を受け止めさえすれば剣身を折ることすら可能だ。
だがアレクの双剣が拳以外――腕の継ぎ目や鎖骨――を捉えれば、その瞬間に勝負は決する。
双方、利害は拮抗。ゆえに視界を奪う煙幕は拳闘を主軸とするフォーテンに利し……通常なら、である。
アレクは気配を読む。
闇に紛れた拳の起伏すら逃さず、見えぬ一撃を刃でいなしていた。
──そろそろ合う。
そう判断し、呼気一つで踏み込みを変じた刹那。
「……ッ!?」
先ほどまで鮮明だった殺気が、瞬時に掻き消えた。
一瞬の逡巡。その代償に、胸元へ細い痛み――剣ではなく細身の刃物か。アレクは本能のまま跳躍し、間合いを裂いた。左脇の温もりが血であると悟り、眉をひそめる。
(気配遮断、音消し、武器の切替――あれは“結界型”か?)
思考する暇も与えぬ追撃が来る。空気が不自然に揺れ、その度に殺気が湧く。アレクは地面へ身を投げ、擦過傷を顧みず転がって回避した。
「ぐっ……!」
紙一重でかわし続けても微細な裂傷は増える一方。
反撃は控えた。闇雲に振れば、位置を見誤り刃を腐らせる。今は“耐え”、能力を見極める。
やがて連撃が途絶える。
痛む呼吸を整えつつ、アレクは仮説を束ねた。
•結界内では気配も音も遮断。
•魔術を試みれば封じられた。
•視界のみ煙幕頼み――長時間晴れぬのは、霧を固定する副効果か術具か。
ーー制限はあるが、化け物じみた“狩り小屋”だな
苦笑めいた独語をし、逆手に取る算段を練る。
耳を澄ませば、結界外に残していた“仕込みの術式”が起動する気配――風の脈動だ。
***
一方、霧中を舞うフォーテンは自信に満ちていた。
ーー防御一辺倒……次で終わる
殺意と共に鉤爪を振り下ろす。
この術は接近の気配を消し、刃が届く刹那まで敵は何も察知できない――はずだった。
「……消えた!?」
手応えごと標的が霧から抜け落ちる。動揺が走る。
ーー結界外へ? 魔術も身体強化も封じたはず……!
困惑を切り捨て、感知していた軌跡を追って結界そのものを滑らせる。だがその前に、霧の奥で微かな風圧――術式の起動兆候――を感じ取った。
「拙い!」
鉤爪を閃かせたが間に合わない。
暴風が結界内部の霧をまとめて薙ぎ払い、フォーテンの肢体すら吹き飛ばした。そこへ追い風のようにアレクが跳ぶ。音無き疾駆、背後に回り込み――
「終いだ。」
剣柄の打撃が背中を穿つ。
肺が圧し潰され、血泡が口から弾けた。
粗い息に膝を屈しながら、それでもフォーテンは闘志を消さない。
だが――背にのしかかる二本目の刃の重みが、彼に静かな敗北を告げていた。
背後で呻くフォーテンをそっと地へ伏せさせると、アレクは剣を払って息を整えた。霧は暴風に攫われ、修練場の高窓から沈みゆく夕日がほの赤い光条を引いている。
その光を受け、壁際に座り込んでいたフィアラがゆらりと立った。深紅の髪はまだ陽炎をまとい、琥珀の双眸に宿る焔もなお揺らめいている。だが肩で息を継ぐ様は限界の近さを示していた。
「フォーテンさんを……倒したのですね」
「生かしてはある。彼の力はこの先俺にとって必要なものだ」
淡々と告げるアレクの言に、フィアラは睫を震わせる。
「けれど、私は――私だけは退けません。あの方を、皆を守るためには……あなたを越えると決めましたから」
言い終えるや否や、一息で魔力を燃やす。彼女の周囲に紅蓮の輪が幾重にも咲き、空気が靡く。
対するアレクは動かない。双剣を逆手に構え、わずかに膝を屈めただけだった。
――尋常の一撃では終わらない。
互いにそう悟り、次の瞬間、地を蹴ったのはフィアラであった。残像を焼きつける突進、火焔は槍となり剣となって雷光のごとく降る。
しかし剣気の網が寸分違わず迎え撃つ。水の術式で冷却した刃は炎の内圧を奪い、火花と水蒸気が交錯した。
一合、二合――刹那に交わした剣戟は十を数え、修練場の床へ紅蒼の軌跡を走らせる。
だが、やがてフィアラの呼吸が乱れた。炎鎧がほころび、熱が制御を外れ始める。
アレクは好機を逃さない。左手の剣を叩きつけて進路を封じ、右の刃で炎そのものを縫い止めた。蒸気が爆ぜ、火は霧散する。
残ったのは、肩で息をつく少女の素顔だった。炎が剝がれ落ちた紅髪が静かに揺れる。
「……終わりか?」
尋ねる声に、フィアラは唇を噛み、けれど首を横には振らなかった。
抜き身を下ろしたアレクは、そのまま剣先で地を叩いた。淡い青光の陣が足元に展開する。
「燃え残った魔力を抑制する封陣だ。命と屋敷、両方守りたいなら力を鎮めろ」
静かな言葉が、降りかかる刃より鋭く胸を刺した。フィアラは崩れるように膝をつき、掌を陣へと重ねる。熱が吸われ、残るのはかすかな温もりのみ。
「……なぜ、殺さないのですか」
「殺す理由がない。誤解を招いたのは俺の行動が原因だ」
短い答えに、少女の瞳から大粒の雫が落ちた。
「私は……屋敷の穢れになるものとばかり……」
「力は在り様で価値が定まる。もしこの先穢れとフィアラが判断したらその時は俺を止めてくれ」
言い終えると同時に、遠く廊下から人声と足音が近づく。結界が解かれた証だ。
フォーテンが気を失ったままにいるのを見とめ、アレクはフィアラに背を向けた。
「アルディ様へは俺から話す。お前は彼を看ろ。意識が戻り次第、二人揃ってアルディ様のもとへ来い」
命令ではなく、共闘の誓約として。
フィアラは静かに頷き、倒れた執事長へ駆け寄った。炎の残滓はすでに消え、彼女の瞳だけが夕映えを映して朱く煌めいている。
こうして修練場の死闘は幕を閉じた。
だが、血と炎と水が交わった匂いは、来たる嵐を予感させるには十分だった――。